木札の記録簿
紙が足りなかった。
この前線で紙は貴重品で、分隊に配られるのは木札の記録簿と、月に一度の受領伝票の綴りだけだ。俺たちは伝票の綴りを裏返して使うことにして、ハンナが「あとで俺が怒られるやつだな」と言いながら綴じ糸を切った。
インクは、フェリクスが持っていた。前線に送られるときに持ってきた、教会の書写用のもので、彼はそれを二年間、一度も使っていなかった。壺の口を開けると、乾きかけて底に沈んだ黒が、鼻を刺す匂いを出した。
「一つ確認したいのだが」
フェリクスは羽根ペンの先を削りながら言った。彼は削るのがうまい。神学生というのは筆記具の手入れを叩き込まれるものらしい。
「これは、誰が読むために書くんだ」
「司令部です」
「司令部は読まない」
「読みません」
俺はうなずいた。「読まないことを、俺は狙ってます」
ハンナが顔を上げた。
「意味が分からねえ」
「読まれると、揉み消す動機が生まれます。読まれずに綴じられると、綴じられたまま残ります。俺が欲しいのは、読まれることじゃなくて、綴じられることです」
馬房の中が少し静かになって、藁を踏む音だけが続いた。オズが入口の脇で鋤を磨いていて、その音だ。
ミアが最初に書いた。
この子は字が汚い。母親が洗濯婦で、字を教わったのは十のときからだから、線が震えるし、漢字がところどころ抜ける。それでも彼女は、自分が触ったものを全部、順番に並べて書いた。麻袋。製材所の袋。薬莢。葦の中の靴。キリアンの毛布。
薬莢のところで、彼女は手を止めた。
「読めなかった、って書くの? 読めなかった、でいいの?」
「いい」
「でも、読めないのは、わたしが下手だからかもしれないよ。かもしれないよ」
「ミア」
俺は言った。「二年、外したことないだろ」
彼女はしばらく俺を見て、それから、読めなかった、と書いた。書いてから、その下に、小さく「けずってあった」と足した。誰にも言われずに足したその一行が、たぶん、この書類でいちばん重い。
ダグは書かなかった。書けないわけではないが、指がないから羽根ペンが持てない。彼が喋って、俺が書き取った。
「麻袋、表示より軽い。ケーニヒの名が入っているものだけ」
「はい」
「薬莢、王都製。鉛と真鍮の割合が違う。南から来るやつは重い」
「はい」
「鋤の跡、幅が広い。柄が長い。うちのじゃない」
彼はそこで止まって、しばらく黙った。
黙ってから、続けた。
「工兵の鋤は、持ち出せば分かる。分かるものを使った」
俺は羽根ペンを止めた。
「それも書きますか」
「書け」
ダグは言った。「俺が言ったと書け。名前も書け」
ゲルダの分は、彼女が自分で書いた。彼女の字は速くて、小さくて、余白がない。診た所見だけを書いて、推測を一行も入れなかった。六人目の腹の切開は死後のもの、縁の白濁は水中滞留による、キリアンの死因は口腔および気道の閉塞、閉塞物は土砂。
それだけ。
「先生、殺されたって書かないんですか」
ミアが覗き込んで言った。
「書かないわ」
「なんで」
「私が見たのは土だけだからよ。誰が入れたかは見てないの」
ゲルダは羽根ペンを置いて、指のインクを布で拭った。
「書かないほうが強いのよ、こういうものは。土が入っていたと書けば、土がどうやって入ったかを考えるのは読んだ人になる。私が『殺された』と書いたら、それは私の意見になって、意見は否定できる」
フェリクスは、逆に、書きすぎた。
彼が最初に出した文章は美しかった。名を奪われた者の埋葬について、教義と慣行の齟齬を三段構えで論じていて、読むと涙が出そうになるくらいよくできていた。
俺はそれを返した。
「短くしてください」
「これでも削ったんだが」
「事実だけにしてください。『白冠教会の埋葬簿には、当該日付の記載がない』。それだけで」
フェリクスは自分の原稿を見て、それから俺を見て、悲しそうな顔をした。
「君は、文章というものを、道具だと思っているね」
「思ってます」
「私は思っていない」
彼は羽根ペンを取って、自分の文章に線を引き始めた。三段構えの論証も、比喩も、引用も、全部消した。消し終わったあとに残ったのは、二行だった。
消しながら、彼は小さく言った。
「私が破門されるのは、たぶんこの二行のほうだ」
最後に、俺が書いた。
俺はいつも手帳に前世の文字で書く。誰にも読めない文字で書くのは癖であり、逃げでもある。読まれないと分かっているから、何でも書ける。
その夜は、読める文字で書いた。
河岸に六体を回収したこと。記章が刃物で切られていたこと。六体目の腹が死後に開かれていたこと。七人目が生存していたこと。その男が名簿から抜かれていたと証言したこと。その男が三日後に墓穴で死亡したこと。
最後に、署名した。
ユール・アーレンス、伍長、第十三後方衛生分隊。
書いてから、少し手が止まった。
前世で最後に書いた報告書にも、俺はこうやって名前を書いた。あの紙は、たぶんまだどこかの引き出しに入っている。誰も読まないまま、俺の名前だけが載ったまま。
「アーレンス」
ハンナが言った。彼女は自分の分をとっくに書き終えていて、書き終えてからずっと同じ紙を見ていた。
「俺の分だが」
「はい」
「六人の名前の欄な。不明って書いた」
「そうですね」
「一人だけ、ヨーゼフって書き足した」
彼女は紙を俺のほうに向けた。不明、と書いた上に線が引かれて、その横に、大きく震えた字でヨーゼフとあった。
「これ、公文書の改竄になるか」
「なります」
「だろうな」
ハンナは紙を引き戻して、乾かすために膝の上に置いた。
「十一年で初めてだよ、俺が書類に嘘書いたの」
「嘘じゃないです」
「嘘だよ。あいつの姓を俺は知らねえ。姓の分からねえ名前を書くのは、記録としては嘘だ」
彼女は干し草巻きをくわえて、火をつけなかった。
「けど、不明よりましだろ」
写しを作るのに、明け方までかかった。
二部目は、ゲルダとフェリクスが交代で書いた。俺は書かなかった。同じ手で二部書くと、筆跡で同じ人間が作ったと分かってしまう。
油紙にくるんで、蝋で口を閉じたところで、俺はハンナに聞いた。
「どこに隠しますか」
「馬房は駄目だ。倉庫も駄目。墓地も——駄目だな、あそこはもう掘られた」
彼女は挙げていって、全部潰した。この前線に、俺たちが自由にできる場所は一つもない。
入口で、鋤を磨く音が止まった。
オズが立ち上がって、こちらに手を出した。
全員が彼を見た。
この掘り手は名簿に載っていない。俺が二年前にこの分隊に来たとき、既にいた。ハンナが十一年前に来たときにも、既にいたという。給与の支払い記録がなく、配給の受領印がなく、それでも毎日、飯の列に並んでいて、誰も何も言わない。
軍の記録の中に、この男は存在しない。
俺は油紙の包みを、彼の手に載せた。
「見つからない場所に」
オズはうなずいた。鋤を肩に載せて、外に出て、朝靄の中に消えた。
彼がどこに埋めたかは、今も誰も知らない。




