引き出しの中身
ヴィーラント大尉の執務室は、前と何も変わっていなかった。
書類の束と、机の端の欠けたインク壺と、油で曇った窓。彼は俺が入っていくと、書類を揃える手を止めずに、椅子を勧めもせず、こう言った。
「謹慎中の伍長が、外を出歩いてはいかんな」
「はい」
「墓を掘ったそうだな」
「掘りました」
「なぜ掘った」
「代印を出させるためです」
彼の手が、止まった。
揃えかけた書類が、少しずれたまま机の上に残った。彼はそれを直さなかった。直さないのを見たのは、初めてだった。
「ミアが触りました」
俺は言った。
「判に、いちばん古く、いちばん多く残っていた名前は、大尉、あなたのものです」
窓の外で、誰かが荷車を引いていく音がした。車輪が石を噛んで、跳ねて、また転がる音。
ヴィーラント大尉は、書類を脇にどけた。
机の引き出しに手をかけて、開けた。
中には、いつかと同じように、書類がぎっしり詰まっていた。詰まりすぎて、上のほうが波打っている。彼はその上に手を置いて、しばらくそのままでいた。
「私は、この方面の代印を十四年持っている」
彼は言った。
「持っているというより、誰も引き取らないので、置きっぱなしにされている。前任者が死んで、私が受け取って、それきりだ」
「六人を撃たせましたか」
「撃たせていない」
彼は言った。
「あの晩の所在確認に代印を押したのは私だ。押した紙が何に使われるかは、押すときには分からん。押したあとで分かることもある。分かっても、押した紙は戻ってこない」
「知っていて押したことは」
「ある」
彼は即答した。
「何度もある。数えていない。数えたら続けられなくなるからだ」
彼は引き出しの中から、一枚だけ引き抜いた。皺が寄って、縁が茶色くなった紙だ。机の上に置いて、俺のほうへは向けなかった。
「九年前だ。ある中隊が、村を一つ焼いた。命令ではない。若い中尉が判断を誤って、それに部下が乗った。死んだのは兵ではない」
彼は紙の端を指で押さえた。
「上申が来た。私はそれを引き出しに入れた」
「なぜですか」
「上げれば、その中隊は解体される。当時、あの正面を支えていたのはあの中隊だけだった。解体すれば線が下がる。線が下がれば、後ろの町が焼ける。町のほうが村より大きい」
彼は紙を戻した。
「私は、少ないほうを選んだ。九年前も、去年も、先月も。毎回そうしてきた」
「合ってましたか」
「合っていた」
ヴィーラントは言った。
「全部合っていた。それが問題なのだ、伍長。私は九年間、一度も間違えていない。間違えていないのに、この引き出しはこんなに重い」
俺は、少し黙っていた。
この人は、俺に嘘をついていない。第一部でケーニヒの書簡を通したときも、この人は嘘をつかなかった。追い返したのも本当だし、机の上の紙を見なかったのも本当だ。
だから今も、本当のことを言っている。それがいちばん悪い。
「大尉。河岸に行けという地図を、うちの分隊に出したのはあなたですね」
「そうだ」
「なぜですか」
彼は引き出しの中を見ていた。
「拾わせるためだ」
「え」
「あの六人は、拾われなければ存在しない。工兵の処理に任せれば、記章の無い遺体はまとめて焼かれて、それで終わる。十四年、そうしてきた」
彼は顔を上げた。
「君の分隊は、名前を必ず記録する。ベルク軍曹がそういう規則を作っている。そして君は、死体の最後の一文を聞く」
「知っていたんですか」
「授与式の記録は、全部この建物にある」
彼は言った。
「私は十四年、この方面のあらゆる紙を見てきた。五等の【遺言】が一人、死体回収に回されたことも、二年前に読んだ」
俺は、そこでようやく理解した。
あの朝の地図。代印だけの命令書。誰も命じていないことになっている任務。
あれは、この人が、自分では出せない命令を出した紙だった。
「拾わせて、どうするつもりだったんですか」
「どうもしない」
ヴィーラントは言った。
「私は十四年、この引き出しに紙を入れてきた。入れたものは、なかったことになる。私はそれを止められなかったし、止める気もなかった。止めれば、もっと悪いことが起きたからだ。補給が止まって人が死ぬ。作戦が漏れて人が死ぬ。私は、少ないほうを選び続けた」
「それで?」
「選び続けた結果が、これだ」
彼は引き出しを、もう少し引いた。
奥のほうに、紙が詰まりすぎて折れ曲がっているのが見えた。何年ぶんあるのか分からない。
「君に一つだけ、正直に言おう」
彼は言った。
「私は疲れた」
俺は何も言わなかった。
「六十になる。あと数年で退く。退けば、この引き出しは次の誰かに渡る。次の誰かは、私と同じことをする。何も変わらん」
彼は引き出しから手を離した。
「だから、君に拾わせた」
「俺に、何をさせたいんですか」
「何もさせたくない」
ヴィーラントは言った。
「私は君に、この引き出しを開けさせたいわけではない。開けても中身は紙だ。紙は燃える。私が死ねば誰も読まん」
彼は椅子の背にもたれた。
「私が君にさせたいのは、王都に行くことだ」
俺は顔を上げた。
「この引き出しは、この方面のものだ。同じものが、王国中の方面軍に一つずつある。全部の引き出しの中身が集まる場所が、王都に一つある」
「軍務省記録局」
「そうだ」
彼は言った。
「あそこの引き出しは、燃やしても消えん。あそこにある紙は、燃えたという記録が残るからだ」
俺は、ヴィッテ書記官の顔を思い出した。
あの葦原の夜、彼女は俺に、記録局に来ないかと言った。中に入れば棚に手が届く、と。
あれは、彼女が勝手に思いついたことではないのかもしれない。
「大尉」
「なんだ」
「記録局の増員募集は、あなたが出させましたか」
彼は答えなかった。
答えずに、机の上の書類を、また揃え始めた。今度は丁寧に、角を揃えて、まっすぐにした。
「謹慎は三日で解く」
彼は言った。
「そのあいだに、決めておくといい」




