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その音が止まるまで  作者: 神永瞬子
一章 弦と鶴
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4/17

4.帰り道まで

 着の身着のまま、衝動的に家を飛び出した八鶴にまず押し寄せて来たのは、重苦しい後悔だった。

 吹き荒れる感情や思考は、案外すぐに止んでしまった。それに身を任せて、全ての責任を家族や他人に押し付けてしまえば楽なものの、それが彼にはできなかった。普段なら美徳とされることだが、今は、むしろ彼をより孤独に、そして迷わせることになった。

 葦子さんは傷ついただろう。当たり前だ。血も繋がってない自分が、これまで普通に生活が出来たのも、そして三鶴やつばめ、めじろと、家族のように日々を過ごせていたのも、あの人と貴文さんが気を遣ってくれていたからだ。あの二人が、必死で守ってきた当たり前の日常だったのだ。

 それを自分は拒絶した。いや、この表現は適切ではない。心のどこかで拒絶し続けていたのが、露呈した。葦子からしてみれば、それは人生のほとんどを否定された気分だっただろう。

 八鶴は歩きながら、深く息を吸って、吐いた。なんだかずいぶん、寒い気がした。

 もう少し、気持ちの整理がついたら、帰って謝らなければ。残してた家事をして、そして、いつも通りの日常に戻ろう。戻ろう、戻ろう、戻って……。


(戻って、何をするつもりだ?)


 ひた、と冷たい壁に触れた。思考の果ての果て、普段なら考えたところで意味のない、究極的な疑問の最果てに、八鶴は触れた。

 こんな日常が、一体いつまで続くのか。いつまで自分は、これを続ければいいんだ? これを続けた先に、本当に自分は居るのか?


(何考えているんだ……。自分で決めた事だろうに。働いて、家事をして、家を楽にして、三鶴や、めじろや、つばめの未来を……)


 その未来で、自分は一体、何をしている?

 いかん。と思って、八鶴は頭を振った。おかしなことを考えている自覚があった。疲れているから、混乱しているだけだと、言葉を重ねて、顔を上げた。

 見慣れた田畑の風景だった。……いや、本当にそうか?

 道に見覚えがなかった。迷うはずがない。ここで何年も生活してきた。おかしい、そんなはずはない。

 後ろを振り返る。進んできたはずのアスファルトの道路は、森になっていた。そんなに歩いたはずはないのに。森に入った記憶すらないのに。

 思わず一歩、後ずさろうとして、八鶴は大きく後ろにバランスを崩した。無いはずの木の根に足を取られたからだった。そして、八鶴は、背後にいつの間に現れていた大木の洞に転がり込んだ。


◇


「そう、力任せに振り落とすんじゃなくて、引く。包丁は引いて切るんです」


「ん……、こ、こうか……」


「はい。じゃあこれを続けてください」


 また、龍樹に言われてリンは家事の手伝いをしていた。三度目ともなると、もうリンは、まねかれさまがそんなに偉いものじゃないと分かってきた。確かに、突然きた旅人を手厚くもてなすなんて、時代遅れもいいとこか。と、リンは納得して、今は初めて使う包丁と長ネギに苦戦していた。夕飯の準備をしているのだ。

 妙に広い龍樹の部屋には似合わない、2人が使うには、少し狭く感じられる台所。見たことのない古めかしい冷蔵庫と簡素な作りの流し。ここにあるものすべてに、どこか年季があって、リンは触れただけで壊してしまわないか心配になった。

 しかし、他人の料理を作る様を全く見たことのないリンでも、一般家庭の一食分なんて考えたことのないいリンでも、何となくわかったことがある。


「その、なんだか量、多くね……?」


「はい。今日はお客さんがくるので」


 なんてことのないように龍樹がそう言ったのを聞いて、リンは思わず驚いて声を上げた。


「えぇ!? 人来るの!? えっ、それって……!」


「手、止まってますよ」


「あっ、すんません……」


 指を切らないよう、覚えたての包丁をふやふやと扱いつつ、しかし、龍樹の言っていることが気になってリンは顔を上げることなく、詳しく言えば上げられずに、龍樹に尋ねた。


「それって、まねかれさまってことか?」


「いいえ? まねかれさまじゃありませんよ。」


「じゃあ何だよ……」


 肩透かしをくらったような、自分と同じような人が来たのかと一瞬でも期待したのがなんだかアホらしくなって、リンは一段トーンの下がった声で質問を重ねる。


「んー。そうですね。お礼っちゃお礼なんですけど……」


 リンとは対照的に、その手の動きには一切の淀みがなく、素人目からしてみればそうやって指を切らないのかと心配になるくらいに素早く包丁を扱いながら、龍樹は少し考えて答えた。


「わかりました。時間になったら、リンさんにお迎えを頼みましょう」


 そう言われたリンは、しばらく龍樹に言われた通り料理を手伝っていた。

 特にトラブルが起きることもなく、いつの間にか陽は沈み、三人分の料理が完成になる目前の事、リンは龍樹に言われて外に出た。

 外はどこか薄暗く、今、不可思議な龍樹の家の周りがどうなっているか、よく分からなかったが、どうせ碌な景色は広がっちゃいないだろうと、そう決めつけて、リンは例のお客さんを探し始めた。


(お客さんの特徴くらいは教えてくれてもよかったんじゃねーの……?)


 突然迎えに行けと言われて、慣れない料理の後片づけをばたばたとしていたものだから、リンは龍樹に聞いておくべきことを忘れていたことを思い出した。

 仕方がないからと、明かりのない道をとぼとぼと歩く。自分の足音と、時折風のなびく音がするくらいかと思っていたが、歩き進めていく内に、聞き覚えのあるとある音が、どこからか聞こえて来た。

 たんっ、だんっ、だんっと、断続的に聞こえてくるその音を、リンは最近聞いたことがあった。ボールの音だ。ボールが、地面にぶつかって跳ねる音だ。


(もしかしてお客さんって……)


 と、そんな予測を立てた途端、街頭が灯った。

 スポットライトのかのように光にあてられて、闇に人物が浮かびかがる。居たのは、リンの予想通り八鶴であった。八鶴が、以前公園でやっていたように、バスケットボールをしていた。なんだ、緊張して損した。と、脱力して、リンはすたすたと八鶴の傍まで歩み寄った。


「八鶴さん……、なにしてるんですか? というか、こんな場所にどうして……」


 場所と自分で言って、リンははっとした。自分が立っている場所が、板張りになっていたからだ。相変わらず変な土地だな、ここはと半ばあきれながら、また視線を八鶴に戻す。


「なんか変ですよね、ここ。俺も最近……」


 と、言いかけて、止まった。言葉が散ってしまった。


「…………」


 睨まれている。

 なんだお前。誰だお前。なんなんだ。邪魔するな。

 それは、明らかな拒絶であった。付き合いの短いリンでもわかった。これは、あの八鶴が、愛おしそうに妹と触れ合い、いたずらっぽく冗談を言って笑うような八鶴が、腫れるほど強く殴られても、相手を一切誹る事をしないような八鶴が、するような表情ではないことを。いや、例えそのような感情を持っていたとしても、それを人に見せるような人間では少なくともない。

 そして、リンが固まっていると、明らかに不機嫌そうに、警戒心を高めて彼は口を開いた。


「誰だ。用事なら後にしてくれないか。練習の邪魔をしないでくれ」


 彼とおんなじ顔で、声で、まるで聴いたことのない言葉を発するものだから、リンは思わず尋ねてしまった。


「練習って……、家の事とかはいいんですか? バイト始めた言ってませんでした?」


 すると、目の前の八鶴は不思議そうに、本当に不思議そうな顔をして逆にリンに尋ねた。


「……どうしておれが家事やバイトをする必要がある?」


 あたふたしながらリンは答える。


「えっ、だって八鶴さんの家それでもめてませんでした……? お父さんも病気してたし……」


「知らない。知らない。知るものか。練習をして、今度こそ……全国に行くんだ」


 と、そう言うや否や、八鶴はリンから離れて、またバスケを、練習を始めてしまった。


(なんだこれ……。おかしい、絶対おかしい……)


 明らかに、自分の記憶と違い過ぎる。しかし、目の前の八鶴があんな調子な以上、本人から話を聞くことは出来ないだろうし……、と、リンが途方に暮れたところに、


「遅いと思いましたが……、なんか大変なことになってますねー」


「居たのかよ! なんだ突然!」


「……驚きすぎですよ。ちょっと傷つきました」


 ため息をついて、そう言って現れたのは龍樹だった。異常な八鶴を目撃し、そして強く拒絶されて弱っていたのか、いつも通りの龍樹を見て、リンはなんだか安心して目が潤みそうになったが、なんとかそれを堪えて、龍樹に尋ねる。


「何が起きてんだ、これ……。前々から思ってたんだけど、ここ変じゃない?」


「ま、変でしょうねぇ。でもそんなもんです。鬼の宴会に居合わせなかっただけ、八鶴さんもあなたもマシだと思いましょうね」


「なんだそれ……」


「だから露骨に何言ってんだって顔しなくてもいいじゃないですか」


 はぁ、と一つ大きなため息をついて、龍樹はリンを置いて、ひとりで練習を続ける八鶴の方へ歩み寄った。そして、何をするのかと思えば、思いきり、本当に思いきり、八鶴の耳元で手を叩いてみせた。

 ぱあんっ!! と、乾いた張りの良い音がして、次の瞬間、糸が切れたかのように、八鶴は砂浜の地面に倒れこんだ。

 あれ、また場所が変わって、今度はあの海岸か、と、リンが不思議に思う間もなく、まるで手慣れたように龍樹は八鶴を担いで言った。


「ほら、呆けてないで戻りますよ。夕飯、冷めちゃうじゃないですか」


「は、はぁ」


 と、間抜けな声で返事をして、すたすたと先をすすむ龍樹に、リンはついて行った。


◇


 バスケットボールを始めたのは、ほんの些細なきっかけからだった。

 中学生の頃、せっかくだし何か始めてみたらどう、と葦子に言われたのがきっかけで、たまたま目についたバスケ部に入ってみた。ただそれだけだった。

 しかし、きっかけは些細で偶然だったものの、彼には幸いなことに、本当にそれが幸いかどうかは別としても、才能があった。そして、仲間にも恵まれた。部員数の少なさや、指導者の不在があっても腐らず部活を維持してきた先輩や、同じ目標を共有できる同級生もいた。田舎の学校だから、中学と高校で、そこまで顔ぶれが変わらなかったことも大きいかもしれない。

 五年間、バスケにも、仲間にも親しんでいく内に、このメンバーでもっと試合をしていたい、上達を実感したいと考えていくことは、自然なことだろう。

 放課後、同級生と練習とも遊びともつかぬ試合を何度もしたこと。高校一年の夏、県予選の二回戦で敗れて尊敬する先輩がついに引退したこと。高校二年生、ついに代々の悲願だった県予選決勝まで上り詰めたこと。

 特別な思い出はいくらでもある。いくらでもある、が、今でも繰り返し思い出すのはもっと別の日のことだった。


 二年前、貴文が倒れたばかりで、家が決定的に苦しくなる少し前。

 なんてことのない日のはずだった。いつも通り、放課後、体育館に集まって、練習に打ち込んでいた。


「……おい、八鶴。あれお前んちの双子じゃね?」


 ふと、顔を上げた同級生の一人が、物珍し気に八鶴に語りかけた。つられて顔を上げて、彼が示したところに視線をやると、めじろとつばめがいた。

 姉であるめじろは、ぐずっている弟の手をしっかり握って、気丈に、しかし、本人も若干ぐずりながら、体育館の扉の前に立っていた。


「どうした? 高校まできて、大変だったろ?」


 走り寄ってそう尋ねると、めじろが口を開いた。


「今日も、おかあさん迎えに来なかった……。帰り道、まだわかんないから、にぃちゃんのところに……」


「…………」


「にぃちゃん?」


「……そっか。わかった。今から、一緒に帰ろうか」


 あの時、自分は何を考えたのだろう。何を感じたのだろう。

 わからない。ただ、異常に、異常に異常に、夕陽に照らされて突然終わりを告げに来た双子の姿が。その影が自分に迫っているような感覚が、忘れられない。


 ……ふと、ギターの柔らかい音がして、八鶴は目を覚ました。

 ぼやけきった視界がだんだんとクリアになる。天井にぶら下がっている蛍光灯の黄色い光と、虫の声が、今が夜であることを告げていた。

 上体を起こして、辺りを見渡す。和室の大広間。一瞬、八鶴はどきりとしたが、冷静になって記憶を探ってみて、そして、納得した。


(森で転んで、気を失ったんだろうな……。今は、何時だ?)


 時計は、いくら探しても見当たらなかった。人が来る気配もないし、どうしたものか。

 困っていると、また、弦の震える音がした。聞き覚えのある音だった。もしかしたら、彼がいるかもしれない。変な勇気に後押しされて、八鶴は立ち上がった。

 音を頼りにして、しばらく家の中を歩く。家だというのに、異様に歩いた気がしたが、やがて、このふすまの向こうに音の発生元があると確信できるところまできた。


「……なんでお前にギターを聞かせなきゃなんねーんだよ」


 やはり、というべきか、ふすまの向こう、くぐもったリンの声が聞こえて来た。不満げなその声に、ころころと愉快そうな声音で、誰かが返した。


「いいじゃないですか。家主特権です」


「……そう言われると、なんか、なぁ……」


「ふふ。変なところで律儀ですよね、リンさんって」


「はぁ……」


「でもまぁ、ただ悩むよりかは、だいぶマシじゃないですか?」


「……気は晴れねぇよ」


「まぁまぁ、お上手ですよ。……あなたもそう思いますよね?」


 突然、そう尋ねられて、八鶴はどきりとした。知らない人に話しかけられるのもそうだったが、話を聞いていたことがバレたことに対する罪悪感と、盗み聞きをするつもりはなかったと弁解するつもりとが混ざって、思わず、言葉につまった。


「えっ、八鶴さん起きたの? つーかいるの?」


「はい。どうぞ。入って」


 別に、拒む理由もなかった。大人しくそう促されて部屋に入ると、そこにはギターを抱えたリンと、何かが、互いに縁側に座って足をほっぽっていた。


「すまない……。盗み聞きは、これで二回目だな」


「あ、あの時の……。別に、大丈夫ですよ」


「僕が聞きたいって言った時とはずいぶんな違いですね」


 ちょっと嫉妬じみた声音で、それはリンに話しかけた。リンは肩を竦めて答える。


「恥ずかしいんだよ、誰かに聞かれるなんて……。八鶴さんはそん時たまたま居てて」


「はいはい。知ってますから。八鶴さんも、どうぞ?」


「あ、いや……、その……」


 八鶴の動揺を知ってか知らずか、それはあぁ、と気づいたように声を出した後、柔らかく笑いながら言った。


「私は龍樹です。龍に樹でたつき。立ち話もアレですから、ほら、どうですか?」


「あ、あぁ……。そうしよう」


 八鶴は龍樹に招かれるようにして、縁側に、二人に挟まれるようにして座った。


 暖かい春の風が、部屋に流れ込んでくる。夜空に星も、月もなく、ただただ闇がぼんやりと浮かんでいる。耳をすませば、波の音がどこからか聞こえてきた。

 また、ギターの音。右手を見ると、リンが、気まずそうにわざとらしく視線をギターに落としていた。


「……まねかれさまは、ここで世話になっているのか」


 それは、八鶴の、疑問とも納得ともつかぬ、思わず零れ落ちた独り言のようなものだったが、リンは頷いて答えた。


「うん……。でも、ここの場所は、よくわかんなくて」


「そうだな。まさか、地元で迷子になるとはな」


「帰らなくても、いいんですか? 多分、今なら……」


「…………」


 リンが言葉を取り落としたのは、きっと自分が、何ともワケありな顔をしてしまったからなのだろう。八鶴は内心で反省しながら、しかし、なんだかふさわしい言葉が浮かばず、黙りこくってしまった。

 そんな二人の様子をみて、龍樹は愉快そうに口をはさんだ。


「まぁ、今のままじゃ、また手ひどく迷うことになりますからね。……リンさんは体験済みですよね?」


「だから怖かったんだって! ワケわかんねぇ事ばっかりで、ここに来た記憶もロクにねぇし!」


「あはは。それは申し訳ございません。……でも、帰りたくないと思う人間に、どうして帰り道を示すことが出来るんでしょうか?」


 はぁ。と、リンと八鶴、二人そろってため息をついた。そのため息は、内心をあっさり見透かされてしまった自分のわかりやすさや、浅さにたいする落胆か、それとも、この不思議な状況に対する諦めか。

 しばらく黙っていると、また、リンがギターのコードを鳴らした。ふと、素朴な疑問で八鶴はリンに尋ねた。


「ギターは、誰かに教わったのか?」


「……まぁ、はい。教えてくれたっていうか、俺が勝手に見てたっていうか……」


「見てた?」


「はい。……あの人は、そんなに喋る人じゃなかったから。それに、時間もあったんで」


 俺、学校行ってなかったから。

 自然な流れで、思わずリンは口走った。なんで、こんなことをに言おうと思ったか、それこそ上手く言葉にできなかったが、話しても大丈夫かもしれない。という予感が、確かにあった。

 八鶴は少し、自分の中にある言葉を吟味するように外の景色に目をやった後、ニッと笑って、和ませるように言った。


「そうか……。実は、おれも」


「えっ、まっ、マジですか!?」


 ぱっと、顔を上げてそう凄むリンに、八鶴は肩を竦めて答えた。ここまで食いつかれるのは、ちょっとだけ想定外だった。


「と言っても、小学校低学年の時と、ここの中学に入る間の数か月間だけだがな。そこからは真面目に行ったよ」


「ん、受験ってことですか?」


「あぁ。いや……、そうじゃなくて……」


 と、そこまで言いかけて、八鶴は止まった。言ってしまっても大丈夫かな。と、少し考えた。考えていると、言葉に詰まっている八鶴を不思議そうに見上げるリンと、目が合った。

 別に似ていない。似ていないはずなのに、子どもが持っているはずの安心感だとか、純粋さだとか、あどけなさとかがすっかり抜け落ちてしまったような、《《ただ成長してないだけ》》の顔が、なんだか、昔見た自分と重なっているように見えた。そしてそれと同時に、なぜだか三鶴や、めじろや、つばめの表情を思い出した。

 そして思わずため息をついて、観念したようにその言葉が漏れ出て来た。


「おれ……、養子なんだ。あの家の人たちと、血は繋がってない。似てないだろ? おれと、あの人たちは」


「ん……? あぁ。……あぁ?」


「しっくり来てないのは分かったからそんなに顔をじろじろ見ないでくれ」


 また、八鶴はため息をついた。気まずい話をしたくせに、はっきりした事を示せなかった自分に対する落胆か、それとも、そんな話がなぁなぁになってしまった事に対する安心感かは、定かではないが、なんだか肩の力が抜けてしまって、へろへろと畳に両手をついてしまった。

 リンは、うんうんとしばらく自分の記憶を掘り返していた。確かに、似てないと言われれば、目鼻立ちは特に似ていないような……、いや、しかし、


「言われても、よくわかんないっす!」


 リンの発言に、八鶴はきょとんと、豆鉄砲を食らったような顔をした後に、なんだかおかしくなってしまって、ふき出した。


「なんだそれ」


「えっ、ええ?」


「さすがに……、バカっぽい……」


「龍樹も笑ってる! そっ、そんな、変なことじゃないだろ!」


 笑われてたことに対して顔を真っ赤にしながら、だっ、だってと、リンは言葉を続けた。


「家族の話をするときの八鶴さん、すごい幸せそうだったから……!」


「…………そっか」


 幸せそう、か。リンにそう言われて、八鶴は思わず黙り込んだ。

 嬉しかった。しかし、嬉しいのと同時に、なぜだか腹の奥底から、なにか他者を試すような、悪意のような、拒絶のような感情も同時に湧いてきた。


「……バスケをやってる時と、どっちの方が幸せそうだった? おれは」


 そんなことを聞いたって、別に大した意味にはならないはずだ。リンは実際に試合をする自分を見ていたワケじゃない。ただ、公園でたまたまであっただけ。フェアじゃない。のに、なぜか問わずにはいられなかった。

 もっと露悪的に言ってしまえば、「俺の悩みも知らないで、分かったように幸せと言ってくれるな」という、拒絶に近かった。


「…………」


 そして、その他者の拒絶が分からないほど、リンは鈍感ではなかった。……けれど、リンにはただ黙って、八鶴の事を放って置くことが出来なかった。


「どっちも幸せそうでしたよ。どっちを棄てても、きっとおんなじくらい苦しいですよ。一生後悔するのは、変わんないと思います……」


 リンの言葉を、八鶴は驚くほど冷静に聞いていた。ただただ、言葉の続きを待つように、黙っていた。


「俺、家族についてはよくわかりません。友達もいたわけじゃないし、ギターを教えてくれたあの人も、何でもかんでも教えてくれたわけじゃなかった……。

 でも、俺、何となくわかります。家族のことを後悔しながらバスケをするよりも、バスケのことを後悔しながら家族と生きる方が、きっと……」


「…………」


 静かだった。その八鶴の沈黙はただただ次の言葉を待っているようにも見えたし、逆にもうしゃべるなと言葉を拒絶するようでもあった。

 ただ、そのリンの予感は、リン自身の言葉を留める力を持たなかった。もし、あれが、あそこで出会ったただ黙々と練習を続ける八鶴も、また本物なのだとしたら……。


「……家族の事、恨んでるですか?」


 八鶴は、そのリンの問いかけに、すぐに反論しようと口を開いて、息を吸って、そして、何も言わなかった。言えなかった。

 うなだれて、顔を両手で覆う。細く、細く息を吸って、吐いて、整えて、ようやく、八鶴が発することが出来たのは、


「……独りは怖いよ」


 という一言だけだった。

 その一言につられて、リンは思わず何か言いかけて、やめた。

 誰かといたいけどいられない。けど、独りはずっと、怖くて寂しい。同調しそうになってしまって、しかしそこで、ふと立ち止まった。

 そうやって怖がっていたから、自分はこんな場所まで流れ着いたんじゃないのか。きっとこのまま、彼と一緒に怖がっていたら、ずっと前には進めなくて、ずっとここに居ることになるんじゃないかと、そう思った。


「……でも、怖くても、今のあの家に、八鶴さんの居場所があるのは事実です。どれだけ片っぽで恨んでても、三鶴とめじろとつばめの兄弟で、貴文さん達の息子だった時の喜びだってあったはずです」


 ……しばらくの間、八鶴はきょとんと、リンを見ていた。

 もうギターを弾くのなんかやめて、半分身を乗り出すようにして自分を説教している彼は、やっぱりどこか子供じみてて、自分に似てて、でも、こんな自分よりもずっと、毅く感じた。


「……生意気な奴だな」


「えっ、あっ、すんません……。俺もペラペラ――」


「冗談だ。……いや、冗談でもないんだが」


 えっ、どっち。と、今度は逆にリンがきょとんとしている内に、八鶴は立ち上がって、一回、うんと伸びをした。

 長い間座っていたのか、背筋も、腰もなんだか痛くて、そしてそれが伸びて気持ち良く感じた。ゆっくり息を吸って、吐く。春の匂いがした。


「あーあ。もっとバスケしたかったなぁ……!」


 言ってしまった。のに、案外口に出すとすっきりしてしまって、拍子抜けだった。

 振り返ると、二人のやり取りをただ楽しむようにじっと黙って見ていたそれと目が合った。


「帰ろう。家事の続きをやって、家族に謝って、もう寝るよ。明日も学校だしな」


 すると、それ――龍樹は、意地の悪い笑みを浮かべて八鶴に尋ねてきた。


「いいんですか? まだ迷いも、後悔も、未練も、恨みとやらも残っていそうですが。迷ってなくていいんですか? 迷子のままの方が楽でしょう?」


「えっ、龍樹寝てなかったの? なんか俺がずっと喋ってたみたいじゃん」


 そんなリンの動揺を無視して、やっぱり八鶴側も負けじと意地悪な顔をし返して言ってやった。


「迷子は最終的に家に帰るから迷子なんだ。帰れるから迷子なんだ。あそこが……、家族に見せれない感情がどれだけあっても、これからトラブルがどれだけあっても、やっぱりあそこが俺の家だよ」


「そうですか。正体がバレても、もう逃げちゃダメですからね」


 龍樹とリンは八鶴を玄関先まで送って行った。

 玄関の向こうは海岸になっていた。海岸にそって、暗闇を歩く八鶴の背を、リンはいつまでも見守っていた。


〈続く〉

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