向こう岸
結局、舟には二人しか乗れなかった。
平底の小さい舟で、ハンナと俺が乗ると、縁が指二本ぶんしか水面から出なかった。ダグは乗れなかった。乗れば沈む。彼は葦の中に立って、俺たちが押し出されるのを見ていた。
その晩の空は曇っていた。渡す側にとってはいい晩だ。
舟を出したのは、あの痩せた男だった。
彼は最初、俺が乗ると言ったときに反対した。反対したが、飯の話をされると黙った。俺は彼に、今月の分は俺が渡ったことにして、特別支給は彼が受け取れるように書類を作ると言った。ヴィッテが手配してくれた。様式にはない手配だ。
「岸に印がある」
彼は舟を押しながら言った。
「砂州の、流木が三本重なってるところだ。そこに置いて、置いたら、そこから二十歩上流を見ろ。石が積んである。取るものはその下だ」
「人はいますか」
「いる」
彼は言った。
「いるが、話しかけるな。向こうも話しかけてこない。俺は四回行って、四回とも、離れたところに立ってるのを見ただけだ」
流れは思っていたより速かった。
櫂は一本しかないので、漕ぐというより、舵を取って斜めに流されるだけだ。ハンナが後ろで櫂を握り、俺は前で水を掻いた。手が凍えて、途中から感覚が無くなった。
舟の底から水が上がってきていた。継ぎ目のどこかが緩んでいる。俺は片手で掻きながら、もう片方の手で水を掬って外に出した。掬っても掬っても、量は変わらなかった。
河の真ん中まで来ると、両岸が見えなくなった。
曇っていて、月も星も無い。水面と空の境目が分からなくて、自分がどちらを向いているのかも分からなくなる。分かるのは流れの向きだけで、それを頼りに斜めに保つ。ハンナがときどき短く「右」「そのまま」と言った。彼女は十一年この河を見てきたので、水の音で流れの筋が分かるらしい。
途中で、何かが舟の腹に当たった。
軽い音だった。木か、それに近いもの。俺は手を止めて、暗い水面を見た。
流木ではなかった。
人だった。うつぶせで、腕が水の上に出ていて、そのまま下流へ流れていった。うちのものかキルシュのものかは、暗くて分からなかった。分かったとしても、俺たちにできることは何も無い。
ハンナは何も言わなかった。俺も言わなかった。
舟は、そのまま進んだ。
対岸に着いたのは、出てから半刻ほど経ってからだった。ずいぶん下流に流されていて、砂州を探すのに、そこからさらに時間がかかった。
砂は硬くて、歩くと足が沈まない。前線のこちら側の泥に慣れた体には、地面が硬いというだけで妙な感じがした。同じ河の、同じ距離で、地面の質が違う。
流木が三本重なった場所は、すぐ分かった。
俺たちは持ってきたものを置いた。
持ってきたものというのは、あの男が渡してきた麻の小袋だ。中身は見た。金だった。金貨と、南で使われている銀の板が混ざっていて、重さはダグが量った。
置いて、二十歩上流に歩いた。
石が積んであった。
その石の脇に、人が倒れていた。
俺は足を止めた。ハンナが後ろで息を呑むのが分かった。
うちの兵だ。長靴の踵の潰れ方でわかる。うつぶせで、砂に半分埋まっていて、水が引いたときの筋が体の上を横切っていた。
先月、置いてこられた死体だ。
腹が開いていた。開いて、そのままだった。誰も縫っていないし、誰も埋めていない。向こう側が片付けるんだろうとキリアンは言っていたが、片付けていなかった。ただ、そこに置かれていた。
俺はしゃがんだ。
「アーレンス」
「はい」
「一月経ってる。聞こえねえだろ」
「聞こえません」
俺は手袋を外した。
外して、それでも触った。
何も聞こえなかった。冷たいだけだった。半日を過ぎた死体は、何も言わない。二年間で四百四十何回か、それを確かめてきた。
俺は手を離した。
立ち上がろうとして、やめた。もう一度しゃがんで、その男の襟を直した。砂が入っていたので、指で払った。意味のない動作だ。半日を過ぎた死体に、俺ができることは何も無い。
それでも、襟を直した。
「アーレンス」
ハンナが小さく言った。「時間がねえ」
「はい」
石を持ち上げると、下に油紙の包みがあった。指が二本ぶんの厚さ。手に取ると、思っていたより軽かった。
その包みを上着に入れて、立ち上がったところで、上流のほうに人影が見えた。
二十歩か三十歩、離れている。一人。動かない。
こちらを見ていた。
俺は動かなかった。手を上げることも、下げることもしなかった。相手が武器を持っているかどうかは、暗くて分からない。持っていたとしても、この距離で外す理由が無い。
ハンナが俺の袖を引いた。行くぞ、という意味だ。
俺は動かなかった。
人影も動かなかった。
その男は——背格好からして男だと思う——俺と同じくらいの背丈で、外套の裾が風に動いていた。装備の音がしなかった。武装していないか、していても留めてある。
しばらくそうしていて、それから、その人影が、砂の上の死体のほうを指した。指して、それから、自分の胸のあたりを、二回、軽く叩いた。
何の合図か、俺には分からなかった。
埋めていなくてすまない、という意味かもしれない。あるいは、自分もいつかああなる、という意味かもしれない。あるいは、何の意味も無いのかもしれない。
分からないまま、俺も同じことをした。死体を指して、胸を二回叩いた。
人影は、少しのあいだ動かなかった。
それから、背を向けて、歩いていった。
歩き方に見覚えがあった。葦の切れ目を選んで進む、あの書記官の歩き方に似ていた。何度も同じ場所を歩いた人間の歩き方だ。
この男も、たぶん、毎月ここに来ている。
帰りは泳いだ。
舟は置いてきた。流れに乗れば向こうから戻ってくるとハンナが言って、実際、翌朝に葦原の下流で見つかった。
水は冷たくて、途中から自分の手が見えなくなった。ハンナが俺の襟を掴んで、二度、引き上げた。二度目のとき、彼女が何か怒鳴っていたが、水の音で聞こえなかった。
岸に上がったとき、俺は撃たれなかった。
誰もいなかった。
葦の中でダグが待っていて、俺たちを引き上げて、毛布をかけた。ゲルダが火を焚いて待っていた。
誰も撃たれなかったことについて、その晩、誰も何も言わなかった。
だが俺は、上着の内側の油紙が濡れていないかを、火に当たりながら三度確かめた。




