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死体の声しか聞こえないハズレスキル【遺言】で、俺は戦場の掃除係に落とされた 〜死んだ兵士は嘘をつかない。  作者: 音


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見た名前

その夜、俺は宿に戻らなかった。

 軍務省の中庭に座って、朝まで考えていた。冬に凍る廊下の話をしていたヨルクが正しくて、夜の中庭は本当に寒かった。それでも部屋に戻る気にならなかった。

 十一年前の異動記録。異動先が空白。給養の実績。

 渡しは、十一年続いている。帳簿の累計欄がそう言っていた。そして今、十一年前の紙が、慌てて燃やされている。

 誰かが、始まりを消している。

 なぜ今なのか、というのが分からなかった。

 十一年、誰も気づかなかったものだ。放っておけばあと十一年、誰も気づかない。それをわざわざ、年限より前に、自分で抱えて、燃えるまで見届けている。

 誰かが慌てている。

 慌てているということは、何かが動いている。俺が動かしたのかもしれないし、まったく関係のないところで動いているのかもしれない。前線で俺が河を渡ったのは、二十日ほど前だ。十日で王都に着く距離を考えると、ちょうど合う。

 合いすぎている気もした。

 朝の鐘が鳴って、俺は立ち上がった。膝が固まっていて、しばらくうまく歩けなかった。

 その日の午後、俺は呼び出された。

 呼びに来たのはヨルクで、彼はいつもより早口だった。

「アーレンスさん、局長室です」

「局長」

「ミューレ侯爵夫人です」

 彼は言って、それから、少し声を落とした。

「新任が呼ばれるのは、普通は三年目です」

「三年目に何があるんですか」

「昇進の面談です」

 彼は言った。「昇進しない人は、呼ばれません」

 俺は階段を上がった。

 三階まで上がると、廊下の様子が変わった。床の石が磨いてあって、埃が無い。窓に硝子が入っている。前線の少佐の部屋と同じで、この国では、暖かい部屋と硝子の窓が、そのまま階級を表している。

 局長室は、第一収蔵の上の階にあった。

 部屋は広くなかった。机が一つと、椅子が二つと、壁に棚が一つ。棚には十冊ほどしか綴りが入っていない。あの巨大な収蔵室を持つ建物の頂点に、十冊しか置いていない部屋がある。

 机の向こうに、女が座っていた。

 六十に近い。髪は白く、後ろで一つにまとめている。上っ張りではなく、きちんとした上着を着ている。手が細くて、指にインクの染みが無い。

 この人は、もう何年も自分で書いていない。

「アーレンス下士」

 彼女は俺を見た。目が明るい灰色で、瞬きが少なかった。

「かけて」

 俺は座った。

「あなたの名前を、三箇所で見たわ」

 彼女は言った。

 俺は動かなかった。

「第四方面軍の回収報告、証言記録、参考資料。同じ人の署名が三つの棚に入っている。あれは様式にありません」

「はい」

「誰の仕業か、見当はついています」

 彼女は机の上で指を組んだ。

「ヴィッテという書記官です。四年前から、時々、棚を間違えます。間違え方に一貫性があるので、間違いではないと分かります」

 俺は何も言わなかった。

「あの子を処分する気はありません」

 ミューレ侯爵夫人は言った。

「棚を間違える人間は、必要だからです」

「必要、ですか」

「規則どおりに動く組織は、規則の穴を見つけられません」

 彼女は言った。

「私は五十年この仕事をしています。この局は、正しく動けば動くほど、間違いを見つけられなくなる。だから、時々、規則を破る人間を残しておくの。破らせて、どこが破れるかを見る」

 俺は、そこで初めて、この人がどういう人間か分かった気がした。

 分かった気がしただけで、たぶん、何も分かっていなかった。

「あなたは、廃棄目録の閲覧許可を取りましたね」

「取りました」

「理由は、番号体系の習熟」

「はい」

「三日で四年ぶん見たそうね」

 俺は答えなかった。

 彼女は少し笑った。笑うと、目尻に深い皺が出た。

「その速さで読める人間は、この局に四人しかいません。あなたを入れて五人」

 彼女は棚のほうを見た。十冊しか入っていない棚を。

「アーレンス下士。あなたは何を探しているの」

 俺は、答えを用意していなかった。

 用意していなかったので、本当のことを言った。

「燃やされたものです」

「なぜ」

「燃やされたということは、誰かが困るということです」

「誰が困るの」

「分かりません」

 俺は言った。「だから探しています」

 ミューレ侯爵夫人は、しばらく俺を見ていた。

 瞬きが少ないので、見られていると落ち着かない。前線で少佐に見られたときとは、種類の違う落ち着かなさだった。あれは人間として見られていない不快さだった。これは、見られすぎている不快さだ。

「一つ、教えてあげましょう」

 彼女は言った。

「あなたは真実が強いと思っている」

 彼女は椅子の背にもたれた。

「かわいそうに。真実は、書き留められるまで、ただの噂よ」

 俺は口を開いた。

「では、書き留められたものは」

「真実になります」

「起きたことでなくても、ですか」

「起きたことでなくても」

 彼女は言った。

「それが私の仕事です」

 彼女は棚から一冊、綴りを抜いた。十冊しか入っていない棚の、左から三冊目だ。

「二十二年前、南部で洪水がありました。堤が切れて、村が四つ流れた」

 彼女は綴りを開かずに、膝の上に置いた。

「堤を管理していたのは州の代官です。彼は前年、修繕費を別のことに使っていました。それが原因です。私はその報告を読みました」

「処分されたんですか」

「されていません」

 彼女は言った。

「報告は、堤の設計そのものに問題があったという内容に書き換えられました。設計をしたのは四十年前の技師で、既に死んでいます。死んだ人間には処分が要らない」

「あなたが書き換えたんですか」

「私が承認しました」

 彼女は俺を見た。瞬きをしなかった。

「今、南部の堤は全部、二十二年前の設計基準で作り直されています。予算がついたのは、設計に問題があったと書かれたからです。代官を処分していたら、あれは一人の不正の話で終わって、堤は元のままでした」

「四つの村は」

「戻りません」

 彼女は言った。

「戻りませんが、その後の二十二年、南部で堤は切れていません」

 俺は何も言えなかった。

 言えなかったのは、反論が無いからではない。反論はある。書き換えを覚えた人間は次も書き換えるし、代官は生きたまま出世した。だがそれを言えば、この人は「あなたの言うとおりです」と言うだろう。言ったうえで、堤は切れていないと繰り返すだろう。

 ヴィーラント大尉と同じだ。

 全部合っていて、それが問題なのだ。

 彼女は机の引き出しを開けて、一枚の紙を出した。

 俺のほうへ滑らせた。

 異動命令だった。第二収蔵から、第一収蔵付。廃棄業務の補佐。

「明日から、燃やす側に来なさい」

 彼女は言った。

「探しているものが燃やされているなら、燃やす場所にいたほうが早いでしょう」

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