三条
ミューレ侯爵夫人は、俺の言葉に、すぐには答えなかった。
彼女は申請書を机に置いて、指で端を揃えた。この人が紙を揃えるのを、俺は初めて見た。ヴィーラント大尉も、ゾンマー次席も、同じことをする。この国の紙を扱う人間は、みんな同じ癖を持っている。
「アーレンス下士。一つ聞きます」
「はい」
「三条の証言者というのは、誰のこと?」
俺は答えなかった。
「答えなくていいわ」
彼女は言った。
「答えると、その人の名前がこの部屋に入ります。入ったものは、私が処理しなければならなくなる」
俺は口を閉じたままでいた。
彼女は申請書を持ち上げて、もう一度読んだ。読むというより、確かめる読み方だった。既に何度も読んでいる紙を、目の前でもう一度見る。
「一条と二条は通します」
彼女は言った。
「四条も通します。永年保存の指定は、廃棄目録に準ずるという理由がつく」
俺は動かなかった。
「三条は却下します」
彼女は言った。
「理由を書きます。『本局の所掌事務に属さないため』。これは正確な理由です。嘘ではありません」
彼女は羽根ペンを取って、その場で理由欄に書き込んだ。
書く速さが違った。この人は、書くことを迷わない。
「これで、様式は三条立てになります」
彼女は言った。
「番号を振ります。第四十三様式。今日から使えます」
俺は、少しのあいだ、意味を掴めなかった。
掴んでから、掌が冷えた。
通った。
三条は落ちた。だが一条と二条と四条は通った。廃棄目録の各行を照合して、不整合の行の番号と、廃棄年月日と、立会人の氏名を転記する。それを永年保存にする。
中身は書けない。だが、骨は書ける。
骨だけでも、棚に入る。
「侯爵夫人」
「なんでしょう」
「なぜ通したんですか」
彼女は羽根ペンを置いた。
「あなたは、私が通さないと思っていたの?」
「思っていました」
「なぜ」
「あなたが、燃やさせているからです」
部屋の中が、静かになった。
彼女は驚かなかった。眉も動かさなかった。ただ、椅子の背に少しもたれた。
「ハイム課長補佐ね」
「はい」
「あの人は十二年、誰にも言いませんでした」
彼女は言った。「あなたには言った。なぜだと思う?」
「分かりません」
「私にも分からないわ」
彼女は言った。
「でも、いずれ言うだろうとは思っていました。人は、十年を超えると、誰かに言いたくなるの。私は五十年この仕事をして、それを何度も見ています」
「では、なぜハイムさんを選んだんですか」
「覚える人だからです」
彼女はあっさり言った。
「私は、忘れる人には頼みません」
「なぜですか」
「忘れる人は、次に何を燃やしたか分からなくなる」
彼女は言った。
「同じものを二度燃やしたり、燃やしてはいけないものを燃やしたりします。私は数を管理しているの。管理には、覚えている人が要ります」
俺は、そこで一度、息を吸った。
この人の言い方には、罪の意識が無い。悪びれてもいないし、開き直ってもいない。帳簿の話をするときの、商人の口調に近い。
「覚えている人は、いつか喋りますよね」
「喋ります」
「それでも選ぶんですか」
「選びます」
彼女は言った。
「喋られて困ることは、私はしていません」
彼女は机の上で指を組んだ。
「アーレンス下士。あなたの様式は、私を刺しません」
「はい」
「刺せると思って出したなら、あなたは頭が悪い。刺せないと知って出したなら、あなたは何を狙っているの」
俺は少し考えた。
考えて、正直に言った。
「刺すためではありません」
「では」
「積むためです」
彼女は俺を見た。
「一件では何にもなりません。十件でも足りない。でも、様式ができれば、俺が死んだあとも誰かが同じ様式で書きます。書き続ければ、いつか、量が意味を持ちます」
俺は言った。
「あなたは五十年でこの局を作った。俺は五十年かけて、この一枚を積みます」
ミューレ侯爵夫人は、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、鐘が鳴った。三の鐘だ。昼飯が売り切れる時刻だと、ヨルクが言っていた。
「一つ、忠告します」
彼女は言った。
「三条は、日を変えてもう一度出しなさい」
俺は顔を上げた。
「却下は一度で終わりません。同じ条文を三度出せば、三度綴じられます。三度目の却下理由は、一度目とは違う書き方になります。書く人間が、同じ理由を三度書くのを嫌がるからです」
彼女は申請書を箱に入れた。
「二度目は『所掌外』。三度目は、たぶん誰かが本当の理由を書きます」
俺は椅子から立ち上がれなかった。
ブルク老人と、同じことを言われた。
二十年燃やしてきた男と、五十年書いてきた女が、同じことを言っている。
「侯爵夫人」
「なんでしょう」
「あなたは、どちら側ですか」
彼女は初めて、少しだけ表情を変えた。
「側は無いわ」
彼女は言った。
「私は棚よ」
「棚は何も選ばないでしょう」
「そうね」
彼女はうなずいた。
「選ばない。入れられたものを入れておくだけ。何が入るかは、私が決めていません」
「燃やす番号は、あなたが決めています」
「決めています」
彼女は言った。
「それも、棚の仕事です。棚は容量が有限だから」
「容量ですか」
「そう。あの建物には限りがあります」
彼女は窓のほうを見た。硝子の入った窓の向こうに、収蔵の三棟が見える。
「毎年、新しい紙が入ります。入る量は年々増えています。同じ量を出さなければ、あの棚は五年で溢れます。溢れたら、どこに置くと思う?」
「床です」
「そう。床に置かれた紙は、三年で読めなくなります。湿気と鼠で」
彼女は俺を見た。
「順番に燃やすのは、残すためです。全部残そうとすると、全部が読めなくなる」
俺は何も言えなかった。
言えないのは、それが正しいからだ。この人の言うことは、いつも正しい。正しくて、そのうえで、十二年前に三つの国境で同じ形の記録が消え始めている。
その二つは、たぶん、繋がっていない。
繋がっていないところに、繋げて使う人間がいる。
「アーレンス下士」
「はい」
「あなた、今、私を疑うのをやめたわね」
俺は答えなかった。
「やめないほうがいいわ」
彼女は言った。
「私が正しいことを言うのは、正しいことしかしていないからではありません。正しいことを言えるようになるまで、五十年かけたからです」
彼女は申請書の箱に手を置いた。
「下がりなさい。様式は明日から使えます」




