5.あしもとの幸せ
ふと目を覚ます。ぼんやりとする頭を抱えながら、何とか体を起こして辺りを見てみると、そこはいつぞやリンと出会ったあの公園である事がわかった。
周囲はまだ暗い。まさか、自分が一日中寝ているという訳ではないが、何時間そうしていたのかは分からない。八鶴はよし、と立ち上がる。
月が浮かんでいた。そろそろ満月だろうか。夜風がそっと吹いた。短い春が終われば、すぐ、夏が来る。
◇
家には、まだ明かりがついていた。なまじ帰り道の途中で、明かりを落として静かになっている家々を見ていただけに、そんな我が家の様子を見て心が痛んだ。歩を進めて、玄関の扉に手をかける。開けて、中に入る。ただそれだけの事なのに、妙に躊躇ってしまった。
「……ただいま」
意を決して、中に入る。返事はなかった。廊下に、食卓の明かりが漏れ出ている。そちらを覗くと、意外なことに養母はおらず、三鶴がいた。
彼女は自身の部屋があるのにも関わらず、食卓で参考書を開いて勉強をしていた。きっと自分の帰宅には気づいている。それなのに返事をしないのは、集中をしているのもそうだが、きっとまた、カンカンに怒っているからなのだろう。
「……何か飲むか?」
「ホットミルク。ふたつ」
夜遅くまで勉強をしている三鶴に何か差し入れるのはいつもの事だが、こうやって突っぱねるように注文されたのは初めてだった。要望の通り、手を洗った後、はちみつと牛乳を取り出した。
静かな食卓だった。三鶴がペンを走らせ、紙がこすれる音。電子レンジの低い唸り以外は何も聞こえない。
「……お母さんは、もう寝たよ」
「……そうか」
「泣いてた」
「…………」
何も言葉が出てこなかった。間が良いのか悪いのか、チン、と電子レンジが鳴った。ふたつのホットミルクが出来上がって、八鶴はそれを持って三鶴と向かい合うようにして座った。
「できたよ」
「ありがと。……ひとつは、八鶴のだから」
「……だったら、はちみつは入れなかったんだけどな」
「二杯も飲むわけない。……そういう所が嫌い」
「ごめん」
三鶴はそう言うと、それまでノートにやっていた視線を上げ、そしてすっと、自分側に寄せられていたマグカップのうち一つを、八鶴側に差し出した。
一瞬互いに目が合い、そして、似てないなと思った。
「……恨むんだったら、私を恨んでね」
三鶴に突然そう言われて、八鶴はぎょっとして聞き返した。
「どうしてだ?」
「…………」
そう問われるも、三鶴はしばらくの間自分のマグカップを両手で包み込んで、視線をそこへ落としていた。言葉を探しているようだった。八鶴はただ黙って言葉の続きを待った。
「……私のわがままで、八鶴がバスケを辞めるハメになったから」
そんな三鶴のか細い言葉に、そんなことない。大丈夫だ。と、言いたかったのに、言えなかった。もう自分の心の底を知ってしまっていたから、口が裂けても言えなかった。
「少なくとも、私が大学の進学を諦められたら、八鶴は高校最後までバスケを続けられた。全国にだって行けたかもしれない。こんな中途半端なことには、きっと、ならなかった……」
言葉尻は、この場の空気のどこよりも重い場所に溶けて消えた。
どうだろう。自分が、大学まで行ってバスケをするよりも、中途半端にバスケを辞めて家族を助けるよりも、ずっと現実的でありえた選択肢。考えて、しかし、と声に出しそうになった瞬間だった。
「……でも、ごめん。八鶴」
唇をきゅっと噛んで、こちらをまっすぐと見据えて、そして彼女は言った。
「私は、やっぱり、父さんの研究を完成させたい。父さんの研究を引き継いで、いつか、形にしたいの。そのためには、東京の大学に行くのが一番早い……。ごめん。分かってる、ずるいって分かってる……、でも、ごめん……」
三鶴はそう言って、深く、深く頭を下げた。それが、何に対する謝罪と懇願なのか、よく考えて、そして八鶴は一つ、ある自分の思い上がりに気付いた。
辛いのは自分だけで良いと思っていた。自分が諦めさえすれば、あとは家族にいつも通りの日常がやってくるのだとさえ思っていた。だが、自分の苦痛を見届ける相手もきっと、同じように辛いのだ。
八鶴が、自分で考え、自分で選んだと思っているこの選択も、迫ってしまったと考える人間がいる限り、きっとその人間も同じように苦しむだろう。
これまで、自分の前に立った相手だって、自分の選択で同じように苦しんでいる。そう考え着いた途端、憑き物が落ちたようにふと肩が軽くなって、それと同時に八鶴は、目の前の相手の苦しみを、少しでも取り除きたいと思った。
「……謝らないでくれ。苦しいだろうけど、これからも、ずっと、謝らないでくれ」
三鶴の、血の繋がらないきょうだいの肩に手を置いた。ずっと一緒に暮らしてきたはずなのに、なんだか遠くなってしまったその肩に触れた。
「きっと、おれは一生後悔する。何度も死ぬほど後悔する。どれだけ言い訳したって、言い聞かせたって、バスケがしたかったことに嘘は吐けない。未練がないなんて、絶対言えない。隠せない。悔しいよ。それくらい本気だった」
言葉にするたびに、想像よりずっと、ずっと辛かったが、それでも続けた。
「……でも、おれはもう大丈夫だ。後悔するって、大丈夫じゃないって分かったから、もう平気だ」
それは、八鶴なりの宣言で誓いだった。無我夢中で言葉を続けた。
「もしかしたら、何かの気の迷いで、間違いで、また酷い事を言うかもしれない。何度も後悔しての繰り返しになるかもしれない。でも、もう絶対に、一人で抱え込んだりしない。三鶴には、皆には、胸を張って生きて欲しい。だって……、」
「家族だから」
◇
今朝は散々だった。
起きて自分を見るなり大泣きする妹と弟を何とか宥めながら、母に昨晩の事を謝罪して、バスケをしたかったこと、だが、それでもやはり三鶴の、きょうだいの夢を応援したいこと、そして家族を支えたいことを正直に伝えた。
ただ、それはそれとして自分の行いの罰というか、償いがあるわけで、母に、今後話すときの敬語を使用を禁止を約束させられてしまった。
まぁそんなことをやり取りしていたら、時間が押してしまって、バタバタしながら洗濯ものやら朝食やらの家事をして、遅刻ギリギリで登校したのだ。
蕾を抱えた桜の木と、バスケットコートをぼんやりと眺めながら、ベンチに座っていると、なんだかため息が出た。うんざりしたとか、そういうのではなく、なんだか一区切りようやくついたような、でも、まだ続くようなぼんやりとした時間の間隔が、そうさせた。
昼休みにまた例の公園に来いと、彼、松戸から連絡がきた。彼の到着を待っている。
「……よう」
「ん、遠かっただろ。ありがとう」
決意に満ちたような、硬い表情をした松戸がやって来た。大会で試合をしたっきりだが、敵同士だったのになんだか意気投合してしまって、連絡先を交換するに至った……、貴重な友人だ。
「……考えは変わらないか?」
以前出会った時の反省か、感情を押し殺したような、極めて冷静な声色でそう尋ねられた。彼の目を見て、ゆっくりと頷いた。
「あぁ。……悔しい、けどな」
自然とそう出た、悔しいという言葉に、彼は驚いたようだった。そして、そんな言葉が出てくるまでの心持の変化を、彼はきっと察してくれた。
返答は変わらないのに、前と違って、彼は声を荒げなかった。ただ、ただ、悔しいという言葉をかみしめるように、しばらく黙っていた。
「…………そう、だよな。お前が一番、悔しいよな。でも、嬉しいよ。ようやく本当の事が聞けて」
「家族を支えたいという心も本当なんだけどな……、まぁ、何となく分かるよ。お前も三鶴も、きっと同じことで怒ってたし、悩んでた……、悩んでくれてたんだな」
松戸は照れ臭そうに笑って、手を振った。
「よせやい。負けっぱなしが悔しいだけだ。……家の事が安定してきたら、とかは考えないのか?」
そう問われて、思わず困ってしまった。
もうバスケは終わりで、家族を支えるんだ。とばかり考えていたから、その先の事の自分の事を考えるなんて、すっかりしていなかった。
「どうだろうな……。またやれたら嬉しいかもしれないけれど」
「まぁ、まだ先の事だからな。そっか……」
そう言いつつ、松戸は隣に座った。彼もまた、憑き物が落ちたような、清々しい顔をしていた。
「俺は、プロになるまでバスケ続けるよ。厳しい道になるだろうけど、なってみせるよ。辛い事とかもひっくるめてさ……、あぁ、そう、まぁ、だから……、なんつーかさ、お前はきっと家族が大事だし、そっち方がいいって分かっているからその道を選んだわけだし、変なこと言ってるって分かってるけどさ……」
少し言葉に悩んだ後、彼は言った。
「幸せになれよ」
しばらく、松戸と進路の話をぽつぽつとした後、彼は帰っていった。
一人になってもしばらく、彼の言葉を思い返していた。
バスケを続ける幸福と、家族といる幸福のどちらが多いとか、良いとか、そういう話じゃなくて、もっとこう、自分はきっと視野が狭かったのだろう。
一度でも自分の心に反して幸せを棄ててしまったら、もう二度と幸せになんて慣れないんじゃないかと、きっと、そう思っていた。でも、案外、どの道を選んだ先にも、幸福も不幸もおんなじくらい転がっているのだろう。
このままバスケを続けることで得られたであろう幸福は、もう拾えない。けど、だからと言ってそのまま一生不幸なんてことも、きっとない。
ボールを持つ。そして、目の前にあるコートに向かって放ってみた。いつもならすんなり入るはずのそれは、歪な軌道を描いて、リングにはじかれて、消えた。
それでいい。そう思えた。
〈続く〉




