スクエア谷地
翌日、俺はエフェからグリフォンを一頭借り受け、シルヴィアと共に早々と旅立った。
谷間には雲海が逆巻き、白茫々たる大海のごとくだった。聳える峰々は孤島となり、日の出と共に東の空は臙脂、橙粉、金橙へと染まっていく。雲海は金紅、乳白、淡青へと色を変え、流転し、聚散を繰り返す。……まさに仙境であった。
ようやく空は二つの色、青と黄を取り戻す。遠方に威厳をもって聳える雪山、時折視界を掠めるトーテムポールが、この地の古と神秘を静かに物語る。
たまに思う。転生し、死から蘇り、こうして山河を跋扈するこの身は、本来なら何ものにも縛られぬ、肆意で洒脱なものであるはずだと。
天より来たりて海へ奔り、二度と戻らぬ滄江の水を眼下にする。幼き日、読んだ漢詩の真意を、俺はとうてい理解できなかった。しかし今、大自然がこの壮麗な光景を眼前に広げてみせた時、初めて悟った。河水は浩々湯々(こうこうとうとう)として、決して逆らうことなく、ただ一途に落下してゆくのだと。
かの詩人が「君見ずや、高堂の明鏡に白髪を悲しむを。朝には青糸の如きも、暮には雪と成るを」と詠んだのも、もっともなこと。時は万人に平等に、そして気付かぬうちに零れ落ちてゆく。ならば飲もう、酔おう。今この瞬間を楽しまねば、もう手遅れだ。
そんな想いが去来し、俺は無意識にシルヴィアの身体を抱き寄せ、その髪に香る月下香と冷杉の気配を貪るように吸い込んだ。
「……どうしたの?」
「……なんでもない。ただ、ふと、生きているのが素晴らしいと思った。お前たちに出会えたのは、俺の幸運だ」
彼女は俺の首に手を回すと、逆らうようにして唇を重ねてきた。
丸一日飛び続ければ、いかに強靭なグリフォンも疲労を隠せない。ましてや背には二人の人間を乗せている。
俺たちは、高原の荒涼とは対照的に緑濃いスクエア谷地へと降り立った。右手には海が広がり、伝説によれば、聖王とその追随者たちがこの大陸に初めて足を踏み入れた埠頭が見える。
だが、潮風の中に、微かながらも確かな死の気配が混じっていた。どこかで葬儀でもあるのだろうか。
宿を借り、土地の料理をいくつか注文した後、俺は辺りを散策することにした。
橋の袂に差しかかった時、一人の少年が目に飛び込んできた。
背は一メートル三十ほど、傷んだ枯草色の髪、顔中に散らばった雀斑。その子供は、躊躇うことなく橋の欄干を越え、濁流へと身を投げた。
「くそっ!」
思考より先に、身体が動いた。
一陣の血風と化し、水面に消えんとする少年の襟首を掴み、岸辺へと引きずり上げる。腕の中で、少年は激しく震えていた。水をむせびながら、俺を恐怖の眼差しで見上げている。俺は少年の目の前で手を振り、その小さな手を握って体温を確かめた。
「あ……あ……ああああああっ!」
少年は泣き叫んだ。喉を裂くような、魂の根源を揺さぶる絶叫。それは、新生児が最初の呼吸を求めてあがくような、生への凄まじい渇望そのものだった。
俺は、彼が泣き疲れるのを、根気強く待った。
「……泣き終わったか?」
少年は鼻をすすり、無造作に鼻水を拭うと、赤く腫れ上がった目で俺をじっと見た。
「……ううん」
「死ぬのが怖くなったか? なぜ飛び込んだ」
「死んじゃったんだ。みんな、みんな死んじゃった。パパも、じいちゃんも、ばあちゃんも……みんな」
「全員か? お前一人か?」
少年は首を振った。
「叔母さんだけ……。叔母さんはいい人なんだ。でも、もう限界なの。可哀想で、たまらない」
「だからお前も死んで、叔母さんの荷物を減らしてやろうと思ったのか」
少年は俺を見つめ、かすかにうなずいた。
「……ふん。泣くな、小さな強情者め。まず名前を言え」
「……マーク。おじさんは?」
「ミンだ」
「マークよ。時として、物分かりが良すぎることは罪だ。責めてるわけじゃない。お前くらいの年の子供が大人に甘えるのは、お前たちの権利なんだ。叔母さんの身になって考えてみろ。彼女はもう、親も兄弟も失った。お前は、残された数少ない肉親だ。……逃げることも、死ぬことも、一つの方法ではある。だが、それは自分自身への過剰な罰だ。自死とは、己に最後の尊厳を与える儀式であるべきだ。事態は、まだそこまで絶望的じゃないはずだ」
夜気が水のように肌に沁みる中、俺は少年の語る悲劇に耳を傾けていた。
胸の内が、荒れ狂う海のように波立つ。
元は、彼らの家は裕福な方だった。聖都の経済開発が進み、この地が連邦文化の窓口に指定されるまでは。
都市計画で土地を収用され、役場は代替の家と土地を約束した。しかし、それはすべて泡沫と消えた。「お前たちはもうこの町の住民ではない」という理屈で。「言われた通り移ったのに」と訴えれば、「俺の管轄外だ、他を当たれ」と、たらい回しにされる。
元軍人だった祖父と父が、退職金を注ぎ込み、借金をしてようやく手に入れた大型船。家を失い、補償金も払われず、負債だけが残った。父は「説明」を求めに出かけ、二度と戻らなかった。後を追うように祖父も世を去った。
残されたのは三十代の叔母、その幼い我が子、膨大な負債、そしてこの少年だった。
人間の屑どもの所業は、異世界だろうが元の世界だろうが、反吐が出るほど千篇一律だった。
俺は自分の信物を一つ取り出し、彼に手渡した。
「明日、取り立てが来たら、これを奴らの目の前で地面に叩きつけろ」




