行かなきゃ飯が出ない
月が細くなるまで、あと二日だった。
王都に行くかどうかを決める前に、俺は一つだけやっておきたいことがあった。
今月の渡しを、止める。
止めれば、少なくとも今月は誰も河を渡らない。誰も撃たれない。それだけのことだが、それだけのことを二年間、誰もやらなかった。
問題は、誰が渡るのかを知る方法だった。
名簿から抜かれた人間は、名簿を見ても分からない。それが名簿から抜くということだ。
ヴィッテが教えてくれた。
彼女は記録局の棚から、空欄の異動の綴りを持ってきて、机の上に広げて、指で示した。
「異動先が空欄の紙は、出るときに必ず一枚だけ、別のところにも写しが行きます」
「どこですか」
「給養です」
彼女は言った。
「人がいなくなれば飯を減らすので。減らすためには、誰を減らすか書かないといけません。空欄の異動でも、給養だけは名前が要ります」
俺は彼女を見た。
「じゃあ、名前は残ってるんですか」
「残っています。四年前から、私はそれも別の棚に入れています」
ヴィッテは綴りを閉じた。
「入れているだけで、何もしていませんでしたが」
名前は三つあった。
今月、給養から抜かれて、異動先が空欄になっている兵が三人。
残り二人のうち一人は、既に見つからなかった。天幕は畳まれていて、そこにいた男がどこへ行ったか、周りの誰も知らなかった。知らないというより、いたことを覚えていなかった。名簿から抜かれた人間は、抜かれた時点で、周囲の記憶からも薄くなる。人は名簿を通して人を覚えるからだ。
もう一人は、若かった。十六か十七で、渡しのことを何も知らなかった。ただ「特別支給が出る仕事がある」と言われて、承知したところだった。俺が説明すると、彼は最初、信じなかった。信じてから、震え始めて、止まらなくなった。
ハンナがその子を連れていった。どこへ連れていったかは聞かなかった。翌日、その子の名前は給養の名簿に戻っていた。ヴィッテが「様式にはない手配」を二度目にやったのだと、あとで知った。
三人目は、その晩のうちに見つかった。
工兵隊の外れの天幕で、一人で座っていた。
三十くらいの男で、痩せていて、目が落ちくぼんでいた。俺が名前を呼ぶと、彼は驚きもせずに顔を上げた。呼ばれることに慣れているという顔だった。
「アーレンス伍長といいます」
「烏か」
彼は俺の徽章を見て、それから、少し笑った。
「早いな。まだ死んでねえよ」
「明後日の晩、河を渡りますね」
彼の笑いが止まった。
だが、否定はしなかった。天幕の中は暗くて、灯りは油の残り少ない皿が一つだけだった。彼はその灯りを見ていた。
「行かないでください」
俺は言った。
「先月、六人が河から上がったところで撃たれています。撃ったのはこちら側です。行けば、たぶん同じことになります」
男はしばらく黙っていた。
それから、聞いた。
「飯はどうなる」
「え」
「俺は先週、給養から抜かれてる」
彼は言った。
「明日から、俺の飯は無い。列に並んでも名簿に無いから渡されない。渡しに行けば、行った日の分と、帰ってきた日の分が出る。特別支給ってやつだ。それで一月しのぐ」
俺は何も言えなかった。
「行かなきゃ飯が出ないんだよ、伍長」
彼は灯りを見たまま言った。
「あんた、行くなって言いに来たんだろ。行かなかったら、俺は明後日から何を食えばいい」
「俺の分を渡します」
「一人ぶんか」
「はい」
「あんた、明日も明後日も、その次の月も、俺に飯をくれるのか」
俺は答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
男は初めてこちらを見た。怒っていなかった。責めてもいなかった。ただ、疲れた顔で、少し困っているだけだった。
「悪いな。あんたは悪くない」
彼は言った。
「けど、あんたが来なけりゃ、俺は明後日、何も考えずに舟に乗れたんだ。今は考えちまうだろ。考えながら乗るのは、しんどいんだよ」
俺は天幕を出た。
外でハンナが待っていて、俺の顔を見て、何も聞かなかった。
二人で歩いて、河のほうへ下りていって、葦の見えるところまで来て、そこでようやく彼女が口を開いた。
「止められなかったな」
「はい」
「そりゃそうだ」
彼女は言った。
「飯だからな。飯には勝てねえよ、正しさじゃ」
俺は葦原を見ていた。
この向こうに、泥に埋めた舟がある。明後日の晩、あの舟は掘り出されて、水に浮かべられて、三人のうちの誰かが乗る。乗った人間は向こう岸で油紙の包みを受け取って、泳いで帰ってきて、岸に上がったところで、こちら側から撃たれるかもしれない。
止める方法は、二つしか思いつかなかった。
一つは、舟を壊すこと。壊せば今月は渡れない。だが来月には新しい舟が埋まる。ヴィッテがそう言っていた。
もう一つは、俺が乗ること。
「軍曹」
「言うな」
彼女は先に言った。
「言うな。言ったら殴る」
「俺が乗ります」
彼女は本当に殴った。
拳ではなく平手で、耳のあたりに来て、しばらく音が変になった。
「馬鹿かお前は」
「痛いです」
「痛くしたんだよ」
ハンナは息を吐いた。
「なんで乗る。言ってみろ」
「あの人が乗らなければ、あの人は撃たれません」
「お前が撃たれる」
「俺は名簿にいます」
俺は言った。
「名簿にいる人間を撃つと、記録が残ります。先月、六人が撃たれたのは、あの六人が名簿にいなかったからです」
ハンナは、口を開けたまま、俺を見ていた。
「……お前、それ、本気で言ってるのか」
「はい」
「試すのか。自分で」
「試します」
俺は言った。
「二年間、名前が無いと殺していいことになる、って言い続けてきました。だったら逆も言えるはずです。名前があれば、殺しにくい」
「それが違ったら死ぬぞ」
「はい」
彼女は俺の肩を掴んだ。掴んで、揺すって、それからやめた。
「一つだけ条件だ」
「なんですか」
「俺も行く」




