反対
ハンナは、話を聞き終わるまで一言も挟まなかった。
石の小屋の中で、俺はヴィーラント大尉とのやりとりを全部話した。代印を十四年持っていること。九年前に村の上申を握り潰したこと。俺たちを河岸に送ったのは拾わせるためだったこと。そして、王都に行けと言われたこと。
話し終わると、彼女は干し草巻きに火をつけて、一本吸い切ってから、床で揉み消した。
「反対だ」
「はい」
「理由を言うぞ」
「お願いします」
彼女は膝に肘をついて、身を乗り出した。
「一つ。お前は今、あの大尉と、あの書記官の、両方から同じ場所を指されてる。二人が同じ方向を指してるとき、たいていそこには穴がある」
「はい」
「二つ。お前が抜けたら、うちの隊は明日から何の保護もねえ。感状も乾酪も、お前が書類を出したから来たんだ。お前がいなくなれば、来月には元の馬房に戻される。それは俺は構わねえ。だが、ミアが戻れると思うか」
俺は答えなかった。
ミアは入口の近くに座って、膝を抱えていた。この話が始まってから、一度も顔を上げていない。
「三つ目が本題だ」
ハンナは言った。
「王都に、死体は無い」
小屋の中が、少し静かになった。
「お前の力は、死体に触らねえと使えねえ。半日以内だ。王都で人が死ぬとしたら、それは病気か老衰か、路地で刺されるかだ。軍務省の中で人が死ぬことは、まず無い」
彼女は俺を指した。
「お前は、自分の武器を置いていくことになる」
それは、俺が三日間ずっと考えていたことだった。
考えて、答えを一つ出していた。出した答えが正しいかどうかは分からない。だが、口に出したことはなかった。
「軍曹」
「なんだ」
「俺の力は、一度も何も解決してません」
彼女が眉を上げた。
「ケーニヒの件を思い出してください」
俺は言った。
「あのとき、俺が聞いたのは『あのパン、砂の味がした』だけです。あれは何の証拠にもなってません。おがくずを見つけたのはミアが持ってた食い残しで、目方を割り出したのはダグで、帳簿を見せたのはフォス先生で、伯爵を動かしたのは商会の支払い記録です」
「そりゃそうだが」
「六人の件も同じです。俺が聞いたのは『舟が、ない』と『寒い』と『母さん』です。あれで何が分かりましたか」
ハンナは口を開いて、閉じた。
「舟のことは、お前が引っかかったから見つかったんだろ」
「引っかかっただけです」
俺は言った。
「俺の力は、どこを調べればいいかを教えるだけです。そこから先は全部、紙と、人の手です。俺は二年間それを勘違いしてました。自分だけが真実を知ってると思ってた」
フェリクスが、珍しく口を挟まずに聞いていた。ゲルダは腕を組んだまま動かない。
「王都に死体が無いのは、そのとおりです」
俺は続けた。
「でも王都には紙があります。この方面の引き出しの中身が、全部集まる場所です。俺が調べたいのは、もう死体じゃない」
ゲルダが、そこで初めて腕をほどいた。
「一つ訂正させて」
「なんですか」
「王都に死体は無い、というのは間違いよ」
彼女は言った。
「王都には死体がたくさんあるわ。ただ、戦死者じゃないだけ。病人と、老人と、赤ん坊と、飢えた人。人口が多い場所は、死ぬ人も多いの。それが数えられていないだけ」
小屋の中が、少し静かになった。
「数えられてないんですか」
「無授の死は届出義務がないの」
ゲルダは言った。
「財産相続権が無い人間の死は、相続に影響しないから、記録する必要がない。そういう法律よ。だから王都の下町では、毎日、誰かが記録されずに死んでる」
彼女は俺を見た。
「あなたの力は、王都でも使えるわ。使う相手が変わるだけ」
ハンナは長いこと黙っていた。
それから、新しい干し草巻きを出して、火をつけずにくわえた。
「そこまで考えて言ってんなら、俺が言うことは一つだけだ」
「はい」
「お前、王都に行ったら、俺たちのことを忘れるぞ」
彼女は言った。
「忘れねえって言うだろ。言うのは知ってる。だが忘れる。屋根のある部屋で、紙をさばく仕事を三年やったら、河岸で泥に膝まで浸かって舟を探した四日間は、思い出すのが面倒な記憶になる」
「なりません」
「なる」
彼女は言い切った。
「俺は十一年ここにいる。ここから出ていったやつを何人も見送った。手紙を書くって言って出ていって、最初の年は書いてくる。二年目は減る。三年目は来ない。悪いやつじゃなかったんだよ、みんな」
彼女は火をつけないままの干し草巻きを口から外して、指で回した。
「だからな、アーレンス。行くなら、忘れる前提で行け。忘れねえって約束すんな。約束されると、忘れられたときにこっちが惨めだ」
その夜、ミアが外に出てくるのを、俺は待っていた。
あの子は必ず出てくる。何か言いたいことがあるとき、みんなの前では言わずに、あとから一人で来る。
案の定、来た。
「ユール」
「なんだ」
「わたし、乾酪、もう食べなくていいよ」
彼女は言った。
「食べなくていい。長靴も返す。石鹸も返す。全部返すから、それで大丈夫なら、返すよ」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。
「馬房、寒かったけど、平気だったし。平気だったよ、わたし」
「ミア」
「だから、あの、行かなくてもいいなら」
彼女はそこで言葉を切った。
切って、そのまま、しばらく地面を見ていた。
「行くんだよね」
「行く」
「うん」
彼女はうなずいた。
「じゃあ、いい」
彼女は小屋に戻りかけて、途中で足を止めた。
「あのね、ユール。わたし、怒ってないから」
「怒っていい」
「怒ってないよ」
彼女は言った。
「怒ってるんじゃなくて、その、置いていかれるのが、慣れてるだけ。慣れてるから、平気ってわけじゃなくて、慣れてるから、平気な顔ができるだけなの」
俺は何も言えなかった。
この子はときどき、十五とは思えないことを言う。言ってから、自分でも驚いたような顔をする。今もそうだった。
「変なこと言った」
「言ってない」
「言ったよ。忘れて」
彼女は小屋に戻っていった。
入口のところで一度止まって、振り返らずに、こう言った。
「ユール、手袋、忘れないでね」




