埋葬簿
フェリクスが宿に来たのは、その翌々日だった。
三日に一度は顔を出す男が、その週は来ていなかった。来たとき、彼は左の頬に痣を作っていた。
「転んだ」
「聞いてない」
「聞かれる前に言ったほうがいいと思ってね」
彼は椅子に座って、袖口を直した。相変わらず爪は手入れしてある。
「フェリクス」
「なんだい」
「どこに泊まってる」
「知人のところだ」
「その知人に殴られたのか」
「知人はそんなことをしない」
彼は言った。「知人の上役がした」
俺は待った。
この男は、待てば喋る。喋らないでいるのが下手な人間だ。
「埋葬簿を見ようとしている」
フェリクスは言った。
「本院の地下に、大陸中の埋葬簿が集まっている。各地の教区から毎年送られてくる。私はそこで六年、写しを取る仕事をしていた。だから場所も、並びも、知っている」
「入れないのか」
「入れない。籍が凍結されている」
彼は指を組んだ。
「破門の可否は、まだ決まっていない。決まっていないので、私は教会の人間でもないし、教会の人間でなくもない。中途半端な状態の人間には、鍵が渡らない」
「二年、決まってないんですか」
「決めないのが処分なんだよ」
フェリクスは言った。
「破門にすれば、私は自由になる。教会の外の人間になって、好きなことを言える。籍を戻せば、私は内側の人間になって、規則に縛られる。どちらでもない状態にしておけば、私は何もできないまま、待ち続ける」
彼は袖を直した。
「上手いやり方だ。感心する」
「知人というのは」
「同期だ」
彼は言った。「六年、同じ机で写しを取った男でね。彼が寝床を貸してくれている」
「その上役が、殴った」
「私が地下に降りようとしたからだ」
フェリクスは、そこで少し笑った。ひどい笑い方だった。
「殴られたのは、実はどうでもいい。前線で二年、私は毎日、死体を運ぶ手伝いをしていた。頬を打たれるくらい、なんでもない」
「じゃあ何が問題ですか」
「そのあと言われたことだ」
「なんて」
「戻ってきていい、と言われた」
彼は言った。
「破門は取り下げる。籍も戻す。前線での二年も、記録から消してやる。ただし、埋葬のことは二度と口にするな、と」
「消してやる、というのは」
「そのままの意味だ」
フェリクスは言った。
「私が前線にいた二年間を、無かったことにする。療養扱いにするそうだ。書類の上で、私はこの二年、王都の南の療養院にいたことになる」
彼は自分の手を見た。爪は手入れしてあるが、指の甲に細かい傷が残っている。前線で二年、死体を運んだ手だ。
「悪い話ではないんだよ」
彼は言った。
「本当に、悪い話ではない。籍が戻れば、私は【聖句】を使える場所に戻る。二等の治癒を、必要な人間に使える。前線では、腐りかけた傷に三度使って、それでも助からなかった」
「キリアンさんですね」
「あれは私のせいではない。土で殺されたんだからな」
彼は言った。「それでも、王都の病院にいれば、あの三度で三人助けられた」
俺は何も言わなかった。
言うことは無かった。この男が何を選ぶかは、この男が決めることだ。
「君は何も言わないんだね」
「言うことがないので」
「止めないのか」
「止めても意味がないです」
俺は言った。
「あなたが戻るなら戻るし、戻らないなら戻らない。俺が何か言ったら、あなたはそれを理由にする。理由にすると、あとで俺のせいにできる」
フェリクスは、しばらく俺を見ていた。
それから、大きく息を吐いた。
「君は本当に、人を材料としてしか見ないな」
「はい」
「そこがいい」
彼は立ち上がった。
「同期の名はヴェルナーという。彼は明日から三日、本院を留守にする。地方の教区に写しを届けに行くんだ。鍵は彼が持っていく」
「じゃあ入れないでしょう」
「彼は、鍵を置いていくと言った」
俺は顔を上げた。
「彼は何も知らない。私が何を探しているかも聞いていない。ただ、私が二年前に何をして前線に送られたかは知っている」
フェリクスは扉のところで止まった。
「八つの子だ、と言ったろう。洗濯婦の子で、神授を受ける前に死んだ」
「はい」
「あの子を私のところへ連れてきたのは、ヴェルナーだ」
彼は言った。
「彼が連れてきて、私が葬った。私は前線に行って、彼は残った。彼はそれからずっと、同じ机で写しを取っている」
扉が閉まった。
俺はしばらく座っていた。
この街に来てから、俺は同じ形のものを何度も見ている。ヴィッテが四年間棚を間違えていること。ゾンマーが六年間控えを取っていたこと。ニナが六年間、燃やす前に読んでいること。ヴェルナーが二年間、鍵を持ったまま同じ机にいること。
誰も、止めていない。
誰も、諦めてもいない。
全員が、自分にできるいちばん小さいことを、誰にも言わずにやっている。そしてそれは、一つずつでは何の役にも立っていない。
役に立たないまま、何年も続いている。
前世で、俺は同じものを見ていた。
事故が起きた工場には、必ず、前から危ないと言っていた人間がいた。日誌の隅に書いていた人間、口頭で上に言った人間、図面に赤を入れた人間。全員が別々に、誰にも聞かれずにやっていた。事故のあとで調べると、必ず出てくる。
出てくるが、遅い。
あれを繋げるのが俺の仕事のはずだった。繋げて、一本にして、報告書にする。俺は一度もそれを間に合わせられなかった。間に合わなかったから、書いても握り潰された。
握り潰されたのは、遅かったからだ。
俺は手帳を開いて、四つ並べて書いた。
ヴィッテ。ゾンマー。ニナ。ヴェルナー。
書いてから、五つ目に自分の名前を書いた。
六つ目の欄を空けた。
埋葬の穴の、数字が読めなくなった杭のことを考えていた。あの杭を立てたのは誰かで、その誰かも、たぶん、自分にできるいちばん小さいことをしたつもりだったのだと思う。名前は書けないが、杭は立てた。




