渡すもの
局長室の扉の前で、俺は一度立ち止まった。
ハイムが横にいた。彼は何も言わずに待っていた。
どこまで渡すか、と彼は言った。全部渡す気で行くと全部取られる、と。
俺は上着の内側に手を入れた。ニナと十四夜かけて作った三十枚は、宿の床下にある。持ってきていない。持ってきていないのは、渡さないと決めたからではなく、渡すかどうかを決めていなかったからだ。
持っているのは、火口箱だけだった。
俺は扉を叩いた。
ミューレ侯爵夫人は、俺とハイムを見て、椅子を一つ増やさせなかった。ハイムは立ったままでいた。彼はそれを気にしていない様子だった。十二年、この部屋で立たされてきた男だ。
「連れが取られました」
俺は座らずに言った。
「身分の不備で。七日で国外に送られます」
「そう」
彼女は言った。それだけだった。
「止めてください」
「私が?」
「あなたなら止まります」
「止まりません」
彼女はあっさり言った。
「市の役所の手続きに、記録局は関われません。所掌が違います。私が口を出せば、私が越権になる」
俺は少し黙った。
この人は嘘をつかない。だから、いま言ったことも本当だ。彼女には止められない。
「では、根拠を作ってください」
「根拠」
「あの子が、この局にとって必要な人間だという根拠です」
俺は言った。
「三条を通してください。証言者氏名を付し、証言内容を付記する。通れば、あの子は証言者になります。証言者には身分の根拠が要る。要れば、局が作ります」
ミューレ侯爵夫人は、机の上で指を組んだ。
「あの子というのは、【記名】の五等ね」
「知っていましたか」
「異動願の縁者欄を見ました」
彼女は言った。「あなたが提出した書類は、全部読んでいます」
「縁者ではありません」
「知っています」
彼女はあっさり言った。
「ヴィッテ書記官の筆跡です。あの子は四年前から、時々、様式にないことをします。私は処分していません」
俺は少し黙った。
「なぜ処分しないんですか」
「言ったでしょう。規則どおりに動く組織は、規則の穴を見つけられません」
彼女は言った。
「あの縁者欄は、穴の一つです。誰かが突けば崩れる。今回、突かれた。それだけのことです」
「突いたのは誰ですか」
「知りません」
彼女は言った。「知っていても、言いません」
彼女は椅子の背にもたれた。
「アーレンス下士。三条を通す代わりに、あなたは何を出すの」
来た。
俺はハイムの言葉を思い出していた。全部渡す気で行くと、全部取られる。
俺は、渡すものを決めていなかった。決めていなかったが、扉の前に立ったときに、一つだけ思いついていた。
「何も出しません」
彼女の眉が動いた。
「何も?」
「はい」
「では、話にならないわ」
「なりません」
俺は言った。
「代わりに、一つ聞かせてください」
「聞く?」
「あなたが十二年、燃やしている理由です」
部屋の中が静かになった。
ハイムが小さく息を吸ったのが、後ろで聞こえた。
「答える理由がないわ」
「あります」
俺は言った。
「三条が通れば、証言内容を書き留められるようになります。書き留められれば、それは記録です。記録は、告白ではありません」
彼女の指が、組んだ形のまま止まった。
「あなたは五十年、書き留める仕事をしてきました。書き留められたものは真実になる、と自分で言った。でも、あなた自身が言ったことを書き留める様式は、この国にありません」
俺は言った。
「無いから、あなたは十二年、誰にも言えなかったんじゃないですか」
彼女は答えなかった。
窓の外で、雪が降っていた。硝子越しなので音がしない。この部屋は暖かくて、静かで、この国でいちばん多くの紙を動かす場所だ。
「あなたは」
彼女は言った。声の高さが、少しだけ変わった。
「私を、証言者にするつもり?」
「はい」
「私は局長よ」
「証言者には位階の規定がありません」
俺は言った。
「あなたが作った様式に、書いていません」
彼女は、そこで初めて、机から手を離した。
離して、椅子の肘掛けを握った。細い手で、力を入れていた。
「あなた、私が何を言うか分かっているの?」
「分かりません」
「分からないのに、通せと言うの」
「はい」
俺は言った。
「分かってから通したら、それは取引です。取引で入った証言は、あとで取引だったと言われて消されます」
俺は一歩前に出た。
「分からないまま通してください。そうすれば、あなたが何を言っても、それは記録になります」
長い沈黙があった。
ハイムが後ろで動かなかった。彼が何を考えているのかは分からない。分かるのは、この人が十二年、この部屋で立って、番号を言われて、燃やして、覚えてきたということだけだ。
ミューレ侯爵夫人は、引き出しを開けた。
俺が二度、紙を出されたのと同じ引き出しだ。
彼女は羽根ペンを取って、書き始めた。
「三条を通します」
彼女は書きながら言った。
「今日付けで、様式改訂。第四十三様式、四条立てとします」
「侯爵夫人」
「【記名】の子の身分は、証言者登録で処理します。今日中に役所へ通知が行きます。国外送りは止まるでしょう」
彼女は羽根ペンを置いた。
「ただし」
「はい」
「証言者登録は、永年保存です」
彼女は俺を見た。
「あの子は、これから死ぬまで、この国の記録の中にいます。どこへ行っても、名前が付いて回る。消えられません」
俺は動かなかった。
「それが、あなたが選んだことよ」
俺は扉のほうへ向かった。
ハイムが先に扉を開けた。彼は俺の顔を見て、何も言わなかった。
出ようとしたところで、後ろから声がかかった。
「アーレンス下士」
俺は振り向いた。
彼女は書き終えた紙を、まだ手に持っていた。
「私が何を言うか、あなたは本当に分からないの?」
「分かりません」
「見当もついていない?」
「見当は、ついています」
俺は言った。
「十二年前に、何かが始まりました。教会も、軍も、同じ年に記録の書き方を変えています。三つの国境で、同じ形の紙が消えています。そこまでを一人でやれる人間は、この国に何人もいません」
「私の名を挙げる気?」
「挙げません」
俺は言った。
「挙げたら、それは俺の推測です。推測は記録になりません」
彼女はしばらく何も言わなかった。
それから、手に持った紙を、机に置いた。
「いつ聞きに来るの」
「あなたが呼んでください」
俺は言った。
「呼ばれるまで、聞きに来ません」
扉が閉まってから、廊下でハイムが言った。
「よく我慢したな」
「我慢はしてません」
「聞きたかっただろう」
「聞きたかったです」
俺は言った。
「聞いても、書けないので」




