地下の指示書
フェリクスが宿に来たのは、深夜だった。
宿の主人を起こして、俺の部屋の扉を叩いて、返事も待たずに入ってきた。外套に雪が積もったままで、それが床に落ちて溶けた。
彼は手に何も持っていなかった。
「入ったのか」
「入った」
彼は椅子に座らず、立ったまま言った。
「何かあったか」
「あった」
「持ってきたのか」
「持ってきていない」
彼は自分の頭を指した。
「ここにある」
地下の書庫は、本院の礼拝堂の下にあるという。
階段を降りると気温が下がって、湿気で紙が傷むので、床に石灰を撒いてあるらしい。踏むと足跡が残るので、六年前は毎朝、当番が箒でならしていたとフェリクスは言った。降りた者が分かってしまうからだ。
彼はその晩、自分の足跡を、出るときに外套の裾で消した。
棚は三列で、記録局の第二収蔵に比べれば小さい。大陸中の埋葬簿が集まると言っても、埋葬は年に一度まとめて写しを作るだけだから、量は知れている。灯りは持ち込めない。火は厳禁だ。彼は月明かりの入る通気窓の下で読んだと言った。
「読めるのか、それで」
「読めない」
彼は言った。「だから、触った」
「触った?」
「綴りの厚さは、指で分かる。並びは覚えている。どこに何年のどの教区があるかは、体に入っている」
フェリクスは、リーゼ河沿いの教区の綴りを探した。
場所は知っていた。六年、写しを取る仕事をしていた男だ。地方ごとの並びは体で覚えている。
「無かったんだ」
彼は言った。
「無い?」
「いや、綴りはあった。あったが、薄い」
彼は指で厚さを示した。
「河沿いの教区は、大きい教区だ。人が多い。埋葬も多い。それが、内陸の小さい教区より薄い」
俺は何も言わなかった。
「私は最初、抜かれたと思った。頁を破ったんだろうと」
フェリクスは言った。
「調べた。破った跡が無い。糸も切っていない。最初から、その厚さで綴じられている」
「書かれていないのか」
「書かれていない」
彼は雪の溶けた床を見た。
「そして、綴りの一番前に、一枚だけ挟んであった」
「なんだ」
「指示書だ」
フェリクスは、目を閉じた。
覚えたものを思い出すときの顔ではなかった。思い出したくないものを、正確に言おうとする顔だった。
「『戦域に属する教区における埋葬記録の取扱いについて』」
彼は言った。
「一、軍の記章を有しない遺体は、埋葬簿に記載しないものとする。二、当該遺体の埋葬は、共同墓地の区画に番号を付して行う。三、遺族より照会があった場合は、当該教区に記録なしと回答する」
俺は動かなかった。
「日付は」
「十二年前」
彼は言った。
「署名は、本院の典礼監督。名はグリムベルト」
「その人は」
「八年前に死んでいる」
俺は椅子から立った。
立って、窓のところまで行って、閉じた鎧戸を見た。見ても何も無い。ただ、座っていられなかった。
十二年前。
ハイムが今夜燃やした硝石の受払記録も、十二年前だ。受領先の欄が全部白かったやつだ。
同じ年に、教会も、軍も、記録の書き方を変えている。
「三条が、いちばん悪い」
フェリクスが言った。
「遺族より照会があった場合は、当該教区に記録なしと回答する」
「はい」
「一条と二条は、まだ怠慢で説明がつく。書かない、番号で埋める。手間を惜しんだと言い張れる」
彼は言った。
「三条は違う。三条は、遺族が来ることを想定している。来ると分かっていて、返す言葉を先に決めてある」
俺は鎧戸から離れた。
前世で、同じものを見たことがある。事故のあと、遺族対応の想定問答が作られる。何を聞かれたら何と答えるか、紙に書いてある。あれを最初に見たときの気分を、俺はまだ覚えている。
あれは、事故のあとに作られていた。
この指示書は、先に作られている。
「フェリクス」
「なんだい」
「あんたが二年前に葬った子は、無授だったな」
「そうだ」
「それは、この指示書とは関係ないんじゃないか」
彼は少し黙った。
「関係ない」
彼は言った。
「無授の埋葬を禁じているのは、もっと古い教義だ。二百年前からある。私が破ったのはそっちだ」
「じゃあ、なぜ地下に入りたがった」
フェリクスは、そこで初めて椅子に座った。
座って、両手で顔を擦った。前線でも王都でも、この男が疲れた仕草をするのを見たことがなかった。
「あの子を葬ったとき、私は埋葬簿に名前を書いた」
彼は言った。
「書いてはいけないと知っていて、書いた。それが私の罪状だ」
「はい」
「二年経って、私は思ったんだ。あの名前は、今どうなっているんだろうと」
彼は顔を上げた。
「書いた頁が残っているのか、消されたのか、そもそも私が書いたことになっていないのか。それが知りたかった。それだけだった。指示書のことなんか、私は何も知らなかった」
「あった のか」
「あった」
彼は言った。
「私が書いた名前は、そのまま残っていた。誰も消していない。誰も気づいていない」
彼は少し笑った。今度は、ひどい笑い方ではなかった。
「二年、無駄に怯えていたよ」
俺は座り直した。
「フェリクス」
「なんだい」
「教会に戻るのか」
彼は答えなかった。
答えずに、しばらく床の水たまりを見ていた。
「戻れないな」
彼は言った。
「戻れば、私はあの指示書を読んだ人間として戻ることになる。読んだ人間が内側にいると、いつか口を滑らせる。彼らはそれを分かっているから、私を内側に入れたがった」
「入れたがった?」
「内側の人間は、外に喋れないんだよ」
彼は立ち上がって、外套の襟を直した。
「私はこれから、宿を探す。ヴェルナーの部屋にはもう戻れない。彼が鍵を置いていったことがばれる」
「ここに泊まれ」
「いいのかい」
「部屋は狭いぞ」
「馬房よりましだろう」
彼はそう言って、初めて、少し笑った。




