吊るす
ヴォルフ・ケーニヒ男爵が捕縛されたのは、それから十一日後だった。
俺は何もしていない。
したのは、匿名の書簡を一通、補給局宛の定期便に混ぜたことだけだ。中身はネルヴァ商会の帳面の写し。差出人はなし。宛先はレンドルフ伯爵。
そこには一行だけ添えた。
『この写しは、複数存在します』
それで十分だった。
レンドルフは自分で監査官を送った。監査官はケーニヒを吊るした。全部、伯爵の手柄になった。伯爵は「部下の不正を自ら摘発した清廉な高官」として、王都で少し評判を上げたらしい。
俺の名前はどこにも出ていない。
処刑は、方面軍司令部の裏庭で行われた。
軍法違反者の処刑は公開で、兵の見せしめとしてやる。八百人くらい集まっていた。前線の兵にとっては数少ない見世物だ。
俺は最前列にいた。
ハンナも、ミアも、ダグも、フェリクスも、ゲルダも来た。誰も何も言わなかった。
ケーニヒは、思っていたより小さい男だった。
四十六歳。太っていて、汗をかいていて、右足を引きずっていた。長靴を履いていなかった。裸足で、右足の親指が赤く腫れていた。
罪状が読み上げられた。軍需物資の横領。数字が読み上げられるとき、彼は何度も口を動かした。違う、と言っているように見えた。数字が違う、と。
それは合っていた。監査官が出した数字は、実際より少し多かった。伯爵に都合のいい数字だ。
彼は最後に何か言おうとした。
言わせてもらえなかった。
台が外れて、落ちて、それで終わりだった。
思ったより静かだった。八百人が黙って見ていて、誰も声を上げなかった。
俺は動かなかった。
三十分待った。
降ろされて、板の上に乗せられて、記録係が名前を書き取って、そのあと俺たちの番になる。処刑された人間も《カラス》が片付ける。それが決まりだ。
板の横に膝をついた。
手袋を外した。
「ユール」
ミアが後ろから言った。
「触るの? 触るの、それ」
「触る」
「なんで」
俺は答えなかった。
指を、ケーニヒの首に当てた。
——四百枚には、まだ足りない。
彼の声だった。かすれていて、少し高くて、たぶん生きているときはよく喋る男だったんだろうと思わせる声。
四百枚には、まだ足りない。
その一文が、俺の中に入った。四百四十一人目だ。
俺は指を離して、手袋を嵌めた。
立ち上がったところで、ゲルダが横に来た。
「何か聞こえた?」
「聞こえました」
「役に立つこと?」
「いえ」
俺は言った。「金の話でした」
「そう」
彼女は少し黙って、それから言った。
「アーレンス伍長」
「はい」
「一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「あなた、レンドルフに書簡を送るとき、ケーニヒを逃がす選択肢もあったわよね」
俺は答えなかった。
「監査が来るって匂わせれば、あの男は逃げたはずよ。逃げれば吊るされない。あなたの目的は不正を止めることでしょう。止まればよかった」
「止まりました」
「ええ。でも、あなたは逃げる時間を与えなかった」
ゲルダは俺を見ていた。
「なぜ」
「逃げた男の頭の中は、読めないからです」
俺は言った。
彼女の顔から、表情が抜けた。
「あなた」
「死んで半日以内に触れないと、聞こえません」
俺は続けた。「逃げられたら、二度と聞けない。だから、ここで死んでもらう必要がありました」
「……聞いてどうするつもりだったの」
「上に誰がいるかを、本人に喋らせるつもりでした」
「喋らなかったのね」
「喋りませんでした。娘の持参金のことしか考えてなかった」
俺は空を見た。
雲が低い。明日はたぶん雨だ。雨の日は死体が重くなる。
「無駄でした」
そう言った。
言ってから、自分の声が思ったより平坦なことに気づいた。
ゲルダは何も言わなかった。
言わないまま、しばらく俺の横に立っていた。それから、静かに言った。
「気持ち悪い?」
俺は考えた。
ちゃんと考えた。今日、四十六の男が裸足で吊るされるのを見て、俺は何を感じたか。
「四百枚には、まだ足りない、って」
俺は言った。
「あの男、あと九年半かけて娘に持参金を作るつもりだったんです。九年半、おがくずを詰めるつもりだった。九年半分の赤痢を、あいつは予定に入れてた」
「そうね」
「だから、いい、と思いました」
ゲルダはうなずいた。
「じゃあ大丈夫。まだ気持ち悪くなってる」
「そうですか」
「そうよ。人間は、自分がやったことの理由を並べたくなったときが、いちばんまともなの」
その夜、俺は宿舎で手帳を開いた。
四百四十一人分の最期が書いてある。
俺はページを戻して、線を引いた一行を探した。
『あのパン、砂の味がした』
その下に、新しく一行足した。
『解決。原因はおがくず。責任者ヴォルフ・ケーニヒ男爵、絞首。四人は戻らない』
書いてから、しばらく見ていた。
前世で書いた最後の報告書に、俺は同じことを書いた。原因、責任、そして戻らない人数。あの報告書は公表されなかった。
これも公表されない。この手帳は誰にも読めない。
でも、書いた。
「ユール」
ミアが藁の上から言った。もう半分寝ていた。
「なんだ」
「明日、パン出るかな。出るかな」
「出るだろ」
「砂、入ってないやつがいい」
「入ってない」
「ほんと?」
「ほんとだ」
彼女はそれで満足したらしく、すぐ寝息を立て始めた。
俺は手帳を閉じようとして、やめた。
ケーニヒの一文の下に、もう一行書いた。
『レンドルフ伯爵。四割。二年間、監査を止めていた人間』
伯爵は今日、清廉な高官として評判を上げた。
俺が上げさせた。
あの男の帳簿には、まだ誰も手を触れていない。そして今、彼は「不正を摘発した側」の顔をしている。
いちばん都合のいい位置だ。
俺は手帳を閉じて、藁に横になった。
天井の梁に、ダグがぶつけた跡が黒くついている。二年分の跡だ。
目を閉じると、四百四十一人の声が順番に通り過ぎていく。寒い。だから言ったのに。母さん。水。ばあちゃんち。腹が。あのパン、砂の味がした。四百枚には、まだ足りない。
俺は眠らなかった。
その代わり、頭の中で数を数えた。
金貨七枚。四割で二枚八分。二年で六十七枚。
二年で六十七枚を、伯爵ひとりが受け取っていた。
なら、伯爵に払っている兵站監は、この王国に何人いるんだろう。




