届かない手紙
ゲルダから手紙が来たのは、その週だった。
ヴィッテを経由して、軍の定期便に混ぜてもらったらしい。宛先も差出人も書いていない。中に、俺の名を呼ぶ一行も無い。読まれても誰宛か分からないように書いてある。
ゲルダらしい書き方だった。
紙は野戦病院の記録用紙の裏だった。表には薬品の受払が途中まで書いてあって、途中で線が引いて消してある。書き損じを取っておいて、裏を使う人だ。前線ではみんなそうする。
『数を聞かれた件、こちらの分だけ先に書きます。
当院で今年、死亡として処理した者のうち、氏名の記載があるのは八割強です。残りは記章の無い遺体で、番号のみ。番号は当院で振ったもので、他のどこにも通じません。
つまり、あの番号は誰も引き当てられません。
これはひどいことです。ひどいのですが、私が言いたいのは別のことです。
私は十九年、この番号を自分で振ってきました。私が振らなければ誰も振らないので。振れば少なくとも、何人いたかは分かると思っていました。
今年、初めて、番号が足りなくなりました。
三桁で足りると思っていたのです。
資材が増えています。舟が積まれています。私のところに来る若い軍医が、渡渉時の溺者への対応を教えろと言ってきました。あれは、そういう訓練が始まっているということです。
私は溺者の蘇生を教えました。教えながら、意味が無いと思っていました。河であれをやると、引き上げるより先に撃たれます。
こちらの三人は無事です。ベルク軍曹が、王都で誰か火を借りに来たかと聞いています。
あなたが選んだことは、正しかったと思います。
正しかったので、そのぶん人が死にます。そういうものです。私は十九年、正しいことをして人を死なせる場所にいるので、分かります。
あなたは戻らないでください。
戻っても、あなたにできることは、私たちと同じことです。私たちが四人になっても、埋める速さはたいして変わりません』
俺はその手紙を、三度読んだ。
三度目に、最後の一行で止まった。
『三桁で足りると思っていたのです』
あの人は十九年、無縁の遺体に番号を振ってきた。振ってきて、今年、三桁を使い切った。
俺が河を渡ったのは、四月ほど前だ。
まだ渡河作戦は始まっていない。
始まっていないのに、もう足りない。
なぜ増えているのかを、俺はしばらく考えた。
考えて、思い当たった。
増員だ。人が集められている。集められた人間は、河のそばで暮らす。前線の宿営は水が悪い。人が増えれば腹が増える。腹が増えれば死ぬ。
戦う前に死ぬ。
あの前線で死んだ人間の半分近くは、矢でも砲でもなく、水と食い物で死んでいる。二年間、俺はそれを毎日拾ってきた。
渡河作戦は、まだ一発も撃たれていない。
それでもう、番号が足りない。
もう一つ、気になった箇所があった。
『あなたが選んだことは、正しかったと思います』
ゲルダは、俺が何をしたかを知らないはずだった。あの晩、河を渡ったことは知っている。だが、それが取引を止め、取引が止まったから線が動くのだという筋道は、俺がここへ来てから組み立てたものだ。
あの人は、それを自分で組み立てている。
器材の請求と、若い軍医の質問と、番号の減り方から。
俺は手紙を畳んだ。畳んでから、もう一度開いて、その一行を見た。
正しかったと思います、と書いてある。
思います、と書く人だ。断定しない。断定しないまま、そのぶん人が死にます、と続ける。
その晩、俺は宿の部屋で、ハンナの火口箱を出した。
真鍮の、へこんだ古い箱。王都に来てから一度も使っていない。
開けると、中に火打石と、干した苔と、小さく折り畳んだ紙が入っていた。
紙があるのは知らなかった。
開くと、字が書いてあった。ハンナの字だ。彼女が公文書に「ヨーゼフ」と書き足したときの、あの震えた字。
『わすれてもいい』
それだけだった。
俺は、その紙を、しばらく持っていた。
持って、それから、火口箱に戻した。
あの人は、出発の前の晩にこれを入れた。忘れねえって約束すんな、と言った同じ口で、忘れてもいいと書いて、渡した。
この人は、俺に行けと言うために、俺が忘れることを先に許した。
許されると、忘れにくくなる。
それを分かって書いたのか、分からずに書いたのかは、聞いていない。たぶん聞いても、そんなこと考えてねえよ、と言われる。
俺は箱を閉じて、上着の内側に入れた。
外に出ると、雪が降っていた。
王都の雪は湿っていて、地面に落ちるとすぐ水になる。前線の雪は乾いていて、積もる。積もった雪の上に死体を置くと、体温で溶けて、周りに輪ができる。あの輪の形を、俺は何度も見た。
冬に死んだ人間は、輪の中で見つかる。
だから冬は探しやすい。夏より冬のほうが仕事が楽だと、ハンナが言っていた。楽だという言葉を、あの人はそういう意味で使う。
この街では、それを知っている人間は一人もいない。
ミアが宿から出てきた。
「ユール、外、寒いよ」
「寒いな」
「なにしてるの」
「なにもしてない」
彼女は俺の横に立った。袖の余った上着を着ている。この子はこの二年、一度も自分の上着を持ったことがない。
「フォス先生から?」
「ああ」
「みんな、無事?」
「無事だ」
「よかった」
彼女はそう言って、白い息を吐いた。
「よかったね」
彼女は掌を上に向けて、雪を受けた。落ちた雪は、掌の上ですぐ水になった。
「王都の雪、消えるの早いね」
「そうだな」
「前線のは、積もったよね。積もったよ」
「積もった」
「わたし、あっちの雪のほうが好き」
彼女は言った。
「積もったら、足跡が残るから。誰か通ったのが分かるでしょ」
俺はその言葉を、そのときは何とも思わなかった。
思い出したのは、四日後だ。




