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その音が止まるまで  作者: 神永瞬子
二章 亀は見上げる
10/17

10.既に手に入れていたもの

 才能というものを強烈に意識し始めたのはいつ頃だったのだろうか。

 昔は、ただただボールを追いかけているだけで楽しかった。敗北は悔しさに、そして成長への欲に変わり、成長の実感は喜びに成った。それが、一体いつから苦しくなったのだろう。いつから自分の体はここまで重くなったのだろう。

 目を覚まして、初めて介は自分が眠っていたことに気付いた。そのままの姿勢で窓に視線をやるも、まだ外は暗かった。時期も時期だし、日が出ていないということは、そこまで長い間寝てはいないだろう。

 おもむろに立ち上がろうとして、それが出来ない事に後から気づく。膝を壊したのは冬の事。なのに、未だに慣れない。けれど、それでいいと思っている。慣れてしまったら、自分が壊れたことを認めることになるから。


 まだ、壊れていない。まだ、追いつける。まだ、まだ……。


 松葉杖に頼って起き上がる。外に出たい。また、不意に自分の過去を思い出したらたまらない。手間取りながらも靴を履いた。

 外気は存外暖かかった。真っ暗な道を、詰まるような足音を鳴らしながら歩いた。家とは、そして、コートとは反対側に向かって歩いた。真っ暗の空の夜だ。

 努力が足りなかったからだ。あらゆる壁にぶつかった時、そう自分に言い聞かせた。いつかその努力に見合ったものが、当然のように返ってくると信じた。思い返せば、そうやって信じて練習をしているときは、才能という不安を忘れられて、楽だった。

 賭け事のようなものだ。やってる時だけは、他のあらゆる不安から逃げられる。ともすれば、何かが返ってくると信じられる。そして、おじゃんになれば、おしまい。

 いつの間にか、目の前に川が流れていた。暗がりで、底は見えない。流れも急だ。しかし、橋がない。仕方ないので、歩いて渡ることにした。靴は何とか脱ぐことができた。けれどなぜだが持っていく気にはなれなかった。



 そのまま呑気に夕飯を食べる気にも、そして食器を洗う気にもなれなかった貴虎は、あらゆる全ての当番を無視して、縁側でひとり、ずっと暗闇を睨んでいた。

 リンも、龍樹も、様子の異変を察してか、変に口出しすることをしてこなかったのが、ありがたかった。


(なーにムキになってんだか……)


 思わず自嘲する。

 あの時のアイツを見て。膝を壊して、まともに歩けなくなるまで意味を、価値を追い続けるソレを、全否定したかった。

 別に、アイツの事を否定したかったワケじゃない。そんな付き合いが長いわけでも、濃いわけでもない。

 ……でも、いや、なら、どうして?

 そうして自問自答を繰り返す貴虎の耳に、ある音が届いた。

 カッ……、カッ……、という、聞いていてつんのめるような、そんな音。気のせいかとも思ったが、徐々に大きくなって、それが近づいてきていることが分かった。

 何の音、と考えて、分かった。というよりも、分かってしまったと言う方が近いだろう。まさか、まさかなと思いつつ、貴虎は直接縁側から裸足で飛び出した。

 今日の龍樹の家の周りは、海岸ではなく、アスファルトの河川敷。足の裏でぬるい熱を感じながら、音の方へ向かって歩いた。そして、そいつとはすぐに出会えた。

 第一声に迷った。なんの用か、何を言いに来たのか……。しかし、そんな考えが吹き飛ぶ異変が、介にあった。思わず、それを真っ先に指摘した。


「……なんか、濡れてね? 大丈夫なの?」


 目の前にいる介は、全身ずぶ濡れの状態で、服から、髪から、松葉杖から、あらゆる場所から水滴がしたたり落ちていた。


「…………」


 彼は黙ったままだった。満月と星明りの下に、照らされながら黙っている。貴虎の頭から、妙な苛立ちだとか、算段だとかは全部吹き飛んでしまった。思わず、素のままに話しかける。


「……えっと、介、さん? 黙ったままで居られるとなんつーか、平たく言うとすっげぇ怖いってゆーか――」


「疲れた……」


 開口一番。まるで幽鬼のようにつっ立っていた介が発したのは、そんな一言だった。


「でしょうね! そんなずぶ濡れな状態で、この家まで歩いてちゃ……。つーか、マジで歩いてきたの? そんなにオレに文句言いたかったの?」


「……もう疲れたんだ」


「繰り返さなくても分かったって! あーもう、とりあえず家に上がるか!?」


 しかし、介はその場から動こうとしない。ピクリとも、身じろぎ一つもしない。なんだコイツ、ホントにと、苛立って貴虎は彼の手を取って、言葉を失った。

 冷たくて、固い。濡れているからとか、そうではなくて、もっと根本的に。体から温度が全く無いような、異質な冷たさだった。

 思わずそのまま手を放して、一歩後ずさって、顔を上げて介を見た。だが、貴虎の動揺は介には全く伝わっていないようだった。


「なんだよ」


「なんだよって……、お前、さ……」


 そうだ。この場所は変なんだ。あとからゆっくりと、思い出して、理解する。

 現状の整理、これからどうするか、そんな目の前の逸脱した状況を前に意味なく頭が回る中、ふと、介が口を開いた。


「本当は、分かってたんだ」


「……?」


「俺には才能がないってことくらい……。もう、無理だってことくらい……」


 ぽろぽろと、水滴と共に言葉が落ちるのを、ただただ貴虎は黙って聞くしかなかった。


「俺はもう走れない。たとえこれから先、この膝が治って走れるようになったとしても、もう無理だ。

 ……そもそも走る意味はあったのか? 俺がいくら走っても、もう追いつけない。もう意味はない。価値も感じない」


 うなだれる少年の姿は、ただただ痛々しかった。あの時のような感情の爆発は、本当に、ただの防衛反応に過ぎなかったと貴虎は理解した。思わず、あの時のようなとげとげしさを失って、提案するように話した。


「その……、じゃあ、やっぱりやめたら?」


 首が横に振られた。


「辞めたくない。辞められない。無駄になる。俺のこれまでの全てが、楽しかったことも、嬉しかったことも、全部が無駄になるなんて耐えられない。そんなのは嫌だ」


 ……ちょっと、勘違いしてた。

 そう思うのと同時に、目の前にいる人間が、ちゃんと、そういう事を味わって、理解していたことに安堵た。

 なら、大丈夫だよな。オレたち。

 いつも通りの調子で、声をかけて見せる。


「なぁ」


 貴虎は息を吸って、吐いた。


「……どれだけ努力を積み重ねても、絶対に埋めることの出来ない強烈な差……。勝負しに来てる世界じゃ、それで負けるなんてザラだろうな。努力すればー、なんて言葉を真に受けて良い年齢でも、ご時世でもねぇから、まぁ、ハッキリ言うけどさ。

 あるよ。才能って差は、絶対にある。なきゃおかしい」


 自分がそんなことを言うことに、ちょっとした嫌味を感じて、少し憂鬱な気分になる。後頭部を掻きながら、ため息交じりに続ける。


「そんでまぁ、これを認めるともっと残念なことに、オレらの上位互換がいるという事実も認めきゃいけなくなる。必死に地べたを這いずり回ってるのを嘲笑うみたいにして、悠々と追い抜て、飛び越してくるヤツは、絶対にいるだろうな。人のやる事為す事全部偽物にしてくんだよ。タチの悪い事に、そういうヤツに限って恨みづらかったりして……、ま、そんなモンだよ。うん」


 居心地の悪さに頭を搔きながら、しかし、一つ一つ絡まらないように丁寧に、貴虎は言葉を継いだ。


「これらの事実は揺るがない。そんなことないって言うヤツは全員詐欺師だと思った方がいい。まぁ、これはお前の方が身に染みて分かってることだから、良しとして。

 ……で、オレはそういった事実を確認するたびに思うわけよ。「だから何?」って」


 ぬるい夜風が吹いた。土と青い匂いがする、雨上がりの風。闇に眼が慣れて来たのか、遠くの川の流れがちらちらと光を反射してるのが分かる。道の反対側の闇に沈む木々たちの影が浮かび上がった。


「勝利とか、世間的な価値とか、そう言ったもんは手に入らないかもしんないけどさ、もっと手前に、オレたちもっと大事なモン手に入れてるじゃねぇか」


「……俺に才能が無かったから負けたのか? 才能が無かったのが悪いのか? 才能が無いから無価値なのか?」


 めんどくさ。と、貴虎は思わず内心で毒づいた。


「しらねーし、どーでもいい。自分に才能があるかないかとか、それこそ楽しんでる時には出てこない言葉じゃねーの?」


「いつか俺が報われる日はくるのか?」


「それもしらねーし、どーでもいい。報われたいとか、目標達成とか、考えるだけで苦しそーだな」


「俺の十年はなんなんだ?」


「割と長続きした方なんじゃね。知らんけど。十年も続いた趣味ってそうそうないぜ? たぶん。どうでもいーねぇ」


「俺は……!」


「だーー! もううるせーー!! 知らねーー!!」


 貴虎の堪忍袋の緒が音を立てて千切れた。そう叫びながら思いきり飛び上がって、そして、そのまま介を蹴り飛ばした。松葉杖を放り出して、本人は力なくそのまま倒れる。そして貴虎自身も着地に失敗してどちゃっと背中から地面に落ちる。

 甲高く松葉杖がアスファルトに落ちる音がした。

 海岸の砂を大量につけながら、ふらふらと最初に立ち上がったのは貴虎だった。


「お前欲張りなんだよ! さっきからずっとさぁ! なーにが価値だ勝利だ下らねぇ! そりゃ楽しくねーだろうし、どの女神様にも愛想つかされるわ!」


「うるせぇ! そんぐらい本気だったんだよ!」


「知るか!!」


 と、やっと生気を取り戻して反論してきた介に、貴虎はマウントを取る。


「そんなに勝ちたかったら勝てるとこ行けばいいじゃねぇか!! 損得勘定も出来ねぇのかバカって奴はよぉ!」


「サッカーで勝ちたかったんだよ! 分からねぇのかそんくらい!」


「求めすぎだバカ野郎! なんでサッカーで勝ちたかったんだよ! なんでそこで価値を求めたんだよ!! 分らねぇか!? お前ホントバーカ! バーーーカ!!」


 好き放題言って、息が上がって、肩で呼吸をする。こんな興奮状態だと言うのに、貴虎の頭はどこかずっと冷静だった。

 どうして自分は、こんなにも苛立っている?

 頭の中で自問自答しながら、しかし答えはでなかった。そうしていると、自分に座られている介が、小さく反論してきた。


「求めて何が悪いんだよ……。好きだから勝ちたかったさ。好きだから自分の価値を示したかったさ。それのどこが悪いんだよ。求める事すら俺みたいな奴には許されないのか……?」


 存外ネガティブなのかコイツ……? と、そんなことを思いながら、自分の頭の中を整理して、そして答える。


「別に。好きにすりゃいい。悪い事じゃねーよ。……でも、お前言ってたじゃん。疲れたって」


「…………」


「好きってのは……、多分、受け入れられることなんだよ。それをやってく過程で、どんだけ負けても、たとえその先が無価値であったとしても、それすら抱きしめられるような……、それが多分、好きってことさ。多分」


 で! と、大声を出す。呼吸は戻ったけれど、いつの間にか声は枯れていた。裏返って変な感じにもなった。


「お前がおかしいのは、勝たなきゃ、価値がなきゃ全部ゴミで、悪いってところ。報われないとか、無駄とか言ってさ。別に……、いいだろ。コレが好きだって自分が分かってりゃ、それで。他人に価値を認めていただく必要なんて、本来無いはずだ。

 なのに、飲み込まれてんだよ。疲れてんのに、もう好きじゃなくなってきてんのに、価値のために続けるって、おかしいぜ。ひっくり返ってる。楽しいから初めて、楽しいから続けてんだろ? なら、楽しくなくなったらやめてもいいはずだ」


「…………」


「あーー、仕事とか、他のケースは俺には聞くなよ? 生活とか、家族云々は知らねー。分かんねぇ。でも別に、そうじゃねーんだろ?」


 問いかけて、そこで介と目が合った。すぐに、気まずそうに視線を逸らされる。そして介が発したのは、ひどくかすれて、そしてひどく小さな言葉だった。


「今はもう、好きかどうかわかんねぇよ」


 貴虎は突き放すように言ってやった。


「とりあえず休めば? 怪我もあるし。いつかまた、好きかどうか分かる日が来るだろ」


 介は、自分に乗ったままくたびれている貴虎と、その先にある空を見た。

 真っ暗な空だった。何か一つ付け加えるのだとすれば、流れ星が似合うような、そんな夜空だった。


「…………休むか」


「んだな。オレも大声出して疲れた」


 と、貴虎も同意するようにそう言って、そしてようやく介から立ち上がった。

 解放感と共に、一息で介は上体を起こした。しかし、松葉杖をすぐに拾おうとは思えず、なんだかぼーっとしてしまった。

 休もう。そう決めた。オフとか、そう言うのはあったが、考えてみると十年ぶりの、何もない状態。しかし、そう決めたら、さて、どうしてものか。

 寂しいとか、戸惑いとか、色々言葉は思い浮かぶが、それらは総じて、巨大な暇を目の前にした不安が一番近いかもしれない。そんなものを内心見上げて、そして思わずため息と一緒に言葉が漏れていた。


「……暇になるな」


 視線を上げると、そこには異様にニヤニヤと、してやったり顔の貴虎が居た。なんだコイツ、と、そう呆れた次の瞬間、あっと思い当たる。やっちまった。


「えー? 暇にゃのーー?? 暇じゃないってちょっと前まで言ってなかったかにゃーー? あれー?」


 これまでの人生の中で一番大きい特大のため息がでた。自分が情けないというか、コイツの言う通りになったことに対する苛立ちだとか、全部が籠ったため息だった。何か言ってきているのを頑張って無視しながら、傍に砂で埋もれている松葉杖を取る。

 よっこいしょ、と立ち上がると、さて、周囲は見たことのない海岸だった。背中に、服の中に砂がついたり入ったりして、気持ち悪い。

 しかし、特別言及する気にもなれず、まだニヤついている貴虎に向き直る。


「そうだよ。暇だよ。暇になったんだよ。……で、なんだ? 何を俺にやらせたいんだ?」


 そう問いかけると、貴虎は散々言っていたくせに、いざそうなると少し罪悪感があるのか、肩を竦めながらこちらに伺った。


「壊れたベースとぉ、あとまぁ、キーボードとかぁ、アンプとかぁ、色々……」


「何で困ってんの?」


「いやぁ、楽器の修理って大変って印象が……。あと、介さんが修理できるのかとかぁ……」


「馬鹿か。クソ大変だしクソめんどくせぇに決まってんだろ。そんで費用もこっち持ちだろ。ホントクソ客だなお前ら。殺されても文句言えねぇからな」


 ですよね……。と、うなだれる貴虎に、でも、と介は言葉を付け加えた。


「いい暇つぶしにはなる。……で、実物は?」


「えっ、今?」


「別に持ってきてもらってもいいけど……。早い方が良いだろ?」


 じゃあ、一旦家に戻ろうか。と、貴虎が考えたその時だった。


「おーい? 貴虎さーん?」


 間が良いなんてレベルじゃないくらいいいタイミングで、龍樹がやって来た。しかも、なぜか先日介の店へ持ち込んでベースを持ってきて。


「なんで……?」


 やっぱり変過ぎるな。と、首を傾げながら貴虎は龍樹にそう言うと、いたずらっぽく笑って返えされる。


「私が呼んだんですから当然分かっていますよ。……それに、私じゃなくても靴も履かずに縁側から飛び出してったら誰だって変だと思いますよ。なんかあったっていう雰囲気だったし」


「それはオレが居なくなったのが変ってだけで、ベースを持ってきたことへの説明にはならねぇんだけどなぁ……」


 というぼやきを無視して、龍樹は介に向き直る。


「…………」


 じっ……、と、まるで試すように、値踏みするように介を見た後に、やはり微笑みながらベースを差し出した。


「……ど、どうも」


 その龍樹の行動に戸惑いながら、介はベースを受け取って、それを背負った。ベースは少しだけ、介の体格に似合わず、まるで背中を守る何かの装備品のように見えた。


「えっと……、じゃあ、俺は戻るよ。どっからここに来たのかも分かんねぇけど」


「東と下りを歩けばすぐですよ。……出来るだけ、早く帰った方が良いかと」


 すっと、龍樹が指さした方向にとりあえず介は従うことにした。

 気恥ずかしいような、落ち着かないような、そんな雰囲気のまま、そうして介と貴虎は別れた。貴虎は介が見えなくなるまでずっと見送っていた。

 介を見送る途中、また、龍樹がクスリと笑って、小さく貴虎に言ってみせた。


「今回、随分と彼に肩入れしましたね。……何か狙いや、あるいは、身内に心当たりがいたとかですか?」


 貴虎は、飛び出しそうになった言葉を必死で飲み込んだ。


「ん……まぁ、色々、だな」


〈続く〉

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