名前のいる神
フェリクス・トゥーレは、この分隊で唯一、爪の手入れをしている男だ。
その爪が、その朝、噛まれていた。
「白冠教会は、死者に名を求める」
彼は言った。
「無名の死者は葬れない。神は名を呼ばれた者にしか応えない、という教義だ。だから司祭は必ず、埋葬した者の名を記録する。埋葬簿という」
「軍の記録とは別か」
「別だ。教会の帳簿だからね。軍務省は手を出せない」
「見られるか」
「見られない」
彼は即答した。
「なぜ」
「私が破門一歩手前だからだ」
フェリクスは干した肉を口に入れて、噛んだ。まずそうな顔をした。ここの干し肉はいつもまずい。
「もう一つ理由がある」
「なんだ」
「見ても意味がないからだよ、ユール」
彼は初めて、俺を名前で呼んだ。
「無名の死者は、埋葬簿にも載らない。名がないんだから当然だ。載っていないから、教会の帳簿にも空白がある。その空白を、君はどう証拠にする」
俺は少し考えた。
「載っていないことを証拠にします」
「は?」
「軍の交戦記録に、その夜は何もなかったと書いてある」
俺は言った。
「教会の埋葬簿にも、その日の埋葬がない」
「だからないんだろう」
「なら、俺たちが埋めた六人は、どこの帳面にもいないことになる」
フェリクスの噛む動きが止まった。
「二つの独立した帳面が、同じ日に同じ穴を空けてる」
俺は言った。「片方が嘘なら偶然だ。両方が空いてるなら、片方は片方を見て書いてる」
彼は干し肉を置いた。
「……君は、教会が軍の記録に合わせて帳簿を空けていると言うのか」
「言ってません。そう見えると言ってます」
「同じことだ」
「違います」
俺は言った。「見えるだけなら、まだ調べられる」
フェリクスは長いこと黙っていた。
彼は爪を見た。噛んだ跡がある爪を、少し恥ずかしそうに握り込んだ。
「私が前線に送られた理由を、聞きたいかい」
「今じゃなくていい」
「今がいい」
彼は言った。
「私は、無授の埋葬を執り行った」
風が、馬房の隙間から入ってきた。藁が少し動いた。
「洗濯婦の子だ。八つだった。神授を受ける前に死んだから、この子には位階がない。位階がない者は、教義上、まだ神の目に映っていない。だから葬儀は行わない。行ってはならない」
「行ったのか」
「行った」
フェリクスは笑った。ひどい笑い方だった。
「それだけだ。それだけで、二等の【聖句】持ちが前線送りになる。名を呼ぶのが仕事の宗教が、名を呼ぶなと言ったから、私は名を呼んだ。以上」
俺は何も言わなかった。
「だから」
彼は続けた。
「私は君の言う空白の話を、聞くのがとても嫌なんだ。あれは制度の欠陥じゃない。あれは設計だよ、ユール。誰かが、名を持たない死者を作れるように、あの穴を空けてある」
「協力してくれるか」
「するに決まってるだろう」
フェリクスは立ち上がった。
「私は君みたいなのが嫌いだ。人を材料として見る目をしている。だが、私が嫌いなものより、私が許せないもののほうが多いんでね」
彼は外套を羽織って、髪を撫でつけた。前線で唯一、身だしなみを整える男が、その朝は雑に整えた。
「王都に手紙を書く。破門される可能性が四割ある」
俺は口を開いた。
「言うなよ」
彼は俺を見ずに言った。
「『すまない』とか言うなよ。君に言われると、本当に危ないことをしている気になる」




