あのパン
三班の宿舎は、うちより少しましな建物だった。
石造りで、屋根が半分残っている。ということは、半分は残っていない。雨がまっすぐ入ってきていた。
四人は奥に並べられていた。誰かが顔に布をかけていて、それが一枚だけ足りていなかった。四人目は顔が出たままだ。
「うちの班長が、明日でいいって言ったんだけどな」
案内した若い兵が言った。歯が鳴っている。寒いからじゃない。
「臭いが」
「そうか」
「その、すみません。慣れてなくて」
「慣れなくていい」
俺は膝をついた。
ミアがランタンを持って横に立つ。手が少し震えているが、こぼさない。この子はいつもこぼさない。
一人目。三十くらいの男。頬がこけて、口の周りが乾いて割れていた。脱水だ。腹の中身を全部出してから死んだ顔をしている。
手袋を外す。指を首に当てる。
——水。
水。それだけ。
俺は指を離した。頭の後ろが冷える。手帳に書く。
二人目。もっと若い。目を開けたままだった。ミアが小さく息を吸った。俺は瞼を下ろしてやってから触れた。
——ばあちゃんち。
ばあちゃんち。
これが一番きつい。呻きや祈りより、こういうのが一番きつい。死ぬ間際に頭に浮かぶのは、たいてい何でもない場所だ。
書く。
三人目。顔に布がかかっていた男。めくると、目の下にひどい隈があった。俺のと似ている。触れる。
——腹が。
書く。
四人目。顔が出たまま放置されていた男。三十半ば。手のひらに硬い肉刺がある。荷馬車の手綱を握る人間の手だ。輜重兵かもしれない。
俺は指を当てた。
——あのパン、砂の味がした。
手が止まった。
ミアが俺を見た。「ユール?」
俺は答えなかった。
もう一度触れようとして、やめた。二度目は無駄だ。一体につき一度だけ。二度目に返ってくるのは沈黙で、その沈黙も忘れられなくなる。
あのパン、砂の味がした。
死ぬ間際に、この男はそれを考えていた。水でも家族でも故郷でもなく、食ったパンのことを。
人間は死ぬときに、直前の疑問を持っていく。俺は四百三十六人分の遺言を書き取ってきて、それだけは分かっている。答えの出なかった疑問を抱えたまま死ぬやつが、一定数いる。
この男は、パンについて何かを疑っていた。
「ユール、書かないの? 書かないの?」
「書く」
俺は書いた。それから、その一行の下に線を引いた。
線を引いたのは初めてだった。
二年間、四百三十六人分。全部、書き取って、日付を入れて、それで終わりにしてきた。読み返したこともない。読み返すと声が戻ってくる。
でも、この一行には線を引いた。
「ミア」
「なに」
「今日のパン、まだ持ってるか」
ミアは首をかしげてから、上着のポケットから紙包みを出した。半分残っていた。この子は何でも食うが、半分は必ず残す。母親が死んでからそうしているらしい。
俺は受け取って、割った。
断面を、ランタンの光に当てた。
黒くて、粗くて、ぼそぼそしている。それは前線のパンの普通だ。
でも。
俺は指で潰した。粉になった。その粉を指の腹で擦った。
ざらつきがある。石臼の粉じゃない。石臼の粉はもっと細かい。これは繊維だ。細かく砕いた、木の繊維。
おがくずだ。
「ユール、なにしてるの」
「ミア。これ、誰のだ」
「え?」
「このパンの袋。配給のとき、袋から出しただろ。袋、まだあるか」
「あるけど……」
「触ってくれ」
ミアの目が丸くなった。それから、少しだけ嬉しそうになった。
この子のスキルは【記名】五等。物に触れると、持ち主の名前が読める。
落とし物係にしか使えない、と言われている。実際、二年間、落とし物係にしか使われてこなかった。
「使うの? わたしの、使うの?」
「使う」
「ほんとに?」
「ミア」
「うん。うん、わかった」
ミアはランタンを俺に押しつけて、雨の中に駆け出した。転んだ。すぐ起きた。また走った。
俺は四人目の男の顔を見た。
顎に無精髭が伸びていて、口の端に何かが乾いてこびりついていた。輜重兵の手をした男。荷馬車を引いて、後方から前線に物を運ぶ仕事の男。
自分が運んだパンで死んだのかもしれない。
「悪いな」
俺は言った。声に出したのは、たぶん二年ぶりだった。
「調べる」




