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その音が止まるまで  作者: 神永瞬子
二章 亀は見上げる
8/17

8.時間の重みに耐えられない

「ダメだなこりゃ。新しく買いなおした方が良い」


 その、非常に合理的で当然のように言われた診断結果に、リンは胸を締め付けられる思いだった。

 迎えを頼んだのにそのまま帰って来たリンたちを見ても、介の父の北見は不満を表すどころか、予想通りと言ったような様子であった。きっと、彼にとって、自分の息子が運動場に長くとどまって遅い時間に帰るのは、そこまで不自然なことではないのだろう。

 投げ捨てるかのようにして渡されたそのベースを受け取りながら、思わず黙ってしまったリンの代わりに八鶴が口を開いた。


「そうですか……。一応、理由を聞いても?」


 その八鶴の質問に、肩を竦めながら北見は答える。


「コレを直して君たちに売るにしても、割に合わん。材料をそろえて、音が出る状態になるまで面倒見て……、時間だってかかる。こっちも商売でやってるからな」


「ありがとうございました。今度、何かあったら」


「良いって。商売を持ち出したが、息子と近い歳の子どもに金をせびる真似はしない」


 八鶴との社交辞令を聞きながら、リンはむしろ、彼が悪人ではないことにむしろ悶々としてしまった。そしてその感覚が、見当違いな被害者精神が、よりリンの自己嫌悪を加速させた。


「リン。挨拶。しっかりしろ」


 と、八鶴に低い声で指摘されてようやく、リンはぺこりと頭を下げて、「ありがとうございました」と、何とか言うことができた。

 そうして店を後にするリンと八鶴の二人を尻目に、貴虎だけが店を離れる気配を見せずに、店内を散策していた。


「おーい、あんた、八鶴くんのお連れさんだろう? いいのか?」


 と、北見に声を掛けられた貴虎は、ふと、店の奥にあるものを指さして言った。


「なぁ、アレ、いくら?」



「なんで自転車なんか買ってんだよ……」


「いやー! 誰かさんと違って財布を落とさなかったからかにゃー? ね! ホント!」


「前からずっと思っていたが随分といい性格してるよな、貴虎は……」


 キリキリキリ……、と高い車輪が回る音を出しながら、貴虎はついさっき買った自転車を押しながらリンと八鶴に合流した。

 もう辺りは薄暗く、自転車に備え付けられたライトと、八鶴が見越して持ってきた懐中電灯以外に明かりのない状態で、道を踏み外さないように並んで歩く。


「…………」


 リンが、不思議なほど静かなのを見て、八鶴は内心でため息をついた。

 

(落ち込んでる……。当然と言えば当然か。まねかれさまとは言え、冷めた視点で見ればただの遭難や迷子だ。この土地で縁故なんてあるわけがない。ましてや、リンは恐らく……)


 自分はリンに頼まれて協力している身だとは言え、まる一日遠出しての成果が振り出しに戻るであるリンの今の状況を考えてしまうと、力になれなかったことが口惜しく感じられる。

 思えば、リンを変な風にそそのかしたのは自分ではある。責任を感じないとは言えない。ただ、無い袖は振れないし、無理に振舞えばそれはそれで軋轢を生むだろう。さて、どうしたものか……、と八鶴もリンにつられて黙りこくってしまう。

 そんな二人の沈黙を、ケロッとした声で貴虎が切り崩した。


「あ、そーいや龍樹から聞いた、なんだっけ。帰るタイミング、決まってんだよな。いつだっけ?」


「……響魂祭」


 あー、そうそれ。とリンの補足に貴虎は頷いた。


「響魂祭は、毎年の八月の開催だが……」


 突然の質問に困惑しながらの八鶴の答えに、はーん、と、そう返しながら、ふと、貴虎は言い放った。


「まだ三か月以上あるのに、なーに落ち込んでくれちゃってんの? まだ機材の調達の一つがうまくいかなかっただけなんですけど」


 二人の視線が貴虎に集まる。貴虎は肩を竦めながら言葉を続けた。


「経験者探しも、機材探しも、レッスンもまだ始まったばっかりだ。人探しは八鶴に頼り切りになっちまいそうだし、機材もまぁ、一発で決まらなかったのはきついが、それよりもまだやることだってあるんだ。勝手に落ち込まれちゃ困る」


 特に、お前の知識面に関して。と、リンの頭を小突きながら付け加える。

 ともすれば追い打ちともとられかねない口調と言いぐさであったが、リンにはむしろ効果的であったらしい、


「俺がバカなのは分かったからその叩くのやめろ!」


「んにゃー?? 下から過ぎて良く聞こえないにゃー?」


「そんなに身長変わんねーだろ!!」


 と、怒りながらも、沈んでいる状態からは脱せたらしい。

 その二人のやり取りを見ていた八鶴は、ふと、ある仮説が浮かんで、そしてすぐさま貴虎に投げかけていた。


「貴虎」


「ん、なんだよ」


「きょうだいとか、居たりするのか?」


「…………べ――」


 しかし、その質問は貴虎の毒舌に我慢できずに飛びかかって来たリンにかき消された。



 食事に使われた食器を洗うのは、当番制になった。

 夜は貴虎が、昼はリンが、そして朝は変わらず龍樹が洗い物を担当している。なんでオレが……、と貴虎は最初こそぶつくさと文句を垂れていたが、むしろリンよりも手際が良かったことは、三人の笑い話の一つである。

 そんな、朝食の片づけをしている龍樹には、ある一つの楽しみがあった。


「だーかーらー! いったいいつになったらナチュラルとシャープとフラットの区別がつくようになるんですかねー?? いっこフレットずらすだけだろオオタコ介! それともチューニングからやり直すか!??」


「わかってるからもう叩くんじゃねー!! さっきのはちょっとミスっただけだって!」


 遠くから聞こえる、やいのやいと騒ぐリンと貴虎、二人のやり取りを盗み聞きすることだった。

 貴虎の言う事によると、どうやらリンには本当に音楽の基礎の基礎から欠落してるようだった。八鶴の騒動の時に初めてリンの演奏を聞いた龍樹であったが、その時そこまで違和感なく演奏を聞けたので、衝撃的だったのを覚えている。

 だからか、最初の方のレッスンは、リンが持ち寄った楽譜を早速読んでみるのではなく、その楽譜を元にしながら、基礎的なことを叩きこむことに多くの時間が費やされた。そして実際貴虎は、その毒舌は相変わらずに、しかし確実にリンに基礎的な音楽の知識を叩きこむことに成功した。

 三人でちゃぶ台を囲むとき、龍樹は不思議に思って貴虎に尋ねたことがある。


「そういえば、どうして基礎的な知識を教える所から始めたんですか? 素人視点ですけど、別にリンには知識はなくとも、演奏をやりきるくらいの技術や感性がありますよね?」


「た、龍樹ぃー!」


 と、感動して龍樹にすり寄るリンを足で蹴ってけん制しながら、貴虎はうんざり顔で答えた。


「ま、確かに演奏にはなってたし、やっぱ触ってたんだろうな、技術もある程度あった。急ピッチで完成させるなら、耳で覚えさせるなり、本当に必要な知識を叩きこむだけでも良かっただろーな」


 しかし、その後。その回答に浮かれ気分になったリンに釘をさすように、そして、それは自分に言い聞かせるように、貴虎は続けた。


「……これは受け売りだけどな。確かに、音楽には本人のセンスと自由に任せて技術を手に入れる方法がある。いくらでもある。そしてそれだって一定の成果を上げてるし、認められるべきだ。

 でも、ひっぱたかれて、ぶん殴られて、血なまぐさく、泥臭く、苦しんで手に入れた技術は、それはそれで、音楽の外でも自分を守ってくれる一生モンになる。

 ……だから黙って練習と勉強すんだよ分かったかバカ野郎!!!」


「なんでその流れで俺が怒られなきゃなんねーんだよ!」


 と、また喧嘩を始めた二人だったが、しかし、龍樹はその言葉を聞いて、貴虎とリン、二人のレッスンを楽しみながら聞くようになった。そして龍樹は、今日もまた、譜読みの段階に入った二人のレッスンを聞くのである。

 雨がちな最近の天気も手伝って、レッスンは加速する。しかし、一方で貴虎はリンと龍樹と異なり、頻繁に外出するようになった。



 昨日まで雨模様が続いたが、今日はその合間の、はっとするような晴れの日であった。

 リンへのレッスンもほどほどに、貴虎は昼食を終えると外に出て、先日買った自転車にまたがった。

 雨上がりの匂いがする。むっと、土と緑の匂いがして、しかし、どこからか吹く風がそれらをすっとばして、そして消える。

 この土地にまねかれる前は、移動手段といえば専ら電車であったから、自転車に乗るなんていつぶりだろうと、ふと考えて、やめる。顔を上げると、まるで気持ちよく漕ぎ出してくださいと言わんばかりの河川敷が目の前に広がっていた。


(相変わらずこの周りは本当に変だな……。この前は坂に向かい風に大変だったってのに)


 貴虎も貴虎で、この複雑怪奇な龍樹の家の周りに適応しつつあった。

 

 夕暮れに照らされて、運動場とその広場は影を伸ばし、そこで騒ぐ人たちを浮かび上がらせる。そして、それを見下ろすように、やっぱり座っていた彼に、貴虎は声をかけた。


「よっすー。介、であってるっけ?」


「…………」


 貴虎に声をかけられた彼は、一瞬むっとた表情で顔をあげて、そしてすぐに貴虎の存在に気付いて驚いたような表情を作る。


「アンタ……、たしか、まねかれさまの?」


「そだよー。貴虎だよー。覚えててくれて助かるけど……、暇なのー?」


 またしてもその表情がむっと歪んで、その、つっけんどんたな態度とは裏腹に分かりやすいヤツ。と、貴虎は内心で苦笑いした。


「何の用だよ。また親父にお使いでも頼まれたのか? ……だとしたら、アンタの方が、よっぽど暇じゃねぇか」


「あー? 別にそうじゃねーよ。ただ、ちょこっとだけお願いをしにきてな?」


 と、貴虎が言い終わるか早いか、ふいっと視線をそらして、早く、そして短く介は拒絶した。


「俺を通して親父頼み事なんてやめるんだな。アンタが想像してるよりもうちは仲が良いワケじゃない」


 おっと。と、思わず貴虎は言葉に詰まった。まさか、自分の狙いの半分がすぐに見透かされ、言い当てられるとは思わなかったからだ。少しだけ、ほんの少しだけ彼を軽んじたことを内心で謝りつつ、しかし、貴虎は話を続けた。


「あったりー。……でも、それだけじゃなくてなー?」


 しかし、その言葉もまたすぐにはたき落とされた。


「……俺に頼むのも諦めろ。俺は……、暇じゃない」


 いや、暇そのものだろ。と、言いかけて、やめる。さすがにそれは踏み込み過ぎだと、頭のどこかで分かったからだ。

 うーん。と、貴虎は思わず会話の種に悩んだ。取り付く島もない、とはまさにこのことだ。自分の目論見は簡単に看過され、そして拒絶される。

 さて、どうしたものかと思うのも束の間、ピィー! と、カン高い笛の音が空気に飽和しながらも確かに聞こえた。

 思わずそちらの方に視線を向ける。ただの動く影でしかなかったその光景が、すっと、記憶と組み合わさり、そして気づいた。


「サッカーか? アレ」


 尋ねると、すぐに答えが返ってくる。


「サッカー以外にありえねぇだろ。良く見ろよバーカ」


「……生憎スポーツとか言う野蛮なものとは無縁な人生だったので」


「単にドッチボールでいじめられてだだけだろ。透けて見えんぞ運動音痴」


 コイツ……! と、一瞬カチンときて、そして留める。そうか、コイツ体育会系か。だったらこっちだって考えがある。

 貴虎は挑戦的な表情で介に尋ねた。


「お前、いくつ?」


「……十六。高二。」


「つまんねー。俺も十六」


「……別に年上だからって態度が変わると思ったら大間違いだからな」


「あ! 誕生日は?」


「見苦しいぞまだ学期始まったばっかじゃねーか。差がつくわけねーだろ。そんなに早生まれか?」


「いや、九月」


 言葉の代わりに、はぁ。とため息をつく介の表情は本当にくだらなそうで、今すぐにでも帰ってくれとでも言いたげであったが、貴虎は一方、話は通じるヤツ、という認識を深めていく。

 もう一度、貴虎は運動場に目をやる。


「怪我しても見学ってわけか。熱心だねぇ」


 それは、暇と言い合ったさっきのやり取りの意趣返しみたいなもので、ちょっとした皮肉以外にさしたる含みはなかった。

 しかし、その答えは貴虎の予想とは異なり、やけに深刻なトーンで返って来た。


「当たり前だろ。わかってんなら邪魔すんな」


 その深刻さが、やけに色々なものを過去から掘り起こして、貴虎は言葉に詰まった。


 それから、貴虎は足しげく介の元へ通うようになった。

 あからさまに暇のくせして、暇じゃないと言い張って見学するその姿勢から、打算的にうまいこと言いくるめられないかなと思ったのが理由のひとつだった。

 そして、晴れ間の夕暮れ、今日もまた貴虎は介に話しかけていた。


「いやー? バカな生徒を持つと苦労するねー? アイツ、まだ拍子の概念が抜けててて」


「……一体いつから俺はお前の便利な相談相手になったんだ?」


「暇そーだからじゃない?」


「だから――。……言っても無駄か」


 はぁ、と貴虎はため息をつかれる。

 介に暇だと言うたびに、彼はむっとして言い返そうとして、しかし、諦めたように自罰的にため息をつく。

 いつもなら、貴虎がまた適当に話を変えるのだが、今日は違った。


「……なぁ」


「え、なになに?」


 介から話しかけられるとは予想だにしてなかった貴虎は、思わず面食らって、そして話のとっかかりに食いついた。

 その貴虎の変りぶりにキモッと言いたげに眉をひそめた後、ふいと視線を貴虎から外して介は言った。


「八鶴先輩の事、なんだけどさ」


 ヤツルセンパイ。と、一瞬固まったが、貴虎は即座に、リンがやけに頼りにしている仏頂面の長身の男をすぐに思い出す。


「あー。あの人? 別に俺、そこまで親しいってワケじゃねーけど」


 と、断りを入れるも、介はさして気にしていないようだった。別に、と首を振った後、ぽつりと零した。


「あれだけ才能があって、あれだけ打ち込んでたものを、どうしてあっさり辞められたんだろうな」


 そこまで八鶴に興味がなかった貴虎は、テキトーに仮説をぶつけてみた。


「別に、そこまで好きじゃなかったとか。どーせただの部活だろ」


「いや。そんなはずはない。あの人は本気だった。部活だとしても、そんな簡単に辞められるかよ」


 なんだお前。きめぇ。と、貴虎は心の中で毒づいて、別の仮説打ち立てる。


「じゃあ、アレだ。本人は実は未練たらたらだとか?」


「…………」


 次は沈黙が返ってくる。なんだコイツ。と、戸惑ってるのも束の間、介の言葉が返ってくる。


「よりにもよって、才能のあったあんたが先に降りるなよ。みっともなくしがみついてる俺が、まるでバカみたいじゃないか……」


 そう言葉をこぼして丸まった背中を見て、貴虎はある一つの光景に思い当たった。

 借り物のズボンが汚れることも忘れて、廊下の影に跪く人たち。遠くから演奏の音色が聞こえる中、彼ら彼女らのすすり泣く声がそこに満つ。瞼の裏を赤く焦がすほどの光の裏で、悲哀が混ざる混沌とした場所……。

 そうして、()()()人間の姿を、よく見ていた。目の前にいる介からも、同じような匂いがした。


「サッカー、教えてくんね?」


「……は? 何言ってんだお前」


 まぁそうだわな。と、肩を竦めて、言葉を続ける。


「いや? お前に話した通り、オレ今、音楽教えててさ。別に困ったりとかはねーけど、一旦、教わる側になってみるのもありかなぁって」


 介の反応は冷淡だった。


「勝手にやってろ」


 会話をそう切り捨てて、視線は貴虎を外れて、コートを見ていた。



「よー。見てみろって、買っちった。ボール」


「…………」


 同じ場所、同じ夕方。ヌボーっと、呆れかえった冷たい視線を浴びながら、目の前で箱を開封して見せる。つくづく、スマホはなくても財布はあってよかったと貴虎は思った。


「まぁまぁ。実は習ってたこともあんだって。教える価値はあるって所見せてやるからさ」


 と、一人でできるリフティングをしようとボールを投げて、


「あ」


 すーんと、そのボールは風に乗せられて、貴虎の体のどこにもぶつかることなく、地面にバウンドする。


「…………」


「…………」


 ドッ、ドッ、ドッ、と、跳ねて、そして、介の座っている階段とは反対側、土手の草むらに転がり落ちた。

 介が噴き出した。


「たっ、たしかに……、お、教える価値は……、ありそうだな」


「笑うなよなァ! 何年ぶりだと思ってんだ! ボールなんてモン上手く扱える方が変だわ!! クソ!!!」


「ひっ、ひひっ……! 少しはマシな嘘つけよ……! そんでバレんのもはやっ……!」


「だー! 一旦ボール拾ってくるから! チクショウ!」


 貴虎は未だに笑い続ける介にそう叫んで、土手の草むらに飛び込んで、ボールを取って、戻る。無駄な買い物をしたと、既に後悔しそうになっているのを必死にこらえて、ボールについた土を払う。


「そんで、なんでそんなふざけた嘘ついたんだよ。……面白かったから別にいいけど」


「嘘じゃねぇ。小学生くらいの時、ホントに習ってたんだよ」


「少し前にサッカーかどうかも分かってなかったし、無縁云々言ってなかったけか?」


「実際無縁みたいなもんだったんだよ。すぐ辞めさせられたしな。才能ナシなんだと」


「才能、ね」


 と、そう貴虎の言葉を反芻したと思うと、介は少しの間黙った。そして、何かを決断したのか、よし、と小さく零してから、貴虎に言った。


「なんかやってみるか?」



 日も暮れて人が居なくなった運動場の端、紫色に染まった西の空をぼんやりと見上げて、貴虎はただただ自分の発言を後悔していた。


「はいもういっかーい。休むなよー」


 といった言葉と共に、ベンチに座る介からボールを投げ渡される。


「ちっとは休ませろや! 何回蹴ったと思ってんだ!」


「まだ10回も蹴ってねーだろ! このミジンコ体力!」


「うっせー! もっと楽なのねぇのか! パス練とか!」


「相手も居ねぇのにパス練なんて出来るワケねぇだろ!」


 ちょっとギブ。と、小さく言って、貴虎はボールの上に座った。その行動を見て察したのか、介は松葉杖をついて貴虎の元へ寄りながら、ありえない物を見るような動揺と呆れと軽蔑を混ぜた視線で見下ろして言った。


「お前……、体力無さすぎだろ……。習い事が嘘かどうかとかどーでもよくなるレベルで体力がない。本当にない。びっくりするほどない。遭難したらすぐ死ぬ」


「本当にやってたんだよタコ……」


 と、未だにそう言い張り続ける貴虎の意地の根拠が気になって、介は思わず尋ねる。


「小学生のいつ、どんくらいの間習ってたんだよ」


 言い辛そうに鼻の下を掻いたあと、目を合わせずに貴虎は答えた。


「一年生の頃。二週間」


「…………」


 おかしい。と、介が面と向かって言えずに沈黙したのは、藪蛇のような、踏み込んではいけないようなものが突然現れたような気がしたからだ。しかし、介の気遣いともとれる沈黙に、貴虎は応じなかった。


「ま、変なのは自分でも分かっているよ。色々言い張ったのもただの勢い。……で、お前は?」


「は?」


 まさかこの流れで自分に質問が向かうとは予想していなかった介は、思わず不思議な声を漏らす。


「だーかーら、お前の歴はどんくらいかって」


 介はなんだか答えに窮してしまった。自分の内の、負い目のようなもの、怪我、それと、情けない現状が、その歴に合っていないような気がして、口に出すのに気遅れた。


「……十年」


 と、言って、さらに逃げるように下を向て、こう付け加えた。


「何者にもなれなかった。何も成せなかった。そして、今は()()()()だ」


〈続く〉

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