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その音が止まるまで  作者: 神永瞬子
二章 亀は見上げる
7/17

7.財がないので、材を求める

 この海岸は死んでいる。ふと、リンの脳裏にそんな言葉が浮かび上がって消えた。

 空とそこに浮かぶ太陽はまるで真夏日の様相だが、驚くべきことに必要以上の暑さは感じなかった。視界に入る砂浜はどこまでも白く、そして海は驚くほどに澄んでいる、澄み過ぎている。

 この海岸には、あの胸に迫ってまとわりつくような潮の匂いもしなければ、足元の砂にうごめく小さな生き物たちの息遣いも感じない。ただ、波が寄せては返して、海岸に物を運び、また、連れ去ってゆくその流れだけがある。

 墓場のように静謐な空間に、四人の足音と、波の音だけが響いている。


「……なるほどねぇ、これが神隠しっつー不思議体験の一部ってワケ?」


 興味深そうにそう笑う貴虎を尻目に、リンはぐるりと海岸を見渡した。

 茶色に錆び切ったがらくたの山、何かもわからない獣の骨と流木。この中に本当に扱えるだけのギターや機材があるのかと不思議に思ったが、探すに他はない。と、リンは静かに決意した。



「……なるほど、楽器の経験者か」


「やっぱり、厳しいか? その、どうしても会いたいんだ」


 目の前でうーんと唸る八鶴に、リンはそう嘆願した。

 貴虎との約束から数日、さっそくリンは八鶴を頼っていた。例の公園は、もうすっかりリンと八鶴なじみの場所だ。

 しかし、あの頼りになった八鶴でさえも、リンのお願いに対して渋い顔をして困ってしまった。


「うーん。吹奏楽とかじゃない、バンド、バンドの経験者……。すまない。心当たりが全くないな」


「うぐ……。やっぱりか」


「おれも少し探してみるよ……。あと、代案になるか分からないが、楽器や機材に関してなら、心当たりがある」


 友達と遊びまわるめじろとつばめのはしゃぎ声が聞こえる。

 リンは思わず八鶴に詰め寄った。


「こっ、心当たりって……!」

 

 その勢いに押されながら、八鶴は頷いて答えた。


「あ、あぁ。うちの後輩に、古物商……、まぁ、ジャンク品とかを扱う店の子がいてな。そいつに当たれば、もしかしたら機材は手に入るかもしれない」


「なら今すぐ……!」


 と、舞い上がったリンに、八鶴は困り気味に、しかしぐさりと警告を突き出した。


「少なくとも街一つ分は歩く。それに、機材を中古品でそろえるとしても、金はどうするんだ? 少しくらいならおれも出せるが、全部は無理だ」


「機材……、機材?」


 釘を刺されるように言われたが、それでふと、リンの脳裏にひらめきの光が走った。壊れているかもしれない、使えないかもしれない、けど、確かに物が流れ着く、そんな話をしたはずだ。


「……きゅ、急にどうした、そんな怖い顔して」


 戸惑って、心配気味にこちらに話しかける八鶴に、リンは打算たっぷりに尋ねた。


「新しいまねかれさまが来たって言ったら、信じる……?」



 ただでさえよく分からない謎の海岸から、それらしきものをかき集める。経験者ではなくとも、人手は絶対に必要だった。

 リンの打算というか、陰謀というか、計略というかは面白いほどハマり、八鶴をまず協力者として呼ぶことができた。またこうして龍樹の家周辺に八鶴を呼ぶのは、そしてそもそも同伴可能なのかリンは少し不安だったが、今、こうしてリン、龍樹、貴虎、そして八鶴が家の周りの海岸にいることが、リンの不安が杞憂だったことの証左だろう。


「……まさか、地元で潮干狩りをするハメになるとはな」


「なんか……、すんません。忙しいのに、アドバイスやらなんやらで手伝って貰っちゃって」


 自分で誘った手前、自己満足的な謝罪だと言われてしまえばそれまでであるが、しかし、リンは雀鷹谷家の事情の一端を垣間見ている。多忙な八鶴に、何度も頼ることに申し訳なさを感じて、リンがそう謝ると、八鶴は案外けろっとした顔で言ってのけた。


「いいんだ。むしろ、母さんからは趣味でも何でもいいから自分の時間を作りなさいってずっと説教されていてな……。渡りに船というヤツだな」


「助かります……」


 そうやって頭を下げると、八鶴や辞めてくれと断った後、いたずらっぽく笑って、


「その代わり、リンの演奏は最前線で聞かせてもらおうかな。音楽はさっぱりだが、きっといいものになる」


 とリンの肩を叩いた。


「頑張りやす……」


 嬉しいやら、不安やらで、八鶴の期待に対して、リンはそう返すしかなかった。そうして話していると、遠くから貴虎の怒号が響いた。


「なーーにサボってんだぶっ殺すぞーーー!!」


「……新しいまねかれさまは、随分と個性的だな」


「はい……、俺も、そう思います……」


 リンはとぼとぼと自分の持ち場に戻った。

 足元に広がっているがらくたたちから、それらしいものを探しては、やっぱり違うと山に戻していく。そんな作業をしながら、リンはやっぱり、少し前に龍樹に言われたことを思い出していた。

 ここにあるがらくたは、厳密にいえばがらくたではない。龍樹の言葉をそのまま用いて考えるのならば、ここにあるのは、使い古され、役割を果たして棄てられたものなどではなく、作られたのに、何の役目も果たせず、誰の目にも留まらず、そこにあるだけなのに棄てられたもののように扱われたものなのだ。

 あの時思わず、人もそうか龍樹に尋ねたのは、ここに流れ着いた物たちに、なんだかすごく、親近感を覚えたからだった。

 俺は、どうしてここに居る? 答えらえれない。誰も見ない、誰も相手にしない、誰も、必要となんてしない。そんなものは本当に、存在していると言えるのか? そんなヤツ本当は、いない方がマシとさえ言えるんじゃないのか?

 多分、自分には帰る場所がないんだ。リンはそう、自分の心根を言葉にしてみた。帰ったって、自分の居場所はない。逆に、自分の居場所がない所に、どうやって帰ればいいんだ?

 ふと、肩と腰が痛くなって、背伸びをしながら周囲を見渡した。 

 ここに迷い込んだ自分も、八鶴も、貴虎も、あるいは龍樹も、もしかしたらそうなのかもしれない。そうだったのかもしれない。


「おーい! 貴虎! リン! これはどうなんだー!?」


 ふと、八鶴が声を上げて貴虎を呼んだ。

 その手には、確かに見覚えのある特徴的な形をした、自分たちが必要とした楽器が握られていた。


「ハハッ! ホントに出んのかよ! やるじゃん栃木の謎怪岸!」


 貴虎を最初に、リン、龍樹が八鶴の元に駆け寄った。

 弦が全部切れて、外側がボロボロのそれは、一見するとギターかベースか判断がつかなかったが、近くでよくよくみると、その先端についている弦を巻き取るペグの数から、ベースだと判断できた。

 しかし、まぁ、この様相では、


「……ぶっ壊れてるかも分かんねぇな。そもそもアンプもシールドもねぇから音もでねぇし」


「ですね」


「だな……」


「そうか……」


 貴虎の根本を突いた発言に、龍樹とリンが同意し、こっくりと八鶴が小さく肩を落とした。

 一瞬、落ち込んだ雰囲気になりかけたが、「でも」と、龍樹が口を開いた。


「収穫、ですね。ひとまず、モノは探せば手に入りそうです」


「しっかし、覚悟はしてたが修理前提だナこりゃ。おい、リン。言い出しっぺ」


「うぐ……。ここまで、とは……」


「はーーつっかえ。壊れてるのは前提の当たり前田のクラッカーだろ」


「機材や楽器をここで探す案は悪くねぇと思ったんだよ!! つーかお前もなんかアイディア出せよ!」


「最近ようやく拍子の概念を理解した残念なヤツに何言われても効きませんーー!!  

オレには関係ねーしー!! バリア―!!」


「小学生か!」


 と、楽器を囲んでぎゃあぎゃあと二人が喧嘩を始める中、ふと、その騒ぎの渦中にいた八鶴が一人で心当たりを探っているのを、龍樹は見逃していなかった。


「……なにか、お知り合いがいるんですか?」


「あぁ、いや。……相談された手前だが、アイツの家が楽器を扱ってるかどうかは分からなくてな。掛け合ってみても――」


 しかし、八鶴のそんな遠慮がちな言葉を断ち切って、龍樹は背中を押すように言った。


「その縁にかけてみるのが吉でしょうねぇ」


「その、龍樹の何でも知っているような反応は何なんだろうな」


 はぁ、と、未だ絶妙な距離感の龍樹とのやり取りに小さくため息をついて、取っ組み合ってごろごろと地面に転がりながら喧嘩をしているリンと貴虎に、八鶴が呼び掛けた。


「おーい。ちょっといいか?」



 爽やかな風が吹いた。空気は久々に澄んでいて、遠くの山のその山肌までくっきりと見える。酷い暑さでもなく、かといって刺すような寒さでもない気候はまさしく絶好の遠出日和だと言えるだろう。

 謎が多いと言え、響群の本質は関東平野に属する栃木県の土地柄だ。視界を阻むものが少ないので、少しでも高い場所に出ればもう地平線の端から端まで視界に収めることができる。まるで、お椀をひっくり返したかのような半球の広い広い空が山の端に区切られるまで続いていた。


「ごめ……、も……、うむり…………」


「その、すまない……。自転車とか用意してやればよかったんだが」


「いや。それ抜きでも体力無さすぎ……」


 道のど真ん中でへばって動けなくなってしまった貴虎と共に、リンと八鶴の二人も足を止める。貴虎は恨めしそうに二人を見上げて睨みつけて叫んだ。


「つーかどうしてオレもそっちに向かわなきゃいけねーんだよ!! お前ら二人、最悪一人でもいーだろ!!」


「誠意がない。発見した自分と、企画をしたリンは当然として、音楽的な知識があるお前だって来た方が話がうまく回るだろう」


「スマホという文明の利器を知らんのか! リモートさせろリモート!」


「「いや、持ってない」」


「俺も無くしましたよ! ログボも途切れました!!! クソ!!」


 だあぁ。と、特大のため息をついて貴虎は天を仰いだ。

 体力がない、と貴虎に言った手間口には出せないが、リンも若干疲れていた。というのも、八鶴が案内してくれる楽器を直せるかもしれない後輩の場所へ向かうのに、ベースを背負ってまず歩き、そしてさらに歩いたあと、バスをしばらく待って移動した後、また歩くというハメになったからだ。


「電車に甘やかされた東京モンには辛いぜ……。どうやって生活してんだよ」


「学生は歩くか自転車しかないな。おれは朝練ついでに家から学校までずっと走ってたが」


「ヘロヘロのオレらの代わりにベース背負って歩いてても平気そうだしな……。リン。お前は? 俺よりも先にこっちに招かれたとはいえ、辛くねぇのかよ」


 そう貴虎に尋ねられて、リンはまさか自分に質問が向かうと思っておらず、ぎょっとした。


「……あーっと、それは」


 自分の事を話すとなると、どうしてか途端に言葉が出てこなくなる。そんな困るリンを見かねてか、八鶴が質問を砕いて問い直す。


「……少なくとも、ここみたいに田舎から来たわけじゃないだろう? 初めて会って結構歩いたとき、辛そうだったし」


「そう、だな。俺も、そこまで田舎から来たワケじゃない。電車も、バスも普通にあったよ」


「ふーーん。つまんねーなもう行こうぜ」


「聞いといて何なんだそれは!!」


 もう休憩はいいとばかりに、貴虎は勢いよく立ち上がるとまた歩き始めた。

 朝に出発して、もうそろそろ昼前になろうとしている。もし、八鶴だけだったらもう少しだけ早かっただろうか。

 変わり映えのない田畑と家の道を過ぎると、ようやく建物が密集している住宅地のようなエリアに入ることが出来た。ひと町ぶん歩いたということだろうか。そうしてしばらく歩いていると、まさしく商店街と言ったような、大きな道を店が挟み込むような区域にたどり着いた。

 しかし、人気がない。八鶴の予定の合間を縫った休日の昼間。商店街と言ったらもう少し活気があっても良いはずなのに、大して人とすれ違わない。よく見れば、店のほとんどがシャッターを下ろしている。そのシャッターすら、所によっては白の塗装が剥げて錆びついてしまっている店もある。


「おれが生まれるよりだいぶ前から、こんな有様だったらしい」


 その、昼の明るさが空回りするような商店街の淋しさに耐えかねてか、それとも、きょろきょろと商店街を見回すリンを見かねてか、八鶴がそんな風に口を開いた。


「まぁ、田舎あるあるだな。昔ながらのーってやつはみーんな店じまいしてな」


 感情が滲んだ八鶴の語り口とは対照的に、貴虎はバッサリとどうでもよさそうに語る。


「まだ全部の店が閉まった訳じゃない。うちの後輩の店も、そのうちの一つだ」


 喉に力がこもったような、そんな声音で八鶴がそう反論した。貴虎も、必要以上に八鶴に対して露悪的に振舞うのはしたくなかったのか、「へいへい」と小さく言って黙ってしまった。


 商店街の片隅、道路に面した建物の一階に、いかにもと言ったような様相の店があって、八鶴の歩みはそこで止まった。

 ジャンクショップの名前に違わず、店の前には、自転車や子供向けの玩具、コートやテレビなどが物の種類問わず雑多に置かれている。


「失礼します」


 と、八鶴がそう言いながら店へ入るのに続いて、リンと貴虎も足を踏み入れた。


「せっま」


 小さく貴虎がそう言った。リンも口には出さなかったが、店の中の物の数と、自分の立ち位置の無さの圧迫感に思わず戸惑った。

 それは、店というよりも物置に近かった。ありとあらゆるものが、それらしい法則性を持って、しかし乱雑に、パッケージされて置かれている。なんだか少し蒸し暑いような、そんな気がする。ホコリと、少し錆びた金属のような匂いがした。


「いらっしゃーい」


 店の奥から、少し枯れた野太い男の声がした。そしてしばらくすると、その人物が物のジャングルを掻き分けて現れた。

 年齢は、八鶴の父である貴文と同じくらいだろうか。病弱で色白だった彼とは対照的に、袖から除く腕は太く、肌も日焼けして浅黒い。無精ひげと少し出た腹が妙に似合っていて、頼れる漢、という雰囲気がした。


「あれ、雀鷹谷さんちの? 遠いのによく来たね。後ろの人は……、初めましてだよね?」


「八鶴です。後ろの二人は、小さいのがリンで、眼鏡が貴虎です」


「うっす」


「っす……」


 二人そろって小さくそう会釈をする。警戒心が強いリンはともかくとして、貴虎もなんだか変に大人しくしている。


「はいはい、八鶴くんね。要件は……、その背中のヤツかな?」


「はい。北見さんに診てもらおうとおもって」


「あいよ。奥来て。椅子もあるから」


 三人は言われるがまま、店の奥へ進んだ。リンは、自分の服がどこかに引っかかって何か大惨事が起きるのではとひやひやしながら、物をかわしつつ進んだが、ちらりと隣の貴虎をみると、彼はそんな事全く気にしていなさそうに、なんだこれと物を手にとっては戻すというのを隠れてしながら進んだ。

 進んだ先には、作業場というべきか、見たこともないような工具が散乱している大きな机と、低い汚れた椅子が数個置いてあった。八鶴が座ったのに合わせてリンも座る。そして、北見と呼ばれた男は、八鶴が渡したベースを、「それじゃ、早速」と言って調べ始めた。


「そういえば、噂で聞いたよ。バスケ、もう引退だってね」


 淀みなくベースを開けながら、顔を上げずに北見は八鶴に話しかけた。


「まぁ、そうです。ちょっと早いですけど」


「何か怪我でもあったのかい? うちのヤツみたいに」


「あぁ、いえ……。そう、(かい)の様子は大丈夫ですか?」


「うんや。お医者さんに言わせれば、まだまだ安心できないって」


「そうですか……。今はどちらに?」


「またいつもの場所じゃねぇかな。あ、そうだ」


 と、そう言って北見は顔を上げた。


「介のヤツを迎えにいってくれないか? そしたら、この診察代チャラにしてあげるからさ」


 どうする、といった風に八鶴がくるりと二人を見た。

 金もなく、かといって八鶴と貴虎に頼るわけにはいかない。リンに頷く以外の選択肢はあったのだろうか。



「お使いの次はお使いですか!! 結局なーんもなかったしな! 俺を連れた意味はどこですかー???」


 と、自分の頭を抱えて叩いてくる貴虎に、リンは反論材料を持ち合わせていなかった。お前の財布だせ! と八鶴にとても言えなかったリンは、ただただ黙って貴虎の誹りを受け入れるしかなかった。


「別に、そんな大した金額じゃないと思うがな。リンが言うなら、俺が出してもよかったんだが、介の様子も見ておきたかったし、渡りに船だな」


 ふと、時折出てくる介という名前に疑問を抱いて、リンは八鶴に尋ねた。


「その、介って人は……、八鶴の後輩ってことでいいんだよな?」


 八鶴は頷いて答える。


「あぁ。まぁ、後輩と言っても、おんなじバスケ部ではないがな。運動部同士の繋がりで、少し仲が良かっただけだ」


 ここじゃ、全員知り合いみたいなものだから。と、小さく八鶴が付け加える。

 商店街を抜けて、閑散とした住宅地に足を踏み入れる。昼下がりの光が、それぞれの家の壁を密色に染めている。


「俺また死ぬほど歩くの嫌なんだけど。帰りもあるし。次はどこにいくん? 医者って言ってたし病院?」


 ふと、貴虎が八鶴に問いかけた。


「運動場だ」


 と、短く八鶴はそう問いかけた後、ぱっと後ろを振り返って、リンと貴虎の表情を見た。そしてその後、ふと笑った。


「安心しろ。そこまで遠い場所じゃない」


「体力無し子にはありがたいわぁ」


 そうして少し歩くとやがて、辺りを見下ろすような一本道の土手と合流した。その道にそって行くと、目下の開けた場所にテニスコートやサッカーコートが隣接した広場のようなところにたどり着いた。

 そこまで遠い場所じゃないとは言ったものの、やはり歩きでは時間がかかったのか、既に日が傾き始めていた。


「ひっろ……」


 見下ろすような場所からだからか、余計に目の前の運動場が広大に感じられる。リンは思わずそう零していた。


「あ、いたいた。おーい」


 と、リンが感嘆している間に、八鶴は既に介を見つけていた。つられて視線をそちらに向ける。

 土手から運動場へ下るための階段の中腹に腰かけていた彼は、こちらの存在に気付くと、八鶴の無言の静止を無視しながら、ゆっくりと右ひざを庇いながら立ち上がり、こちらまで器用に松葉杖をつきながら上って来た。


「うっす……、先輩」


 何かを拒むような、突き放すような鋭い目つきがまず、一番初めに印象に残った。体つきも雰囲気も、確かにスポーツマンらしい。切りそろえられた黒い髪に、激しい運動に耐えれるようにはっきりと、それでいて速く走れるように無駄をそぎ落とた姿。油断のないきちっとした雰囲気。しかし、なまじリンの素人目にもそう映るほどしっかり完成されているそれらが、痛々しく右ひざに巻かれたサポーターと、彼の重心を支える無機質な松葉杖の存在をむしろ目立たせていた。


「それと、後ろの人たちは?」


「あぁ。まねかれさまの、貴虎とリンだ」


「ういーす」


「……っす」


 介は、八鶴の紹介を受けて挨拶をする二人をちらと一瞥した後、


「なんか、フツーって感じですね。まねかれさまって奴は。色んな噂で、俺もっと浮世離れしたみたいなの想像してましたけど」


 やはり、地元の人間らしくまねかれさまの存在を自然と受け入れながら、そう言った。一方でその反応は、貴虎にとっては衝撃的だったらしく、小声で「マジであるんだそーゆーの」と、小さく零していた。


「まぁ……、噂には尾ひれがつくものだからな……」


 普通、という感想にショックを受けたように後頭部を掻きながらそういう八鶴に、介は続けて質問を投げかけた。


「で、八鶴先輩。何用ですか。わざわざ休日に隣町まで来て」


「あ、あぁ。その、色々の野暮用のお使いで、介のお父さんに頼まれてな」


「なんすかそれ……」


 煮え切らない八鶴の答えに、介は小さくため息をついて、首を横に振った。


「別に親父に心配されるようなことは何も。むしろ、俺は八鶴先輩の噂の方が心配ですが」


「ん?」


 意外な返答に八鶴は当然として、リンも貴虎も思わずつられて介の方に視線を送る。


「自覚、ありませんか? 結構噂になってますよ。電撃引退の件」


「あ、あぁ……、そのことか……」


 心の中で、リンも納得したように息を漏らした。思えば、介の父親の時もそうだった。八鶴の家庭環境とそれによる進退の話は、リンにとっては様々な情報と本人との会話を含めてある程度事情を知っていたが、何も知らない人から見れば、確かに謎の電撃引退に映るだろう。そして、別にそれらの理由は大々的に他人に説明するものではないはずだ。ましてや、後輩には。

 八鶴は困ったように言葉を濁して、しばらく言葉を探したのち、歯切れ悪く答えた。


「まぁ、その、色々……。大丈夫だ。まぁ、うん。引退は確定だけど、まぁ、大丈夫だ」


(誤魔化すのも説明するのも下っ手クソ……)


 リンは心中そう指摘するほどに不自然な、途切れ途切れの言葉だったが、その八鶴の答えに、介は少し寂しそうな素振りをしながら言った。


「……そう、ですか。引退するの、マジなんですね。みんな、引退試合楽しみにしてたんですけど」


「それは持ち上げ過ぎだ。ただの試合で、ただの学生の引退だよ」


 八鶴が肩を竦めて謙遜するのに、なぜだか介は納得がいっていないようで、少し苛立った様子で質問を続けた。


「未練とかないんですか? 次あれば全国あったかもしれないのに」


 それは奇しくも、八鶴の逆立ったものを刺激するような踏み込んだ質問だった。リンは少しだけヒヤッとして、貴虎は不思議そうに二人の会話を眺めていたが、当の八鶴は存外冷静に、


「まぁ。あるけど、大丈夫だ。心配かけて悪いな」


 と、笑って言うのだった。

 しかし、それは介にとって相当腹に据えかねる、ともすれば不愉快な回答だったらしい。これまでの敬語と態度からはかけ離れた、小さな、本当に小さな舌打ちをした後、


「……そうですか。……俺のことは心配なく。勝手に帰るんで、大丈夫ですよ」


 と、突き放すようにそう言って、階段を下り始めてしまった。

 当の八鶴は、介の苛立ちにも舌打ちにも気づいていないらしくきょとんとしていたし、リンも介の苛立ちの本質には気づけないままだった。

 ただ、別に会話にも混ざらず、そして特段、経緯のわりにこれまで付き合わされた意味のなかった貴虎だけが、介の後姿を興味深そうに観察していた。


〈続く〉

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