書きに来る人
五日目の夜は、雲が多かった。
月は出ているはずだが、光は薄い。葦原は黒く、河の水面だけがわずかに明るくて、そこに何かが動けば影になって見える。あの見張り所から撃った人間が使ったのも、この明るさだ。
俺は一人で行くと言って、ハンナに殴られかけた。
結局、ダグが少し離れた葦の中に伏せることになった。彼は大きいので隠れるのが下手だが、泥に半分沈むと不思議と分からなくなる。鍛冶をやっていた頃、炉の前で何時間も動かずにいる訓練をしていたらしい。人は静止しているものを見落とす、と彼は言った。
俺は舟の埋まっている場所から少し離れた窪みに入って、待った。
三刻ほど、何も起きなかった。
風が葦を鳴らす音と、水の音と、遠くで時々鳴る砲の音。この河の前線は、夜に砲を撃つ。撃っても届かない距離を撃つ。あれは牽制ではなく、単に日課だと聞いたことがある。撃たなかった日を報告するより、撃った日を報告するほうが簡単だからだ。
足音がしたのは、雲が切れて、水面が急に明るくなった直後だった。
一人。灯りを持っていない。歩き方に迷いがなくて、葦の切れ目を正確に選んで進んでくる。何度も来ている人間の歩き方だ。
その人影は、舟の埋まっている場所の前で止まった。
しゃがんだ。泥に手を入れた。ダグと同じ場所を、同じように探った。
それから、立ち上がって、腰の袋から何かを出した。
板だ。薄い木の板と、木炭。
その人影は、板を胸の高さに持って、暗い中で何か書き始めた。
俺は窪みから出た。
葦を鳴らしたので、相手は気づいた。振り向いたが、逃げなかった。逃げようともしなかった。
雲が切れたままだったので、顔が見えた。
「ヴィッテ書記官」
彼女は木炭を持ったまま、俺を見た。
驚いた顔ではなかった。困った顔でもなかった。強いて言えば、面倒なことになったな、という顔だった。
「アーレンス伍長」
「何を書いてるんですか」
「所在確認です」
彼女はあっさり答えた。
「小舟一艘、上流葦原、所定位置。異状なし。以上」
「誰の命令ですか」
「命令ではありません。定例の巡察記録です」
ヴィッテは板を下ろした。
「毎月、決まった日に、河岸の器材の所在を確認して記録します。柵の杭、渡渉用の綱、小舟。数が合っているかを見て、合っていると書く。それだけの仕事です」
「今夜、その舟は使われます」
「使われるかどうかは、私の様式に欄がありません」
俺は一歩近づいた。
彼女は下がらなかった。
「書記官。あなたが今それを書いたら、今夜この舟で誰かが河を渡っても、渡らなかったことになります」
「なります」
「人が死にます」
「死ぬかもしれません」
ヴィッテは言った。
「でも、私が書かなければ、所在確認の記録に欠落が出ます。欠落が出ると、確認を怠った者が処分されます。それは私です」
「処分されればいい」
「されたら、来月から誰が書くんですか」
彼女は初めて、少し声を強くした。
「私の後任です。後任は何も知らないまま、同じ様式で、同じことを書きます。私が消えても、様式は消えません。あなたが今夜この舟を燃やしても、来月には新しい舟が同じ場所に埋まって、新しい書記官が『所定位置、異状なし』と書きます」
風が葦を鳴らした。
彼女は木炭を袋に戻して、板を脇に挟んだ。
「アーレンス伍長。あなたの書類、読みました」
「様式が違うと言ってましたね」
「違いました。でも読みました」
ヴィッテは言った。
「三つに分けたのは、消されないようにです。署名を三箇所に入れたのも同じです。あれは様式にありません。私が勝手にやりました」
俺は黙っていた。
「勝手にやったことは、これで二つ目です」
彼女は続けた。
「一つ目は、四年前です。私はある報告書を、指示された棚に入れませんでした。別の棚に入れました。そのせいで、その報告書は今も残っています。誰も読んでいませんが、残っています」
「何の報告書ですか」
「言えません」
彼女は俺を見た。目の下の隈は、あの日の廊下で見たときと同じだった。この人は毎日、朝から晩まで紙をさばいて、たまに一枚だけ、違う棚に入れている。
「伍長。一つ提案があります」
「なんでしょう」
「私の下に来ませんか」
俺は、意味を掴むのに少しかかった。
「記録局は、来年から前線の記録係を増員します。実務経験のある下士官を募集しています。あなたなら通ります。訂正記録に署名した実績もありますし、様式を無視した報告書を出した実績もある」
「実績、ですか」
「私たちの世界では、それは実績です」
ヴィッテは板を持ち直した。
「あなたは今、外から棚を叩いています。叩いても開きません。でも、中に入れば、棚に手が届きます」
「入れば、あなたと同じことをやることになりますよね」
「そうです」
彼女は言った。
「毎月、舟がそこにあると書くことになります。書きながら、たまに一枚だけ、違う棚に入れる。それが私のやり方です」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
葦の向こう、河の水面が明るいままだった。雲は切れたきり戻ってこない。今夜は月が細くても、光がありすぎる。渡る側にとっては最悪の晩だ。
ヴィッテは板を袋にしまって、背を向けた。
「今夜は中止になります」
彼女は歩きながら言った。
「雲が切れたので。私は所在確認を書いて帰ります。書いたものは、事実と一致します。今夜に限っては」
三歩行って、止まった。
「一つだけ言っておきます」
「はい」
「あなたが拾った六人ですが」
彼女は振り返らなかった。
「あの晩の所在確認は、私が書いていません。私は病気で休んでいました。代わりに書いたのは、別の人間です」
「誰ですか」
彼女はしばらく黙っていた。
「私の上役です」
そう言って、彼女は葦の中に消えた。




