登録
ミアは、三日目の夕方に戻ってきた。
役所の裏口から出てきて、俺を見つけて、走ってきて、俺の上着を掴んで、そのまましばらく何も言わなかった。
痩せてはいなかった。飯は出ていたらしい。ただ、髪が乱れていて、袖の余った上着に泥がついていた。
役所の前には、他にも人が立っていた。中に入れられた誰かを待っている人たちだ。裏口が開くたびに、全員が顔を上げる。出てきたのが自分の待っている人でないと、また俯く。
俺が着いてから、二人出てきた。どちらも迎えの人間がいた。
迎えのいない人間が、この裏口から出ることは無い。
「ミア」
「うん」
「大丈夫か」
「大丈夫」
彼女は言った。「大丈夫。大丈夫だよ」
二回言った。
役所の中は、寒くも暑くもなかったという。部屋が一つあって、そこに七人いて、みんな身分の不備で入れられた人間だった。三人は言葉が通じなかった。
窓は高いところに一つあって、外は見えない。寝るのは床で、毛布は一人一枚。飯は朝と夕の二回、麦粥が出た。
「粥、おいしくなかった」
ミアは言った。「前線のより薄いの。水みたいだった」
「文句を言ったか」
「言わないよ。言ったら出られなくなると思ったから」
彼女は靴を脱ぎながら言った。
「あのね、ずっと考えてたの。ユールが来るかな、来ないかなって」
「来ると思ったか」
「思った」
「なぜ」
「ユール、手袋忘れないから」
彼女は言った。意味が繋がっていない。繋がっていないが、俺には分かった。
三日のあいだに、二人が出ていった。国外送りだと役人が言った。
「その人たち、どこ行くの」
「国境まで送られる」
「その先は」
「その先は、書かれてない」
俺は言った。
ミアはうなずいた。うなずいて、それ以上聞かなかった。
証言者登録の手続きは、翌日だった。
記録局の一室で、書記官が三人がかりでやった。ミアは椅子に座って、名前と、生年と、出生地と、母親の名を答えた。父親の欄は空白になった。彼女は父親を知らない。
生年のところで、少し止まった。
「何年か、分かる?」
「分かんない」
ミアは言った。「母さんが、大きい雪の年って言ってた」
書記官が三人で顔を見合わせた。一人が棚から気象の記録を持ってきて、めくって、十五年前の冬に大雪の記載があることを確かめた。
それで生年が決まった。
その手つきが、俺には妙に丁寧に見えた。この局の人間は、書くと決まれば、ちゃんと調べる。調べる仕組みは全部ある。使う理由が無かっただけだ。
父親の欄で、書記官が「不明と書きます」と言った。
ミアがそこで、初めて口を挟んだ。
「不明じゃなくて、無しって書けませんか」
「様式に無しの区分がありません」
「不明だと、いるけど分からないってことでしょ」
彼女は言った。
「いないんです。だから、無しで」
書記官は困った顔をして、俺を見た。俺は何も言わなかった。
しばらくして、彼は不明と書いた。
それが様式だからだ。
登録が終わって、ミアは紙を一枚渡された。
証言者証。彼女の名前と、登録番号と、【記名】五等という記載と、発行日が入っている。裏に、この者の証言は第四十三様式に記載しうる、と書いてある。
紙は薄かった。役所の証書にしては粗い紙で、局の事務用より質が悪い。
それでも、印は押してあった。
彼女はそれを両手で持って、ずいぶん長く見ていた。
「ユール」
「なんだ」
「これ、番号がついてる」
「ついてるな」
「番号がついてて、名前もついてる」
彼女は言った。
「両方あるの、初めてかも」
その晩、宿に戻ってから、彼女は言った。
「あのね、わたし、これ、返せないんだよね」
「返せない」
「一生?」
「一生だ」
俺は言った。
「どこに行っても、名前がついてくる。仕事を変えても、街を出ても、この国にいる限り、番号で引ける」
「隠れられないの?」
「隠れられない」
ミアは寝台の縁に座って、証言者証を膝の上に置いた。
「わたし、見られないの、得意だったのにな」
俺は何も言わなかった。
この子が司令部の廊下で三日かけて「見られない人」になったとき、俺はそれを使った。使って、代印に触らせた。あのときこの子は、少し得意そうにしていた。
その能力を、俺は今日、取り上げた。
「怒っていい」
俺は言った。
「怒ってない」
「怒っていいんだ」
「怒ってないってば」
彼女は膝の上の紙を撫でた。
「あのね、ユール」
「なんだ」
「わたし、母さんの札、持って出たの。連れてかれるとき」
彼女は言った。
「なんで持って出たか、分かる?」
「分からない」
「名前が要ると思ったから」
彼女は顔を上げた。
「あそこ、みんな名前が無かったの。七人いて、みんな。わたしは母さんの札があったから、姓だけは言えたの」
彼女は証言者証を持ち上げた。
「これがあれば、次は自分の名前が言える」
俺はしばらく黙っていた。
「ミア」
「なに」
「あの七人のことは、書き留められる」
彼女が顔を上げた。
「書き留められるの?」
「お前は証言者だ。お前が見たものは、第四十三様式に書ける」
俺は言った。
「三日間、あの部屋に七人いた。二人が出ていった。名前は分からない。分からないことも書ける」
ミアは証言者証を膝に戻した。
「名前、聞いておけばよかった」
「今からでも書ける。何人いて、何人出ていったかは、お前が見てる」
「うん」
「明日、書こう」
「うん」
彼女はうなずいて、それから、寝台に横になった。
しばらくして、彼女が言った。
「ユール」
「なんだ」
「一生ついてくるの、思ってたより、そんなに嫌じゃないかも」
俺は答えなかった。
「今はね。今は、嫌じゃない」
彼女は言った。
「あとで嫌になったら、言うから」




