代印
土鍋に残っていた名前は、厨房係の下士官のものだった。
毎朝、牛乳を温めて次席の机に運ぶのがその男の仕事で、六年間ずっとやっている。俺たちが話を聞きに行くと、彼は真っ青になって、自分は何も入れていないと三十回くらい言った。
入れていないのは本当だと思う。ゲルダが言うには、ゾンマーの唇に残っていたのは牛乳とは別の匂いで、量からして温めた鍋に入れたのでは足りない。あとから注ぎ足したか、飲む直前に混ぜたかだ。
つまり、夜のうちに、あの写字室に誰かが入っている。
厨房係は「夜に北棟に入れる者は限られている」と言った。夜間の建物は施錠され、鍵は当直士官が持つ。
当直の割り当て表は、記録局の棚にある。ヴィッテが出してきた。
その晩の当直は、工兵隊の中尉だった。
名前を見ても、俺は何も感じなかった。知らない名前だ。だが、ダグが横から覗き込んで、しばらく黙ってから、言った。
「鋤だ」
工兵の鋤。キリアンを埋め直した鋤。
「これで繋がりましたね」
ミアが言った。彼女は嬉しそうではなかった。
「繋がってない」
俺は言った。
「え?」
「その中尉は、鍵を持ってただけだ。鍵を持ってる人間に開けさせた誰かがいる」
俺は油紙の包みを机の上に出した。
ゾンマーが六年かけて足し続けた控えだ。石の小屋の、藁を敷いた床の上で、六人で囲んで、一枚ずつ広げた。
中身は退屈だった。
所在確認、器材点検、人員異動、給養実績。どれも様式どおりで、日付と数字と署名しかない。数十枚ある。全部ゾンマーの筆跡で、全部、彼が「見に行かずに書いた」ものだ。
読み上げる係はフェリクスがやった。彼は声がいいし、書式に慣れている。
人員異動が多かった。ある日付で何人かが「配置換」になり、その先の部隊名が空欄になっている紙が、何枚も出てきた。空欄の異動というものは、本来ありえない。人はどこかへ行くから異動するのであって、どこへも行かない異動は異動ではない。
「名簿から抜くってのは、これか」
ハンナが言った。
「これです」
俺は日付を照合した。空欄の異動が出た日の、次の月の細い晩に、俺たちが河岸で死体を拾った日付が並んでいる。全部ではないが、いくつかは一致した。
給養実績も妙だった。抜かれた人数ぶんの糧食が、抜かれたあとも支給済みとして計上され続けている。ゾンマーが四年前に押し戻して、丁寧に書き直されて戻ってきたという紙は、たぶんこれだ。
「死んだ人の飯を、誰かが食ってることになってる」
ミアが言った。
「食ってねえよ」
ハンナが言った。「金にしてんだ」
だが、控えのほうには、清書されていない下書きが一緒に綴じてあった。
彼に回ってきた、元の紙だ。
その下書きの隅に、判が押されている。
代印。
誰の名前も書いていない、四角い枠の中に、王国軍の紋章と、部署を示す記号だけが入った判だ。この判が押された紙は、命令ではなく通知として扱われ、誰が発したかを問われない。
俺はその判をしばらく見ていた。
ハンナが横から覗いて、舌打ちした。
「これじゃ誰だか分からねえだろ。だから代印なんだから」
「はい」
「じゃあ意味ねえじゃねえか。この山、全部これだろ」
「全部これです」
俺は言った。
「それでいいんです」
「なんでだよ」
俺は顔を上げた。
「軍曹。この判は、誰が押してますか」
「だから分からねえって——」
彼女はそこで止まった。
止まって、俺を見て、それから、ゆっくり言った。
「……押してるやつは、いるな」
「います」
俺は言った。
「代印は、名前を書かないための道具です。でも、判そのものは物です。物には持ち主がいます。木か真鍮で作られてて、誰かの引き出しに入ってて、誰かが毎回それを取り出して、押してる」
フェリクスが下書きの束を持ち上げて、判の位置を見比べ始めた。
「面白いね」
彼は言った。「押す位置に癖がある。この十数枚は、どれも枠の左下がわずかに濃い。押すときに手首が左に落ちる人間の押し方だ」
「同じ人ってこと? 同じ人?」
「少なくとも、同じ癖の人だ」
彼は紙を戻した。「だが、それを法廷で言っても始まらない。押し癖は証拠にならん。私が言えるのは、そう見えるということだけだ」
俺はうなずいた。それでいい。見えるところまで来れば、あとは確かめる方法を探すだけだ。
全員が、同じ方向を見た。
ミアだった。
彼女は藁の上に座って、袖の余った上着の裾を握っていて、みんなに見られて、少し体を縮めた。
「わたし?」
「お前だ」
ハンナが言った。
「判に触れば読めるか」
「読める。読めるけど」
ミアは自分の手を見た。
「触らないと読めないよ。判を、触らないと」
石の小屋の中が静かになった。
代印の判は、当然、司令部の中にある。それも、誰かの机の引き出しの中に。俺たちが自由に出入りできない場所の、鍵のかかった箱の中に。
フェリクスが最初に口を開いた。
「盗むのかい」
「盗みません」
「では?」
「触るだけです」
俺は言った。
「盗めば無くなったと分かります。触るだけなら、何も起きません」
ゲルダが腕を組んだ。
「どうやって近づくの」
俺は答えなかった。
答えられなかったからではない。答えが一つしかなくて、その一つが、あまり気持ちのいいものではなかったからだ。
「フォス先生」
「なに」
「代印の判は、押す機会がないと引き出しから出ません」
「そうでしょうね」
「押す機会を作れば、出ます」
彼女はしばらく俺を見て、それから、目を細めた。
「作るって、何を」
「うちの分隊が、何かをやらかせばいいんです」
俺は言った。
「誰も責任を取りたくない事案を起こせば、司令部は代印で処理します。代印で処理する紙が作られるとき、判は必ず引き出しから出て、机の上に置かれます」
ハンナが立ち上がった。
「おい」
「軍曹」
「お前、うちの隊員を売る気か」
「売りません」
俺は言った。
「俺がやります」




