上役
軍務省記録局の出張所は、司令部の建物の北棟にあった。
元は修道士の写字室だったところで、細長い部屋の両側に机が並び、その奥に棚が壁一面に立っている。棚には綴りが詰まっていて、床から天井まで、隙間なく詰まっていて、詰まりすぎたぶんが床にも積んである。
ヴィッテ書記官の席は入口に近いほうにあった。彼女は俺が入ってきたのを見て、羽根ペンを置いて、少しだけ嫌そうな顔をした。あの葦原の夜から六日経っていて、その間に彼女は俺に何の連絡もしてこなかった。
「返事を持ってきたわけではなさそうですね」
「違います」
「では何でしょう」
「あなたの上役に会いたいんです」
彼女は羽根ペンを拾って、また置いた。
「次席のゾンマーです。あの奥にいます」
あっさりだった。隠す気がないのか、隠しても無駄だと思っているのか、区別がつかない。
「止めないんですか」
「止める理由がありません」
ヴィッテは言った。「ゾンマー次席は、あなたが行けば会います。あの人は誰にでも会います。会って、何も言いません。二十年そうしてきた人です」
オトマール・ゾンマー次席は、棚の谷間の奥の、小さな机にいた。
六十を過ぎている。髪は残っているが白い。机の上に書類の山と、小さな土鍋があって、その中身は牛乳だった。彼は俺が近づくと顔を上げて、それから土鍋を持ち上げて、少し飲んだ。
「胃だ」
聞いてもいないのに、彼は言った。
「二十年前から。医者は肉と酒を減らせと言う。減らしている。それでも痛む。減らすものがもう無いのに痛むのだ」
「アーレンス伍長です」
「知っている」
ゾンマーは土鍋を置いた。
「君の名前が、先月、三つの棚に入った。そういうことは滅多にない」
「先月の下旬、河岸の器材所在確認を書かれましたね」
彼の手が止まった。
止まって、それから、彼はゆっくりと、机の上の書類の山を左から右へ移した。意味のない動きだった。手を動かしていないと落ち着かない人間の動きだ。
「ヴィッテが病気だった」
「はい」
「私が代わりに書いた。次席の仕事だ」
「その晩、河を渡った兵が六人、こちら側から撃たれています」
ゾンマーは俺を見なかった。
彼は書類の山の角を揃えて、揃え終わってから、また崩して、また揃えた。ヴィーラント大尉と同じ癖だ。この軍には、紙を揃えることでしか手を動かせなくなった男が何人もいる。
「私は器材を書いた」
彼は言った。
「柵の杭が二十二本。渡渉綱が三本。小舟が一艘。所定位置、異状なし。それだけだ」
「舟は使われていました」
「知らん」
「知らないなら、なぜ書けたんですか」
彼は答えなかった。
「見に行きましたか」
答えない。
「行っていませんね」
「……行っていない」
ゾンマーは言った。声が急に小さくなった。
「行っていない。書けと言われたから書いた」
「誰にですか」
「紙が来た」
彼は机の引き出しを開けようとして、途中でやめた。開けかけて、閉めた。
「所在確認の下書きが、先に書かれた状態で回ってくることがある。私はそれを清書して、署名して、綴じる。それだけだ。誰が書いたものかは、書いていない」
「代印ですか」
「代印だ」
彼は牛乳を飲んだ。手が震えていて、少しこぼした。上着の襟に白い染みができて、彼はそれを拭かなかった。
「六年になる」
ゾンマーは言った。
「六年、私は見に行かずに書いている。最初の一、二年は、これはおかしいと思っていた。三年目に思わなくなった。四年目に、自分が何を書いたか覚えていないことに気づいた」
「五年目は」
「五年目に、数え始めた」
俺は顔を上げた。
「数えた?」
「書いたものを、覚えておくことにした」
彼は初めて俺を見た。目が濁っていて、白目が黄色い。この人は毎晩眠れていない。
「一度だけ、押し戻したことがある」
ゾンマーは言った。
「四年前だ。給養実績の下書きが回ってきて、数字がおかしかった。おかしいというのは、多すぎたのだ。存在しない人数ぶんの糧食が、支給済みと書かれていた」
「戻して、どうなりましたか」
「翌日、同じ紙が回ってきた」
彼は土鍋の縁を指でなぞった。
「数字はそのままだった。違っていたのは、下書きの筆跡だ。前の日のものより、丁寧に書いてあった。丁寧に書き直して、また回してきた。それだけだ。誰も私を叱らなかった。誰も説明しなかった」
「署名しましたか」
「した」
彼は言った。
「その日から、私は数字を見ないようにしている。見なければ、おかしいと思わずに済む」
「次席は臆病ですね」
「臆病だ」
彼はうなずいた。うなずいたことに自分で驚いたような顔をした。
「臆病だから、六年間ばれずに済んでいる。だが臆病な人間は、いつか自分が捨てられることも知っている。捨てられるときに、私は何も持っていないことになる」
「持っているんですね」
ゾンマーは答えなかった。
答えなかったが、彼の右手が、無意識に、机の引き出しではなく、床の積み上げた綴りのほうへ動いた。指が三本ぶんだけ動いて、止まった。
俺はそれを見なかったふりをした。
「次席」
「なんだ」
「それを、俺に渡してください」
「断る」
彼は即答した。
「あれは私が生きるための紙だ。渡したら、私は明日死ぬ」
「渡さなくても死にます」
俺は言った。
言い方が冷たかったのは分かっている。もっと柔らかく言うこともできた。だが柔らかく言えば、この人は明日まで考えると言うし、明日まで考えると、明日になる。
「先月、七人目が死にました。名簿に無い男でした。名前が無いから、殺しても記録に何も残らなかった」
「私には名前がある」
「代印には無いんです」
俺は言った。
「あなたが六年間署名してきた紙の、本当の書き手には名前が無い。名前が無い人間は、名前がある人間を消しても、記録に残りません」
ゾンマーは土鍋を両手で握った。
握って、しばらくそのままでいた。牛乳はもう冷めているはずだった。
「三日、くれ」
彼は言った。
「三日で決める」
俺はうなずいた。
部屋を出るとき、ヴィッテが自分の席から立って、扉のところまでついてきた。廊下に出て、扉を閉めてから、彼女は小さい声で言った。
「三日は長すぎます」
「本人が言ったことです」
「本人が言ったから安全だと思っているなら、あなたは書類の仕事を知らない」
彼女は言った。
「三日あれば、あの人は誰かに相談します。あの人は二十年、一人で決めたことが一度もない人です」
俺は足を止めた。
「じゃあ、どうすればいいと思いますか」
「今、持って出るべきでした」
彼女は即答した。
「本人が断っても、押し入って取るべきでした。そうすれば、あの人は『取られた』という立場になれます。取られた人間は、責任を問われません」
俺はそのとき、彼女の言っていることを、半分しか本気にしなかった。
それが間違いだったと分かるのは、二日後だ。




