月の細い晩
書き直せない、とは言わなかった。
言えばよかったのかもしれない。木札はもう埋まっているし、埋葬簿にも軍の記録にも六人はいないし、俺が署名した訂正記録では彼らは河岸にすらいなかったことになっている。ヨーゼフという名前を書き足せる紙は、この王国のどこにもない。
俺は自分の手帳に書いた。二体目、火傷の跡のある年配の男の行の横に、名前を書き足した。彼が最後に考えていたのは「ヨーゼフを置いてきた」だったから、ヨーゼフは別の誰かのはずだと最初は思ったが、キリアンの言い方からすると、六人目の腹を裂かれた若い男がヨーゼフで、年配の男はそれを置いてきたことを悔やんで死んだのだろう。置いてきた、というのはたぶん、河のこちら側まで運びきれなかったという意味ではなく、運ぶために中身を捨てたという意味だ。
誰にも読めない文字で名前を一つ書き足したところで、何かが変わるわけではない。それでも書いた。前世で最後に書いた報告書にも、俺は死んだ三人の名前を全部書いた。名簿番号で足りるところを、わざわざ名前で書いた。あれを読んだ人間はたぶん一人もいない。
キリアンが続きを話したのは、それから二日後の朝で、ゲルダが傷の糸を替えているあいだのことだった。痛みで意識が浮いているときのほうが人はよく喋るというのを、彼女は知っていて、俺を呼んだのだと思う。
「金だ」
キリアンは天井を見たまま言った。
「小袋に入った金を、腹に詰めて持っていく。腹に詰めるのは、担いで泳ぐと落とすからだ。舟が使えるのは行きだけで、帰りは流れが早いから泳ぐことが多い。死体は浮くし、腹に物を入れても浮く」
ゲルダの手が止まりかけて、また動いた。
「持っていくのは、生きてる人間の腹じゃない」
彼は言った。「死んだやつの腹だ。行きは死体を一つ担いでいく。向こうの砂州に置いてくる」
「置いてきた死体は、どうなるんです」
「知るか。向こうが片付けるんだろう。俺たちがここでやってることと、同じことを向こうもやってるんだろうさ」
俺は少し考えて、それから聞いた。
「帰りに取ってくるものは、何ですか」
「紙だ」
「紙」
「油紙にくるんだ束。厚さは指二本ぶんくらい。中は見るなと言われてる。見たやつは帰ってこなかったって話も聞いた。本当かどうかは知らない」
彼はそこで初めて、こちらに顔を向けた。
「一度だけ、濡れて透けたことがある。字が並んでた。ずらっと、縦に。数字と、名前みたいなのが交互に」
俺の背中が、少し冷えた。
それは、帳簿だ。
名前と数字が交互に縦に並んでいる紙を、俺は前世で何千枚も見た。この世界に来てからも見た。ケーニヒの受領簿も、ネルヴァ商会の支払い記録も、同じ形をしていた。
金がこちらから向こうへ渡り、帳簿が向こうからこちらへ戻る。月に一度、月の細い晩に。十一年続いている戦線の、渡れないはずの河を越えて。
「キリアンさん」
「なんだ」
「誰に命じられました」
彼は答えなかった。
答えなかったのは口を閉ざしたのではなくて、思い出そうとして思い出せない顔だった。眉のあいだに皺が寄って、口が半分開いて、それから彼は、妙に途方に暮れた声で言った。
「誰にも命じられてない」
「そんなわけないでしょう」
「そうなんだよ。命令書はない。呼ばれるんだ。夜に、天幕の外から名前を呼ばれて、出ていくと、そこに人が立ってて、行くか、って聞かれる」
「顔は」
「暗い。いつも月が細い晩だから」
「声は」
「毎回違う」
ゲルダが糸を切って、鋏を器具巻きに戻した。
「断ったら」
彼女が聞いた。
「断ったやつは知らない」
キリアンは言った。「断れると思ってなかった。名簿から抜かれてから呼ばれるんだ。行くかって聞かれた時点で、もう抜かれてるんだよ。断ったって、俺はもうこの軍にいないんだから」
馬房の隙間から日が差して、藁の埃が光の中で動いていた。ミアが入口のところで膝を抱えて座っていて、話が始まってから一度も口を挟んでいない。この子が大事なことを二回言わなくなるのは、本当に怖がっているときだけだ。
「一つ聞いていいですか」
俺は言った。
「四回目まで行って、あなたはまだ生きてます。他の六人は死にました。何が違ったんですか」
キリアンは天井に目を戻した。
しばらくしてから、彼は言った。
「向こうから撃たれたんじゃない」
「え」
「六人は、こっち側から撃たれたんだ。岸に上がった直後に。俺は流れに巻かれて下流に運ばれたから、外れた」




