番号を持つ人
ミアが宿に戻ってこない日があった。
三日目のことだ。俺は夜のうちに宿の主人に聞いて、下働きの休みの日だと知った。休みの日に、彼女はどこかへ行っている。
四日目の夜、俺は待っていた。
彼女は遅くに帰ってきた。裾が汚れていて、靴が濡れていて、手が真っ赤だった。冬の水で洗い物をしたときの手だ。
「ミア」
「あ。ユール」
「どこ行ってた」
「下のほう」
彼女は言った。「川の、南」
王都の南は、川沿いに低い地区が広がっている。俺は行ったことがない。行く理由が無かった。
「何しに行った」
「フォス先生に頼まれたやつ」
彼女は上着を脱いで、椅子の背にかけた。袖が余っているのは相変わらずだ。
「記録されずに死んでる人が何人いるか、調べてきてって言われたでしょ。あれ、ユールが忙しいから、わたしがやってる」
俺は何も言えなかった。
頼まれたのは俺だ。俺は王都に来てから一度も、そのことを考えていなかった。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってる顔してる」
「自分にだ」
ミアは椅子に座って、靴を脱いだ。靴下に穴が空いていた。
「あのね、数えられないの」
彼女は言った。
「数えられない?」
「うん。数えるっていうのは、名前を数えるってことでしょ。名前が無いと、数えられない」
彼女は足の裏を手で擦った。
「向こうでね、教会の人に聞いたの。埋葬簿を見せてくださいって。そしたら、そこには載ってない人がいるって言われて、その人たちはどこに埋めてるんですかって聞いたら」
彼女は言葉を切った。
「穴がある」
「穴」
「川の南の、外れのほう。柵で囲ってあって、番号だけついてる」
彼女は顔を上げた。
「名前じゃなくて、番号なの。何番の穴に何人、って」
その週の休みに、俺はミアと二人でそこへ行った。
川を越えると、家が低くなった。二階建てが減って、平屋が増えて、平屋が板囲いになって、板囲いが布になった。人は多い。前線より多い。
においがした。王都の中心には無かった、あのにおいだ。
といっても、前線のそれとは違う。前線のにおいは死んだものと消毒のにおいで、ここのは生きているものが多すぎるにおいだった。人と、煮炊きと、汚水と、その全部が動いていない。
道は舗装されていなかった。冬の水が溜まって、溜まったところが凍りかけていて、その上を人が歩くので、泥が跳ねる。歩いている人の裾は全員汚れていた。ミアの裾が汚れていた理由が分かった。
子供が多かった。多くて、痩せていて、こちらを見ない。前線の兵は俺の徽章を見て目を逸らす。ここの子供は俺を見もしない。見て得るものが無いと知っているのだと思う。
穴は、街の外れの、道から少し外れたところにあった。
柵は低くて、腰までしかない。柵の内側に、土の盛り上がりが並んでいる。それぞれに杭が一本立っていて、杭に数字が焼き付けてあった。
数字だけだ。
名前は無い。
俺は数えようとして、途中でやめた。
杭は、見える範囲で二十本以上あった。一本が一つの穴で、一つの穴に何人入っているかは分からない。柵の奥のほうは草が伸びていて、そちらにも杭があるのが見えた。古い杭は焼き印が薄れていて、数字が読めない。
読めなくなった杭が、いちばん奥に並んでいた。
俺はその前に立った。
どのくらい立っていたか分からない。ミアが袖を引くまで、たぶん、ずいぶん長く立っていた。
「ユール」
「ああ」
「あそこ」
彼女が指したのは、柵の外だった。
柵の外の、道端に、人が横になっていた。
寝ているのではないことは、遠くからでも分かった。前線で二年やれば分かる。姿勢が違う。生きている人間は、寝ていてもどこかに力が入っている。
女だった。三十くらいか、もっと若いかもしれない。痩せている人間は年齢が分からない。
俺は膝をついた。
誰も見ていなかった。人は通っていたが、誰も足を止めなかった。見ていないのではなく、見て、そのまま歩いていった。
俺は手袋を外した。
外して、少し手を止めた。
王都に来てから、一度も外していない。二年間、毎日外していたものを、四十日以上、外していなかった。
指を、女の首に当てた。
——洗濯物、取り込まなきゃ。
彼女の声だった。少し高くて、早口で、たぶん生きているときはよく笑う人だったんだろうと思わせる声。
洗濯物、取り込まなきゃ。
俺は指を離した。
頭の後ろが冷える感覚は、四十日ぶりでも同じだった。忘れていなかった。体は覚えている。
ミアが横に立っていた。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「なんて」
俺は言おうとして、少し止まった。
「洗濯物を取り込まないと、って」
ミアは動かなかった。
しばらく動かないでいて、それから、しゃがんだ。
彼女は女の手に触れた。
触って、目を閉じて、そのまましばらくいて、それから、目を開けた。
「持ち物、無い」
「無い?」
「何も持ってない。持ってたら名前が残るのに、何も持ってない」
彼女は立ち上がった。
「上着も、たぶん、誰かのだと思う」
俺は手帳を出した。
誰にも読めない文字で、書いた。日付と、場所と、一文を。
四百四十二人目。
書いてから、その下に、書けないことに気づいた。
名前の欄が、書けない。
二年間、四百四十一人ぶん、俺は名前の欄を空けたことがなかった。記章があれば番号が分かる。番号が分かれば名簿がある。名簿があれば名前がある。前線には、少なくとも、その仕組みがあった。
ここには無い。
「ユール」
「なんだ」
「この人、どうなるの」
「たぶん、あの穴に入る」
「番号がつくの?」
「つく」
ミアは、しばらく黙っていた。
「番号は、記録なのかな」
彼女は言った。
「番号があるってことは、いたってことでしょ。いたことは残ってるでしょ。でも、誰かは残ってない」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
その日の夕方、俺は近くの詰所に届けた。無縁の遺体の届出は誰でもできる。書式は一枚で、記入する欄は場所と、発見時刻と、届出人の名前だけだった。
死んだ人間の欄が無い。
俺は余白に、一行書いた。
『発見時、当人の所持品なし。着衣は他人のものの可能性あり』
書記の男が、それを見て、少し困った顔をした。
「これ、書く欄じゃないんですけど」
「余白です」
「まあ、いいですけど」
彼は書類を箱に入れた。
あの箱がどこへ行くのかは、俺が知っている。仕分けられて、綴じられて、棚に入る。番号がついて、年限がついて、いつか炉に行く。
この一行も、そのときに燃える。
それでも、燃えるまでは残る。




