前線からの手紙
ヴィッテ書記官の返事が届いたのは、その週の終わりだった。
軍の定期便で、宿に届いた。封蝋は無く、ただ紙を折って糊で留めてある。書記官らしい節約の仕方だった。
俺は宿の階段で封を切った。部屋まで待てなかった。
中身は二枚あった。
一枚目は、俺の質問への答えだ。廃棄目録の所在と、閲覧の様式番号と、方面軍にも同じものがあること。すでに知っていることばかりだった。彼女の返事は俺が探し当てるより二十日遅い。それは彼女のせいではない。
一枚目の最後に、一行だけ余計なことが書いてあった。
『ベルク軍曹より伝言。乾酪はまだ出ています』
俺はその一行を、二度読んだ。
二枚目が、本題だった。
『以下は個人の書簡です。様式はありません。
貴殿が河を渡った月から、器材の所在確認に変更がありました。小舟が撤去され、以後、確認品目から外れています。私は今月、書くことがありません。
同じ月から、人員異動における異動先空欄の発行が止まっています。四年見てきて、初めてです。
喜ばしいことのように読めるかもしれませんが、そうではありません。
先月より、第四方面軍に増員が始まっています。今月に入って、渡渉用の資材の請求が急増しました。私の扱う所在確認の品目に、これまで無かったものが並び始めています。舟艇、綱、板、杭。数量が桁違いです。
私は器材のことしか分かりません。分かることだけ書きます。
この方面は、渡る準備をしています。
ヴィッテ』
俺は、その紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
フェリクスが向かいで飯を食っていて、俺の顔を見て、匙を置いた。
「何が書いてある」
俺は紙を渡した。
彼は読んだ。読み終わって、もう一度読んだ。
「これは」
「俺がやりました」
俺は言った。
「君が?」
「渡しが止まったのは、俺が河を渡ったからです」
俺は自分の手を見た。
「あの晩、俺は舟に乗って、向こう岸に金を置いて、帳簿を持って帰りました。名簿にいる人間が渡った。それが向こうにも分かった」
「なぜ分かる」
「向こう岸に人がいました」
俺は言った。
「顔は見えませんでしたが、あっちからは俺が見えていたはずです。毎月来ている人間なら、来るのがいつもの相手かどうかは分かる」
フェリクスは紙を置いた。
「それで、取引が止まった」
「止まりました」
「そして」
彼は言葉を止めた。
「線が動く」
俺は言った。
自分の声が、遠くから聞こえるようだった。
「十一年、この河が動かなかったのは、動かすと取引が崩れるからです。取引が崩れたなら、動かさない理由が無くなります」
「君のせいではない」
「俺のせいです」
「違う」
フェリクスは言った。
「君は取引を止めた。止まった取引の代わりに戦争をやると決めたのは、別の人間だ」
「決めた人間は、俺が止めなければ決めなかった」
「そうだ」
彼は言った。
「そして君が止めなければ、来月もあの河で誰かが腹を裂かれて金を運んでいた。来年も。十年後も」
彼は俺を見た。
「君は選んだんだ。選ばなかったことにするな」
俺は答えなかった。
答えられなかったのは、彼が正しいからだ。正しくて、それでも、腹の底が冷えたままだった。
前世で、俺はこの理屈を人に言ったことがある。
工場の設備を止めろと報告書に書いて、止めた結果、その工程が三月動かなくなって、下請けが二社潰れた。潰れた会社の社長が俺のところに来た。俺は言った。止めなければ次に人が死んでいた、と。
言われた側の顔を、俺は覚えている。
あの人は、俺の言うことが正しいと分かっていた。分かったうえで、それでも来た。
「フェリクス」
「なんだい」
「正しいことを言われても、腹の冷えは止まらないですね」
「止まらないよ」
彼は言った。
「止まったら、その人は次から選ばなくなる」
ハンナが河岸にいる。ダグが埋めている。ゲルダが野戦病院にいる。
渡河作戦をやれば、あそこは死体で埋まる。
埋めるのは、あの三人だ。
「渡河作戦は、何人死にますか」
「私は神官だ。軍人ではない」
「概算でいい」
彼はしばらく考えた。
「あの河幅で、対岸に築城された敵がいて、渡渉資材を集めているとなれば」
彼は言った。
「一万では足りないだろうね」
その夜、ミアが仕事から戻ってきた。
彼女は俺とフェリクスの顔を見て、すぐに何かあったと分かったらしい。上着を脱ぎながら、聞いた。
「前線?」
「ああ」
「みんな、無事?」
「今は無事だ」
「今は」
彼女はそこで止まった。止まって、俺の手元の紙を見た。読めるわけではない。それでも見た。
「ユール」
「なんだ」
「戻ったほうがいい?」
俺は答えられなかった。
戻れば、あの三人と一緒にいられる。一緒にいて、河岸で死体を拾って、名前を記録して、埋める。それは俺が二年やってきたことで、たぶん、いちばんうまくできることだ。
戻らなければ、ここで紙を積むしかない。積んだ紙は、渡河作戦を止めない。間に合わない。
「戻らない」
俺は言った。
「うん」
「間に合わないからだ」
「うん」
ミアは椅子に座って、靴を脱いだ。穴の空いた靴下が、また同じところに穴が空いていた。
「あのね、わたし、思うんだけど」
彼女は足の裏を擦りながら言った。
「間に合わないのは、今からだと間に合わないってことでしょ」
「そうだ」
「じゃあ、次は間に合うかもしれないよね」
彼女は顔を上げた。
「次があるのは、嫌だけど」
俺は手帳を開いた。
開いて、何も書かずに閉じた。
書くことが無かったわけではない。書くことが多すぎて、どれから書けばいいか分からなかった。二年間、俺は毎晩これを開いて、その日聞いた一文を書いてきた。一文だけなら、順番に困らない。
「ミア」
「なに」
「お前、母さんの洗濯物の札、まだ持ってるか」
彼女は少し驚いた顔をした。
「持ってるよ。持ってる」
「見せてくれ」
彼女は上着の内側から、小さな木の札を出した。指の長さくらいで、端に穴が空いていて、そこに紐が通してある。表に、震えた字で名前が書いてあった。
レンツ、とだけ。
「姓だけか」
「洗濯物は姓でいいの。名前まで書くと、字が小さくなって読めないから」
彼女は札を受け取って、両手で包んだ。
「これ、触っても、母さんの名前しか出ないの。当たり前だけど」
彼女は言った。
「当たり前なんだけどね」




