身分
ミアが帰ってこなかったのは、その四日後だ。
宿の主人は、朝に出ていって戻っていないと言った。仕事の日で、いつもどおりの時刻に出たという。
俺が気づいたのは夜だ。仕事から戻って、部屋に彼女がいなくて、最初は仕事が長引いているのだと思った。二の鐘が鳴っても戻らないので、宿の主人に聞いた。
主人は俺より先に心配していた。この街の宿の主人は、下働きが夜に戻らないと、まず逃げたと考える。逃げられると自分が損をするからだ。
「荷物は?」
「置いてあります」
主人は言った。「だから、逃げたんじゃないと思います」
俺は部屋に戻って、彼女の荷物を見た。
着替えが一枚と、木の匙と、宿でもらった半分の白いパンが、布に包んで置いてあった。
母親の洗濯札は、無かった。
あれはいつも上着の内側に入れている。持って出たということだ。
俺は仕事を抜けた。ブルク老人に一言だけ言って出た。彼は何も聞かなかった。
彼女が働いているのは、宿から近い別の宿だった。俺はそこへ行った。
主人は青い顔をしていた。
「昼前に、役人が来まして」
「どこの役人ですか」
「分かりません。文官の格好で、二人。うちの下働きの身分証を全部見せろと」
「それで」
「あの子のが」
主人は言葉を切った。
「不備がある、と」
俺は、その場で目を閉じた。
ヴィッテが用意した書類だ。ミアは俺の縁者ということになっている。実際には血縁ではない。従軍洗濯婦の娘で、母親が死んで、行き場が無くてうちの分隊に来た子だ。
あの書類は、様式にはない手配だった。
様式にない手配は、様式に当てはめて調べれば、必ず崩れる。
「どこへ連れていかれましたか」
「役所だとしか」
主人は言った。「すみません。止められなくて」
俺は宿を出た。
出て、通りで少し立ち止まった。
考えることは二つある。誰がやったか。どこにいるか。
誰がやったかは、考えるまでもない。
俺の書いた二十三行を五回読んだ男がいる。あの男は、自分の名が無いことを確かめた。確かめて、次に何をするか。
俺を止める方法を探す。
俺の身分は堅い。異動願も、処分書も、報告書も、全部様式どおりに綴じられている。俺を崩すには、綴じられた紙を全部崩さなければならない。
だが、俺の周りに、様式に合っていない人間が一人いる。
いちばん弱いところを突く。
この世界では、それがいつも同じ形をしている。名前が弱い人間から先に消える。二年間、俺はそれを言い続けてきた。言い続けてきて、自分の一番近くにそれを置いていた。
置いていたどころではない。
俺が連れてきた。
ハンナは反対しなかった。ミアの力は王都のほうがよく効くと言って、危険だと言って、それでも行けと言った。守れねえなら連れてくな、守れるなら連れてけ、と。
俺は守れると言った。
言った根拠は無かった。あのとき俺が考えていたのは、記録局に入るのに目が要るということだけだ。
通りを歩きながら、俺はそれを何度も反芻していた。反芻しても何も出てこない。出てこないので、歩く速さだけが上がった。
俺は軍務省に戻った。
戻って、まっすぐハイムの部屋に行った。彼は俺の顔を見て、羽根ペンを置いた。
「何があった」
「連れが取られました」
「身分か」
「はい」
「よくある」
彼はあっさり言った。「この街では、いちばん多い手だ」
「どこに行きますか」
「身分の不備は、まず市の役所に上がる。そこで確認が取れなければ、外国人扱いの区分に回される」
彼は立ち上がった。
「回されたら、七日で国外へ送られる。手続きが早いんだ。滞在の根拠が無い人間を置いておく規則が無いのでな」
「七日」
「七日だ」
彼は上着を取った。
「その七日のあいだに、根拠を作れば止まる。作れなければ止まらない」
俺は言った。
「根拠は、様式です」
「そうだ」
「その様式を作るのは、局長です」
ハイムの手が止まった。
彼は俺を見た。
「アーレンス下士」
「はい」
「君は今、何を考えている」
俺は答えなかった。
答えなかったが、たぶん顔に出ていた。ハンナがいつもそれを見抜いた。
三条を、もう一度出す。
証言者氏名を付し、証言内容を付記する。あの条文が通れば、ミアの【記名】による証言が、様式の上に載る。載れば、彼女は「証言者」になる。
証言者には、身分の根拠が要る。要れば、局が作る。
俺の集めたものを、全部差し出すことになる。
「あの人に、取引を持ちかけるつもりか」
「はい」
「やめておけ」
ハイムは言った。
「あの人は取引をしない。十二年見てきた。あの人は、必要なものを、必要なだけ取る。差し出されたら、差し出された全部を取る」
「知っています」
「知っていて行くのか」
「行きます」
俺は言った。
「あの子は十五です」
ハイムは、しばらく俺を見ていた。
「十五か」
「はい」
「私の下の娘と、同じ年だ」
彼は言った。
俺は少し驚いた。この男に家族がいることを、俺は一度も考えたことがなかった。十二年紙を燃やし続けてきた男という以外の顔を、想像していなかった。
「ハイムさん」
「言うな」
彼は手を上げた。
「言われると、私はこれを娘のためにやったことにできる。それは嘘だ」
彼は立ち上がって、上着を着直した。
「私も行く」
「あなたが行く理由は」
「十二年、蛇口を閉めずに床を拭いてきた」
彼は言った。
「一度くらい、蛇口のほうへ行く」
扉を出るとき、彼は一度だけ振り返った。
「アーレンス下士。局長室に入る前に、一つだけ決めておけ」
「何をですか」
「どこまで渡すかだ」
彼は言った。
「全部渡す気で行くと、全部取られる。取られてから、しまったと思う。私はそれを二度やった」
「二度」
「一度目は十二年前だ」
彼は言った。「二度目は、去年」




