3.鶴は家族になれたのか
栃木県響群は今、徐々に春になろうとしているらしい。日が沈みかけ、所々新芽の緑が闇に沈んでいる。
時折吹いてくる風は未だに冷たいが、どうもぶらぶらと歩いていると少し汗ばむような気候である。すっ、と息を吸えば、深い緑と、土の匂いがした。
(……きっまず)
だが、それでも二人きり、何もない田畑の道の帰路の空気は、リンには少し荷が重い。それも、身内の大喧嘩を目撃してしまっては、切り出す言葉も見当たらない。
隣で歩く八鶴は、真っ赤になるほど力強く頬をぶたれても、痛がる素振りも、逆にリンに気を遣って強がる素振りすら見せず、淡々とリンを近くにあるというコンビニへ案内していた。
よく見れば、八鶴は着替えていなかった。夕方にふと出会った制服姿のまま、幼い双子の様子を見守り、夕飯の準備をしていたのだろう。
「バスケ部、なんですね」
空気をまぎらわすためか、ぽろっと、リンの口から、そんな言葉が飛び出した。
「まぁな。……と言っても、元、ではあるが」
「県大会決勝って、強くないですか? ベスト3、とか? よくわかんないですけど」
「たまたまチームと練習相手に恵まれただけだ。それと、相手方も俺たちの事を知らなかっただけ……。いい景色を見させてもらったよ」
「その割には、誇らしげっすね」
「当然だ。自慢のチームだからな。でも……。……いや、だからこそ、辞めるには良かったんだ」
その声音は、どこか、自分に言い聞かせるような響きも含まれていた。八鶴はリンの言葉に誘われて、ふと、思い出すかのように遠くの景色を見ながら話した。
「地区予選の景色すら遠かったのに、県大会から、さらに全国の道筋も見えそうだったんだ。先輩の夢を叶えれたし、後輩に道を示せた。本当にいいチームだった。だから、これ以上望んだら、罰当たりってものだと思わないか?」
「…………別、に」
ふと、リンは夕方に見た八鶴の身のこなしを思い出した。あれだけ動けても、まだ全国の舞台は遠いのか、と、ぼーっとしそうになって、いや違う。自分が感じたのは、もっとこう、
「好きなんじゃないんですか? バスケ」
「好きさ。……でも、もうダメなんだ。終わりにしないと。……おれの番は終わりなんだ」
八鶴はリンの言葉を、否定するような語気で、そう、肯定する。そしてまた、言い聞かせるように、終わり、と続ける。
そのまま、決意に満ちた、でも、どこか感情が抜け落ちているような表情でつづけた。
「金がない。何をするにしても、まず金が要る」
金。ずしりと、胸の奥に嫌な重みをもってその言葉が降りて来た。お金が必要で、どうしてバスケを辞めなきゃいけないんですか、と、聞く勇気は、リンにはなかった。
◇
薄暗くなった田舎の風景に、コンビニの毒々しい白い光がぽつんと浮かんでいる。見たことのないくらい広い駐車場の片隅で、リンは八鶴の帰りをぼぅっと待っていた。
腹は減った。が、今は食欲よりも、八鶴の事が気になって仕方がなかった。何か適当に買ってくる、何がいい? と、そう言われて、財布も携帯もない自分は手持無沙汰で、申し訳なくなって、何でもいいです、と、そう答えた。
普段なら、特別気にならないギターが、なんだか妙に重く感じて、思わず地面に下した。
家族。近しいはずが、リンにとっては、遠い場所にある単語だった。
八鶴の、めじろを紹介したときの、いたずらっぽい笑み、貴文を紹介した時の、痛ましい真顔。ぽつぽつとそれらを思い出しては、バスケットボールを辞めた事に対して激怒する三鶴のことが頭に引っかかる。
何かが起きている。それに対して、何か自分は動くべきか、という問いが浮かんでは消える。冷静な部分ではもう結論は出ていた。自分が何をしてもきっと何にもならないであろうことくらい。
でも、何かしたかった。何か、言わなければならないような気もした。
……だって、自分のギターの事を、褒めてくれた人だから。色々、教えてくれた人だから。家に招いてくれた人だから。
……安っぽい理由だろうか。よくわからない。
「リン、待たせた。このくらいで、いいだろうか」
「えっ、あ、こ、こんなに……?」
と、考え事から浮上してすぐに、思わずリンは声を漏らした。
ずしり、とレジ袋パンパンに弁当やら、総菜やら、飲み物が入っていた。千円以上は軽くするだろう。
本当にこんなに貰ってもいいものか、と、レジ袋と八鶴の顔を交互に見ると、八鶴は肩をすくめて笑って言った。
「気にしないでいい。むしろ、これで許してくれと言いたいくらいだ。喧嘩のこと、食事のこと、色々すまなかった」
「いや、別に、気にしてないですけど……」
「それと、まねかれさまとしても、かな。長いこと連れ出すと、祟られるから。もてなすのも、結局できなかったわけだし」
「……マジ、すか?」
「さて、どうだろう? これで許してくれるといいけど」
いたずらっぽく、茶化すようにウインクをして八鶴は言った。
「まぁ、兎に角、今日はすまなかった。もしまた会えるのなら、今度はちゃんと、食事をごちそうさせてくれ」
「は、はぁ」
「……遠慮はしなくていい。おれ、というよりも、同級生や大人だって、そこまで真にまねかれさまという現象やその祟りを信じているワケじゃない。ただ、どうしてかな……」
すこし考え込むようにして遠くを見た後、八鶴は言葉をつづけた。
「君を見てると、どうしても心配になってくるんだ」
「あ、ありがとう、ございます?」
「じゃあ、また」
最後に、褒められているのか、貶されているのかよくわからない言葉を贈られて、リンは八鶴と別れた。光から離れて、徐々に暗闇に紛れていく八鶴の背中を見ながら、リンはぽつりと零した。
「……そういや、どうやって龍樹のとこまで行こう」
とにかく、歩くしかないか。下りと、東でここまで来たから、その逆、上りと、西か? つーか、地図とかくれたらよかったのに。と、考えながらきょろきょろと周囲を見渡して、リンは歩を進めた。
次第に、日は沈み、周囲の闇が深くなってくる。遠くに映る街頭と、なんとか西と分かりそうな、茜色と混じった紫空を目印に歩を進めていると、じゃぶ、と、なにか水に片足を突っ込んでしまった。
「うわ、やべ。田んぼ?」
と、足に目をやると、それは夜空だった。リンは夜空を踏んづけていた。
「は?」
顔を上げて、周囲を見渡して、リンはようやくわかった。自分は、夜空を映している果てしない湖に足を突っ込んだのだと。月も、星も、少なくとも八鶴と歩いていた時は雲にかかって全く見えなかったのに、今では煌々として頭上の紺の夜空と、足元の湖に広がっている。
おかしい、と、とっさに思ったが、しかし、またふと思い出した。このおかしさを、リンは覚えていた。
目の前には、どこかに続くように浮橋が浮かんでいた。……これを歩けばいい。と、リンは静かに直感した。
◇
シャッ、シャッ、と、ブラシが風呂場のタイルをこする音が、例の妙に広い風呂場に響いていた。自分と、龍樹、二人しか使っていないはずなのに、妙に湿気て使い込まれた後のシャワーを、一つ一つ、磨いては流していった。
家に戻ると、龍樹は玄関でリンの帰りを待っていた。そして、そのリンの持ち物をみて察したのか、リンは風呂に突っ込まれて、その後、温められたコンビニ食品をいただいた。
そして、食休みする間もなく、リンは、龍樹にデッキブラシを渡されてこう言われたのだった。
「お風呂掃除、手伝ってください」
「……なんで?」
「いいから。ほら」
居候の身のリンに、断るという選択肢は最初からなかった。
という訳で、龍樹に教えられながら、勝手の良くわからない風呂掃除をリンはしていたのである。
シャッ、シャッ、と、繰り返し、繰り返し、浴槽の底をこする。黙っているのもなんだからと、リンは、龍樹に問いかけた。
「……というか、なんで突然風呂掃除?」
「今のリンさんには必要だと思ったんですよ」
「必要って……」
そりゃ、確かにモヤモヤしてたけどさ……、と、内心零す。それと、風呂掃除がどう関係あるってんだ。しばらく黙ってブラシで床を磨いていたら、ふと、龍樹がリンの内心を透かしたように、口を開いた。
「……羽をむしって織物にしたって、それは家族のためにはなりませんよ」
「……?」
「いや、ひとりごとです。恩返しって難しい。家族になるのはもっと難しい。という話です」
「はぁ」
「そんな露骨に何言ってんだって顔しなくてもいいじゃないですか」
ちょっと怒ったような素振りで、龍樹はリンにそう文句をつけた後、手を動かしながら続けた。
「恩返しも、家族になることも、そうしてください、と頼まれることではありませんよね。ただただ、本心を内に秘めて、粛々と執り行われている……。それって、凄く不思議で、不安定で、一方的だと思いませんか?
家族になってくれと、恩返しをしてくれと、言葉では表せられない。でも、そうありたいとき、そうしたいとき、どうするのが正解なんでしょうね?」
「……家族」
不思議と、自分のことより八鶴のことを先に思い浮かんだ。
バスケも家族も大切そうで、でも、なんだかひしゃげ始めていると予感させる、あの家族。びっくりしすぎているだけだろうか、気にしすぎているだけだろうか。
分からない。考えがまとまらない。ただただ、真っ赤に腫れた頬と、家族に向けた優しい視線、そして、ボールを投げる後姿を、思い出していた。
◇
翌朝、少し遅い時間に目覚めたリンに、龍樹は相変わらずよくわからない微笑みを浮かべながら、とある地図とメモを手渡した。
「今日は買い物に行くのが吉ですよ」
いや、昨日一昨日と歩き疲れたんだけど……、とは、やはり居候の身分では到底言えず、それに、帰れない、やることもないという訳なので、リンは慣れないお使いを任されたのだ。
丁寧に手書きされた地図とメモを頼りに、歩きに歩いて、ようやく、人の気配が感じられる場所に付いたかと思えば、さらにまた歩いて、異様に大きいスーパーやらの複合施設に到着した。
龍樹のヤツは自転車もなしにどう生活してんだ。足ムキムキになるわ。と、半ばうんざりしながらメモの通りに買い物を済ませ、そして、結構な大きさと重さになった袋を持って、またあの距離を行くのか……、と、くたびれながら龍樹の家に向かった。
しかし、リンは道に迷った。迷子になった。来た道を戻ればよいのだし、地図もあるのだから、迷いようもないはずなのに、迷った。
(やっべー……、どうしよう。スマホなんか持ってねぇし、そもそも電話番号知らねぇしで、どうしよう……)
ここはどこだ、と、きょろきょろとあたりを見渡すも、リンが足を踏み入れたのは迷路のような住宅街で、見覚えのある場所などなかった。
昨日、すんなりと龍樹の家へ帰れたのは奇跡か何かだったのだろうか。そして、土地勘がないとは言え、地図もあるのに迷子になった自分の方向感覚を呪いながらリンは歩いた。
だが歩き回ってみれば、意外とふとしたタイミングで、見覚えのある場所へたどり着くことが出来るものだ。それとも、吉だと予言されたからだろうか。
「ここって……、昨日の公園、だよな?」
リンは独りごつ。
到着したのは、昨日八鶴に出会ったあの、バスケットゴール以外に目立ったもののない、寂しい公園だった。
たった一回しか行ったことのない公園の景色だというのに、なんだかリンは安心してしまって、しかし、それと同時に、散々荷物を持って歩いた疲労を思い出した。
せっかくだし、ベンチに座って休憩でも……と、思った矢先、ふと、公園内に先客がいるのが見えた。男性二人のようだった。
一人はすぐにわかった。八鶴だ。ベンチに座って、自分の目の前に立つ男に向けて何かを話している。しかし、八鶴と対面している男には見覚えがなかった。
身長と年齢は八鶴と同じくらい。体格にも恵まれており、一見してすぐにスポーツマン。おそらく八鶴と同じくバスケをしているのだろうと予想がついた。
昨晩の雀鷹谷家のいざこざが気になっていたリンは、嫌な好奇心であるのはわかっていたものの、八鶴と男性が何を話しているのかが気になった。耳の良さには自信があった。近づきつつ、しかし近すぎない距離にあるベンチに腰掛けて、休憩をしているようなフリをして会話に聞き耳を立てる。
「だから、考え直してくれないか。次の大会で結果を出せば、俺もお前も、もしかしたら大学から声がかかるかもしれないんだぞ」
「いや。引退する。悪いな、松戸。もう一年前から決めていたことなんだ」
「だからって三年に上がってすぐ引退はおかしいだろ! 次の大会はどうするんだ? もう誰もお前たちのことを舐めたりしてない! お前のチームだって仕上がっていくはずだ! 全国にいける最後のチャンスなんだぞ!」
「いいや。引退だ」
八鶴の突き放すような声色の宣言に、男はしばし押し黙った。
悲痛な沈黙。しかし、男は食い下がるように、そして絞り出すかのように言った。
「……お前んちに金がないのは知ってる。余裕だって無いかもしれない! でも金がないからって全国やプロの道まで全部諦めるなんてあんまりだろ……!」
リンは人知れず息を吞んだ。しかし、予想とは裏腹に、その踏み込み過ぎたかに見えた質問に、八鶴は至って冷静に答える。
「……いや、もう十分なんだ。おれなんかが見るには、十分すぎる景色も、経験も、仲間も見れたんだ。だからいいんだ。家の事をして、バイトして、三鶴に、めじろに、つばめに、雀鷹谷家のみんなに、楽をさせてやりたいんだ」
もういいか? そろそろ昼休みが終わるだろう? と、この会話にケリをつけるかのように八鶴が男に尋ねた。そう聞かれた彼に、もう八鶴を止める力は残っていなかったのだろう。決して、後を追うことはしなかった。
しかし男は、自分でも処理しきれない感情をそのまま投げつけるかのように、去り際、八鶴に言い放った。
「お前はそれでいいのかよ! まだバスケ好きなんだろ! だからこの公園にいるんだろ!? お前おかしいって! どうしてそんなにあっさり辞められるんだよ!」
その声が八鶴に届いたかどうか、リンには分からなかった。
◇
雀鷹谷家は、なかなか子宝に恵まれなかった。
幾度となく不妊治療を繰り返し、試せること、出来ることはなんでもやった。それこそ、本来学者の出である貴文でさえも、出所がが不明瞭、効き目も怪しい民間療法について調べるほどであった。
その甲斐あってか、八鶴の母、雀鷹谷葦子は第一子を授かることになる。女の子。二人は産まれたその子を三鶴と名付けた。
雀鷹谷家は三鶴の弟か妹を欲したが、しかしまたしても、不妊に苦しんだ。
三鶴が我が家に来てくれた以上、もう、子どもを望むことは出来ないかもしれない。しかしどうしても男の子が欲しかった二人は、養子をとることにした。
雀鷹谷家は、三鶴と同い年で当時5歳だった迎えた子を、八鶴と名付けた。養子であることを気にしないよう、本当の家族になれるよう、祈りを込めて。
そしてその6年後、つばめとめじろという男女の双子が産まれた。
喜ばしく、そして奇跡のような出来事であった。当然、産まれてきた二人に罪はない。だが、そのことが、八鶴にとって手放しに良いことかどうかは、分からない。
◇
指先のあかぎれや、その水の冷たさに悩まされていたことが、もうだいぶ前の事のように思える。
台所で家族の食器を洗いながら、八鶴は背後で一人、遅い食事をとっている自分の養母の気配を感じていた。時刻は夜の21時。めじろとつばめは布団に入り、三鶴は自分の部屋で受験勉強をしているであろう時間帯。
「八鶴、また料理上手くなったんじゃない?」
自身の養母である葦子にそう尋ねられた八鶴は、しかし手を止めることなく言葉を返す。
「そうですか? 今日は冷蔵庫のあまり物で作ったものなんですけど」
「そうとは思えない。おいしいよ」
「ありがとうございます」
「…………」
「…………」
そうして、沈黙。水の流れる音、カチャカチャと食器のぶつかる音だけが響く。
貴文の持病が悪化するまで、雀鷹谷家では食卓は家族全員で囲むものだった。今よりずっと小さかっためじろやつばめの食事の面倒を見てやりながら、家族たちの、今日あったことや、他愛のない日常の愚痴であったり、なんともない相談事だったりを聞いているのが、八鶴は好きだった。
それが、今はもうすっかり変わってしまった。食卓は静かになった。貴文は倒れて、葦子は家計を支えるために仕事をして、遅くに帰る。めじろもつばめも、そして三鶴も、感じていて、分かっていて、それでも一切、寂しいと口に出さなかった。
「ねぇ、八鶴」
食器を洗っている八鶴に、葦子が声をかけた。手を止めずに八鶴は答える。
「……なんですか」
「昨日、三鶴と喧嘩したんだってね」
「……まぁ、はい。でも、いつものことですよ。ぼんやりしてるおれに怒ることなんて」
「確かにあの子はせっかちだけど……、でも、簡単に手を上げる子でもない。……部活も最近行ってないみたいだし、どうしたの?」
八鶴は台所の水を止めた。洗い物が終わったからではない。この話はいずれしなければならなかったし、長くなると、そう思ったからだ。振り向いて八鶴は答える。
「すいません、話が遅れてしまって。恩着せがましいと思って、黙ってました。……部活は、引退しました」
それを聞いた葦子は、初めて聞いた八鶴の決断に衝撃を受けつつも、確かに三鶴が怒るはずだと、どこかで納得した。そして、八鶴の告白に取り乱すことなく、冷静に尋ねた。
「どうして引退をしたの……? 就職するにしても、進学するにしても、まだ引退には早いでしょう?」
「いえ。夏からじゃ遅いんです。三鶴の受験料や入学費を貯めるには。今から俺もバイトを増やして、家事をして葦子さんの余裕を作れれば、だいぶ楽になりませんか?」
「…………」
葦子はしばし黙り込んでしまった。自分の息子の言っていることは正しい。けれど、その決断の危うさを、まさしく息子を追い詰めている自分が指摘してよいものか、迷った。
「良いんです。葦子さんが気に病む必要はありません。おれはもう良いですから、この家のためになる事をさせてください」
養母が考え詰めぬよう、笑って言った。それは、言わされているわけではない。八鶴が、自分で考えて出した結論そのものだった。
「……だめよ。八鶴。だめ」
八鶴は意味が分からず、思わず眉をひそめた。
「だめって……。葦子さん。どうして?」
「八鶴。あなたは本当にそれでいいの? それで本当に後悔しない?」
葦子は思わず、椅子から立ち上がって、真っすぐと、もうだいぶ自分の身長を追い抜いてしまった息子を見つめた。
「……えぇ。後悔しませんよ。絶対に」
養母の一縷の望みを懸けたような、縋るような視線に、八鶴はそう答えた。
その、絶対に後悔しないという強い言葉に、強い危機感を覚えた葦子は、母親として命令するかのように、強い口調で言った。食い下がった。
「いえ。もう一度考えなさい。もう一度、慎重に、考えて」
「いや、もう……」
決めた事ですし、と、言おうとした八鶴の言葉を遮って、葦子は言い放つ。
「後悔しないなんて嘘よ。八鶴。よく考えないで決めたでしょう」
「考えましたよ。葦子さん。現実的に俺と三鶴が一緒に大学に行くなんて無理だ。そんな金はありません」
「分かってる。私が一番分かってる。でも、そんなにあっさり自分の未来を切り売ることはいくら何でもおかしいって、自分でもわかるでしょう?」
空気の読まない毒々しいくらい明るい台所の蛍光灯が、まるで明るさを強要しているかのように、二人の間を照らしている。無理解な互いが理解を押し付け合っている様に、換気されていない空気が沈むかのようだった。
台所のシンクに、蛇口からの水滴がだっ、……だ、と、不規則にぶつかった。
「…………ならどうして、バスケットボールを棄てなかったの」
先に口を開いたのは葦子だった。
「ボールだけじゃない。シューズも玄関に残ってる。ユニフォームも、きっとそう。まるで部活を続けているみたいに、いつもある場所に置いてある」
「…………」
「ねぇ、八鶴。私たちは家政婦が欲しかったからあなたを養子にとった訳じゃないのよ。労働力が欲しかったから、将来お金が欲しかったからでも、老後に世話をして欲しいからでもない。私たちは……、家族に、なりたかったのよ……」
その、何の解決にも、慰めにもならない綺麗ごとが、そしてそれを言ってのける養母に対して、八鶴は思わず声を荒げて言った。
「そんなこと……! そんなこと言ったって、金は湧いて出てこないでしょう! 三鶴の受験料も入学費も! いつか必要になるつばめとめじろの分だって! 貴文さんの薬代なんて以ての外だ! あなたが三鶴と話す時間は!? あなたがつばめやめじろと関わる時間も一生作れない! 無いんです! だから稼ぐ必要があるんだ! だから関係のないおれが……!」
言ってしまった。どこまで行っても、自分とあなた達は他人だと。そもそも、八鶴は葦子のことを最初から母親ではなく、ただ自分を引き取ってくれただけの他人であると、本当の母親ではないと線引きをしていたのが、露呈した。
そして、そのことに気付いた時には、もう遅かった。言ってしまった事は、どうしたって戻らない。
八鶴は分かっていた。その、関係のない、という言葉が、たったのその言葉が、どれだけ目の前の相手を傷つけるのか、分かっていた。
見れなかった。葦子が、どんな顔をしているのか。その事実を受け入れるだけの度量を持ち合わせていなかった。
八鶴は家を飛び出した。思わず口に出した言葉が、緩やかだったが、透明で、儚いものであったが、しかし確かにあったであろう、糸を断ち切った。
だから、彼は迷った。迷子になった。迷子だから越境し、迷子だから迷い込んだ。
〈続く〉




