不意の想念
人という生き物は、慣れ親しみ、あまつさえ依存してしまえば、ある日突然訪れる変化や別離に為す術もなく翻弄されるものだ。不意の違和感に苛まれ、抗いようもない思慕を募らせ、かつての美しかった日々を繰り返し反芻してしまう。
オークとドワーフの地での日々、俺は彼らに豚や羊の飼育を勧めていた。家畜の排泄物は、この痩せた砂地を肥やす糧となる。痩せた土地に、緑の記憶を呼び覚ますために。
本来なら、ゴブリンの技師と協議し、巨大なソーラーパネルを数基建造する計画もあった。発電と同時に生じる温度差を利用し、夜間の冷気で結露した水分を施設の伝いで地下へ導く——。蓄電も可能だが、先んじて進めていた治水事業に予算と労力を割かれ、今はまだ、その構想と原理を彼らの頭に刻む段階に留まっていた。
電子と原子とが織りなす、かつての世界の理。それを説いた相手であるゴブリンという種族は、人類にとって最大の脅威の一つだった。その容貌からオークの同類と混同されることもあるが、奴らは正真正銘、この世界の原住する知性体だ。ドワーフと同じく大地の深部で生まれ、黄金に病的なまでに魅せられる。その性質は時に淫邪を極め、略奪を繰り返し、他種族の女を拉致しては自らの種を蒔いてきた。奴らの遺伝子は強靭で、生まれてくるのは例外なくゴブリンだった。
しかし、その巨大で野蛮な群れの中から、ごく稀に、霊智が別次元に開けた個体——バリアントが現れる。黄金への愛が高じて、彼らはやがて世界を覆う軍需銀行や財団を牛耳り、奇怪かつ精妙な発明に没頭し始めた。そうして野蛮な同族から自らを切り離した一部のゴブリンたちは、諸族と不可侵の契りを結ぶに至った。
今はまだ、高価な試作機など望むべくもなく、数本の遮光柱を建てて凌ぐ他ないがな。
春が深まり、凌汛の気配が過ぎ去ると、砂地の所々から、かすかな緑の芽が顔を出し始めた。
このところ、俺はほとんどの時間をシルヴィアと共に過ごしている。
クレアが去ってからというもの、なぜか彼女は半人半狼の姿で俺の前に現れることが多くなり、眠るときは執拗に、まるで離れることを恐れるように密着してくる。
……やれやれ、この狼の尾というやつは。
ふさふさとして柔らかく、獣の野太い臭気など微塵もない。正に「夢に出てくるような狼」だ。
不意に、前世で飼っていたボーダーコリーを思い出す。あいつは聡明で、俺の出すどんな命令も理解していた。……時折、わざと聞こえないふりをして、からかってくることを除けばな。
腕の中で丸くなっているこの温もりを見ていると、ふと考える。お前もまた、何らかの巡り合わせで転生し、シルヴィアという姿を借りて俺の元へやってきたのではないか、と。
だが、あいつはオスの犬だった。しかも去勢済みだ。 よもや、これほど「国色天香」の美貌をまとって現れるはずもないだろう。
思わず、独り言のような微かな笑みが零れた。
そのかすかな息づかいを敏感に察知したのか、狼の尖った耳がピクリと俺の方へ向いた。腕の中のシルヴィアが顔を上げ、緑色の瞳で俺をまっすぐに見つめる。
「……どうしたの? 何か考え事?」
「いや。……少し、昔のことを思い出していただけだ」
「昔の……ミンの、まだ私が知らない頃のこと?」彼女の声には、ほんのりとした好奇心が滲んでいる。「ねえ、私にも聞かせて。あなたのことを、もっと知りたいの」
この直球は、いささか反則だろう。俺は心の中でそう呟きながら、彼女のふさふさとした尾の先を、指でそっと摘んで弄んだ。
「……さてな。あまりに昔の話で、記憶自体が朧げだ。一つの長い夢だったと思ってもらっても構わん。あるいは、遠い前世の物語、とな」
「前世……?」
「まあ、細かい詮索はよせ。もう遅い。早く寝ろ、シルヴィア」
「また、そうやってごまかす。……本当は、クレアのことを考えていたんでしょ?」
「ああ? ……どうしてそうなる」
俺は苦笑を漏らした。彼女の勘は、時として鋭すぎる。
「二週間前に出した手紙に、未だに返事がない。さすがに、少し心配なんだ。何かあったんじゃないか、と」
シルヴィアはこっそりと顔を背け、俺の目を見ようとしなかった。……やれやれ、小さな嫉妬の炎が、またぼうっと灯ったか。俺がその柔らかい頭頂と、ピンと立った耳の付け根を優しく撫でると、彼女は不意に振り向き、つぶやくように言った。
「……そんなに、会いたいの? なら、会いに行けばいいじゃない。ただここで手紙を待っているだけなんて、何の解決にもならないわ」
「なら、一緒に聖都まで行ってみるか?」
「私が行ってどうするのよ。あの子を不快にさせるだけだわ」
「……そこを、俺が頼んでいるんだが?」
シルヴィアは一瞬黙り、ゆっくりと目を細めた。その唇が、わずかに、いたずらっぽく緩んだ。
「……答えは、あなたの今日の“態度”次第ね、ミン」




