白いパン
王都ヴィントに着いたのは、前線を出てから十一日目の昼だった。
最初に気づいたのは、匂いがしないことだった。
前線には常に匂いがある。泥と、消毒に使う酢と、油と、燃やした藁と、その全部の下にある甘い匂い。二年もいると鼻が慣れて、無いことに気づかなくなる。無い場所に来て初めて、あったことが分かる。
王都は、匂いがしないのではなく、別の匂いがしていた。人と、石と、煮炊きの煙と、下水。どれも生きている人間の匂いで、死んだものの匂いが一つも混ざっていない。
ミアは荷車の上に立ち上がって、街を見ていた。
彼女はここに来るまでの十一日間、ずっと元気だった。宿場町のたびに何か拾ってきては触って、持ち主の名前を当てて遊んでいた。フェリクスがそれをやめさせようとして、三回とも失敗した。
だが王都に入った途端、彼女は黙った。
黙って、荷車の縁を両手で握って、口を半分開けたまま、通りを見ていた。
「ミア」
「うん」
「どうした」
「人が」
彼女は言った。
「人が、多い」
多かった。
前線で人が集まるのは、点呼のときと、処刑のときと、配給のときだ。それ以外に人が並ぶことは無い。ここでは誰もが歩いていて、誰も並んでいなくて、それでいて、どこを見ても人がいた。
「戦争、してるんだよね」
ミアが言った。
「してる」
「してるように、見えない」
フェリクスは、荷車の後ろを歩いていた。
王都に入ってから、彼は一度も口をきいていなかった。前線では喋りすぎるくらい喋る男が、ここでは黙って、外套の襟を立てて、俯いて歩いている。
「フェリクス」
「なんだい」
「知り合いに会いそうか」
「会うよ」
彼は言った。「この街は狭い」
彼は北の方角を顎で示した。屋根の連なりの向こうに、白い塔が二本立っている。白冠教会の本院だ。
「あそこで六年、学んだ」
彼はそれだけ言って、また黙った。
その夜、宿の食堂で、俺たちは白いパンを出された。
三人とも、しばらく手をつけなかった。
フェリクスが最初に割った。断面を見て、少し匂いを嗅いで、それから口に入れた。噛んで、飲み込んで、しばらく黙っていた。
「うまいかい」
彼は自分に聞くように言った。
「うまいね。実にうまい」
ミアは自分の皿の上のパンを見ていた。手を伸ばさない。
「ミア」
「これ、ほんとに小麦?」
「小麦だ」
「全部?」
「全部だ」
彼女はパンを持ち上げて、光にかざした。それから、指で押した。ぼそぼそ崩れなかった。押した指の跡が残って、離すと戻った。
彼女は、それを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
俺は自分の分を食った。うまかった。うまいと思った瞬間に、腹の底が少し冷えた。
この街の人間は、これを毎日食っている。
河のこちら側とあちら側で、地面の硬さが違ったのと同じだ。同じ国の、同じ小麦の、同じ制度の中で、食っているものが違う。前線でおがくずのパンを食って死んだ四人と、この街でこれを食っている人間は、同じ王国にいる。
「ユール」
ミアが言った。
「わたし、これ、半分残していい?」
「食っていいぞ」
「うん。けど、半分残す」
彼女は言った。
「あとで、これがどんなのだったか、思い出したくなると思うから」
軍務省は、王宮の南の区画にある。
一つの建物ではない。五つか六つの棟が中庭を囲んでいて、そのうち北側の三棟が記録局だと聞いた。着任の手続きに二日かかって、三日目の朝に、俺は初めて中に入った。
案内したのは、俺と同年輩の書記官だった。彼は歩きながら喋り続けた。この建物の廊下は冬に凍る、二階の東の窓は開かない、昼飯は三の鐘までに行かないと売り切れる。実務的な話ばかりで、悪くなかった。
階段を上がって、扉を開けて、彼は言った。
「ここが第二収蔵です」
俺は足を止めた。
部屋ではなかった。
天井が高い。三階ぶん抜いてある。その高さの壁が、全部、棚だった。床から天井まで、四方の壁が全部、綴りで埋まっている。上のほうへ行くには梯子を使う。梯子が壁に沿って何本も掛かっていて、その上で人が働いていた。
中央にも棚が並んでいる。列と列の間は、人がすれ違えるかどうかの幅しかない。
そしてこれが、三棟のうちの一つの、一部屋だ。
「何冊ありますか」
俺が聞くと、案内の書記官は少し考えた。
「知りません」
「数えたことは」
「無いと思います」
彼はあっさり言った。
「数えるのに何年かかるか、という話になって、それを数える人員を出せるかという話になって、出せないという話になったと聞いています。十年くらい前ですかね」
俺は棚を見上げた。
この中のどこかに、ヴィーラント大尉の引き出しの中身がある。ゾンマー次席が六年書いたものがある。俺が署名した訂正記録と、三つに分けられた報告書と、墓を掘り返した処分書がある。
全部ある。全部あって、誰も読まない。
梯子の上で、誰かが綴りを抜いて、別の場所に差した。抜いたときに埃が落ちて、高い窓からの光の中を、ゆっくり降りてきた。
この部屋には音がある。紙の音と、梯子が木の床を擦る音と、遠くで誰かが咳をする音。それだけだ。誰も喋らない。喋る必要がないからだ。
前線の音とは何も似ていなかった。似ていないのに、俺は少し、あの馬房を思い出した。天井が低くて、ダグが毎日頭をぶつけていたあの場所を。
あそこにも、音は三つしか無かった。
「アーレンス下士。持ち場はこちらです」
案内された机は、窓から遠い、棚と棚の間だった。
机の上に、綴りが積んであった。俺の背の高さの半分ほど。
「今日の分です」
「これを、どうするんですか」
「読んで、番号を確かめて、正しい棚に戻します」
彼は言った。
「毎日出ます」
ミアは、宿の下働きに入った。
王都で十五の子供が働き口を得るのは難しくないが、身分証の要らない仕事は限られる。ヴィッテが用意した書類には、彼女は俺の縁者ということになっていた。様式にはない手配の、三度目だ。
フェリクスは、宿には泊まらなかった。
どこにいるのかを聞くと、彼は「知人のところだ」とだけ言って、それ以上は言わなかった。三日に一度、顔を出す。顔を出すたびに、少しずつ機嫌が悪くなっていった。




