所謂の幻覚は、これほどまでに絶望的か
その猪頭は、沸き立つ霧のように消えては現れ、執拗に俺たちを奥へと誘う。
俺は長槍を構えたままその後を追った。凍てついた茂みの最後の一片を突き抜けた瞬間、視界は唐突に開けたが、そこに解放感など微塵もなかった。
むしろ、巨大な生物の内臓の深奥へと踏み込んでしまったような、おぞましい感覚が俺を襲う。
足元にあるのは土だ——いや、果たしてこれを土と呼んでいいものか。
それは湿り気を帯び、ねっとりと靴底に纏わりつく。遠く、月光に照らし出されたのは、古びた血痕と砕けた骨、そして正体不明の黄色い脂肪塊が堆積してできた粘り気のある汚泥だった。一歩進むたび、靴底からは頭皮が粟立つような「じり、じり」という音が響く。まるで大地が俺たちのブーツを吸い込もうとしているかのようだ。空気には、吐き気を催すほど甘ったるい血臭が混じり、鉄錆の味を舌の先で克明に感じ取ることができた。
道沿いの枯死した古木には、畸形なほど肥大した渡り鴉がびっしりと群がっている。その羽毛は油鍋から引き揚げられたばかりのように不自然に艶めき、黒々とした塊となって月光さえも遮っていた。奴らは飛びもせず、鳴きもせず、ただ首を傾げて、濁った瞳に悪意に満ちた理性を宿しながら、じっと俺たちを凝視している。
さらに遠くの陰影では、野犬や狼の群れが頭を下げ、何事かを貪り食っていた。奴らは異常なほど沈黙を守り、時折顔を上げては、猩紅の瞳でこちらを射抜く。その口元には、粉砕機ですら処理しきれなかった残滓——肉の付着した細長い「何か」がぶら下がっていた。
そして、その猪頭は、油じみた斑模様の門扉を背に、ある屋敷の前に立っていた。
奴は攻撃を仕掛けるでもなく、肉鉤を振り上げることもない。ただ静かにそこに佇み、縫い合わされた皮膚の隙間から、その眼球で俺を完全にロックしている。やがて奴は、その肥大した巨躯を横にずらすと、長鉤を収めて道を開けた。それは、拒絶を許さぬ無言の招待であった。
入れ、というのか。
その油ぎった大門を叩いた瞬間、現実感は指の間から零れ落ちる砂のように、急速に剥離していった。
シルヴィアの声が遠ざかる。数千メートルの深さがある粘稠な水層の向こう側から聞こえるかのように。俺の意識は墜落していく。この土地の悪意が編み上げた、深紅の泥沼の中へ。
「くそ……神経伝達物質の受容体を乗っ取られたか? あるいは低周波音が皮質を干渉しているのか?」
人類が自然界において誇るべき最強の物理防壁、血液脳関門は、今や薄っぺらな紙屑も同然に、敵の侵入によって容易く突き破られた。
思考が鈍化していく。これは物理的な防御を迂回し、脳幹に直接幻影を植え付ける外因性の精神制圧だ。俺は必死に、この肉体の主導権を奪い返そうと抗う。
体内の氷冷な魔力を微細な電流へと変換し、視床へと精密に叩き込む。視交叉上核を強引に起動させ、視覚の制御権を奪還しようと試みる。同時に、体感皮質の痛覚過敏領域を狂ったように刺激する。
「起きろ! ミン! こんなところで倒れてたまるか!」
自分にそう呟いた。だが、何も起こらない。俺の意志という名の信号は、神経の断線によって虚空へと消えていく。
先の朽ちた巨木が脳内で現れて、耳元で響く不快な囁き。視界はより黒く、より赤く染まっていく。今、俺はまるでアカウントを奪われ、サーバーからキックされたプレイヤーのようだ。モニター越しに、勝手に動き出す自分の画面を眺めている。
そして、その画面に映し出されていたのは、俺のものでは決してない、忌まわしき過去の記憶であった。




