正しく綴じる
書類を出しに行ったのは、俺とハンナの二人だった。
方面軍司令部は、河から離れた丘の上の、元は修道院だった建物にある。前線の泥を長靴につけたまま入ると、床の石が汚れるので、入口で拭くように言われる。ハンナは拭かなかった。
中は暗くて、石の匂いがした。修道院だった頃の名残で、廊下の壁の高いところに細長い窓が並んでいて、光が斜めに落ちてくる。その光の帯の中を、書類を抱えた人間が何人も行き来していた。誰も走っていない。誰も急いでいない。前線から歩いて半日のこの場所では、時間の流れ方が違う。
廊下の壁際の長椅子に、五人か六人が座って待っていた。装備の擦り切れ方からして、みんな前線の下士官だ。何かの申請に来て、順番を待っている。俺たちが通り過ぎるとき、一人が顔を上げて、俺の胸の徽章を見て、隣の男に何か囁いた。烏が来た、と言ったんだと思う。
受付の下士官は書類を受け取って、束の厚さを見て、少し嫌そうな顔をした。分量が多い書類は仕分けが面倒だからだ。
「衛生分隊から?」
「そうだ」
「衛生分隊が、こんなに書くものかね」
「書いた」
ハンナが言うと、下士官は肩をすくめて、書類を横の箱に放り込んだ。
その箱は、既に半分埋まっていた。
俺はそれを見ていた。あの箱の中身は、たぶん夕方までに別の部屋に運ばれて、そこで分類されて、綴じられて、棚に入る。読まれるものと読まれないものが仕分けられて、大半は読まれないほうに行く。それでいい。それを狙って書いた。
廊下を戻ろうとしたところで、後ろから声がかかった。
「第十三後方衛生分隊」
振り返ると、女が一人立っていた。
若い。二十代の半ばか、それより下かもしれない。灰色の上っ張りを着ていて、袖に黒い保護布を巻いている。書き物をする人間の格好だ。手に俺たちが出したばかりの書類を持っていた。
「軍務省記録局出張所、書記官のヴィッテといいます」
彼女は名乗って、それから書類の端を指で弾いた。
「これ、書式が違います」
ハンナが眉を上げた。
「書式?」
「回収報告は第七様式。証言記録は第十一様式。所見は医務様式。三つが一つの綴りになっています。このままだと、どの棚にも入りません」
「じゃあ、どうすんだ」
「分けます」
ヴィッテ書記官は言って、その場で紙をめくり始めた。廊下の窓辺に寄って、光の下で、慣れた手つきで束をばらしていく。速い。読んでいるのではなく、形を見て仕分けている。
「回収報告はこちら。ここからここまでが証言。所見は……これは医師の署名がありますね。無授の方ですか」
「そうだ」
「では医務様式には入りません。参考資料として、証言記録の付属にします」
彼女は淡々と言った。差別する言い方ではなかった。単に、規則がそうなっているというだけの言い方で、それが余計に嫌な感じがした。
「なあ、書記官さんよ」
ハンナが一歩前に出た。彼女は上背があるし、前線で十一年やってきた人間の立ち方をする。たいていの内勤はそれで一歩下がる。
「その紙な。人が七人死んで書いたやつだ」
「存じています」
「存じてる、で終わりか」
「終わりです」
ヴィッテは書類から目を上げなかった。
「七人でも七百人でも、様式は同じです。人数によって棚を変える規則はありません」
ハンナが何か言いかけて、飲み込んだ。飲み込むのが分かるくらい、はっきり喉が動いた。
俺はその横で、書記官の手を見ていた。
指の関節が黒い。インクが染みて、洗っても落ちなくなったやつだ。爪の際は割れていて、右手の中指の第一関節に硬い胼胝がある。羽根ペンを一日中握る人間にできる胼胝で、俺は前世で自分の指にも同じものを作った。
この人は毎日、朝から晩まで紙をさばいている。
「ヴィッテ書記官」
俺は言った。
「なんでしょう」
「分けたら、ばらばらの棚に入りますよね」
「入ります」
「それだと、繋がりが分からなくなりませんか」
彼女は初めて、書類から目を上げた。
目が合った。眼鏡はかけていない。目の下に薄い隈があって、指の関節がインクで黒ずんでいる。この人は毎日、朝から晩まで紙をさばいている。
「分かりません」
彼女は言った。「それが様式というものです」
「じゃあ、意味がない」
「意味はあります」
ヴィッテは書類を揃え直した。
「ばらばらの棚に入ったものは、消せません。一つの綴りは、一度に捨てられます。三つに分ければ、三つとも見つけて捨てないといけない。それは面倒です」
俺は、彼女の手元を見た。
彼女は、俺の署名がある紙を、三つの束の全部に入れていた。回収報告にも、証言記録にも、参考資料にも、一枚ずつ。同じ署名が三箇所に残るように。
そんな様式はないはずだ。
「書記官」
「はい」
「今、増やしましたね」
彼女の手が止まった。
止まって、それから、何事もなかったように動いた。
「署名は、各様式に必要です」
「そうですか」
「そうです」
ヴィッテは三つの束を抱えて、廊下の奥へ歩き出した。
三歩行って、止まった。
「アーレンス伍長」
「はい」
「先月、訂正記録に署名されていますね。河岸の回収地点の」
ハンナが小さく息を吸うのが分かった。
「しました」
「あれと、これは、内容が矛盾しています」
「そうです」
「訂正記録では、回収地点は第四防塁の前面。この報告では、河岸」
彼女は振り返らずに言った。
「同じ人が、違うことを書いている。両方とも棚に入ります」
「入れてください」
「入れます」
ヴィッテは言った。「私は棚に入れるのが仕事なので」
彼女の足音が石の廊下に響いて、遠ざかっていった。
外に出てから、ハンナが長いこと黙っていた。丘を降りて、泥のところまで来て、ようやく口を開いた。
「あの女、どっちだ」
「分かりません」
「敵か味方か聞いてんだよ」
「どっちでもないと思います」
俺は言った。
「あの人は、紙を正しい場所に入れることしか考えてません。それが誰の得になるかは、たぶん考えてない」
「そりゃ味方じゃねえだろ」
「敵でもないです」
俺は丘を振り返った。修道院の窓が並んでいて、そのどれかの向こうで、彼女が今、俺の名前を三箇所に綴じている。
「あの人は、たぶん、いちばん危ない人です」




