ミントとローズ・『パパ』と呼ぶ少女と、記録から消された女性
そんなことを考えていた時だった。
遠くから、誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。
小さな子供の手を引いた、大人の女。
一見すると親子に見える。
だが――妙だった。
二人とも、荷物が少なすぎる。
背負っているのは、小さなバックパックが一つずつ。
この先にあるのは、ようやく畑を作り始めたばかりの小さな村だ。
まともな家も、店もない。
そんな場所へ、人がやってくるなんて思ってもいなかった。
「……遭難者か?」
俺が呟いた、その直後だった。
子供の膝から、ふっと力が抜けた。
まるで糸の切れた人形のように、小さな身体が前のめりに崩れ落ちる。
「おい!」
俺は反射的に駆け出した。
なんとか抱き止める。
腕の中に収まった子供は、ひどく軽かった。
そして――。
「おなか……すいたよぉ……」
「ろくに食べてないのか?」
「……はい」
か細い返事。
着ている服も、旅装束というには薄すぎる。
何日もまともに食事をしていないのだろう。
それでも、その目だけは不思議なほど強かった。
近づいてみて、二人の姿がはっきりと見える。
女は人間。
そして子供は――ドワーフだ。
ただし、俺の知っているドワーフとは少し違う。
ずんぐりとした体格ではなく、細身。
耳や手の骨格は確かにドワーフなのだが、体つきはむしろ人間の子供に近い。
「ここには……『塔』がありますよね?」
女が静かに尋ねてきた。
「ああ。
なんで知っている?」
すると、俺の腕の中にいた子供が小さく呟いた。
「……みえたんだ」
「見えた?」
その言葉の意味を考える間もなかった。
女が手を伸ばし、子供の身体を支えようとした、その時――。
「パパ……?」
「え?」
俺が聞き返した瞬間だった。
子供の瞳が、金色に輝いた。
「パパ!」
ドンッ――!
「ぐっ……!」
突然、凄まじい衝撃が胸を貫いた。
まるで大型魔獣に真正面から突進されたような衝撃。
小さな身体が弾丸のような勢いで飛び込んできて、俺の身体が宙に浮く。
「なっ――」
次の瞬間。
全身を駆け抜ける激痛。
そして、意識が暗転した。
◇
次に目を覚ました時。
最初に見えたのは、アトラの顔だった。
「……やっと目が覚めた?」
「アトラ……?」
「丸一日、意識が戻らなかったんだよ」
アトラは心底呆れたようにため息を吐いた。
「それだけ君が受けたダメージは大きかったってこと。
ちゃんと理解して」
「ああ……悪かった」
身体を動かそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
「っ……!」
「ほら。
だから動くなって言ってるでしょ?」
どうやら身体中を打ち付けたらしい。
骨でも折れているのではないかと思うほど、身体が軋んでいる。
「せめて大人しく寝ていれば、こんなことにはならなかったと思うけどね」
「……その通りだな」
俺は苦笑した。
「心配かけて悪かった」
「心配といえば――」
アトラが盛大にため息を吐く。
「あのドワーフの子のほうが大変だったよ」
「あの子が?」
「『パパが死んじゃうー!』って、君にしがみついて大泣きしてた」
「いや……」
俺は天井を見上げた。
「普通に抱きつかれただけなら、死なないと思うんだが」
「普通じゃなかったから、こうなってるんでしょ」
「……それはそうだな」
あの瞬間。
確かに感じた。
あの子供の身体を包んでいた、異常なほど濃密なレイキ。
あれはただの子供が持つ量ではない。
「それで、あの子は?」
「別の部屋で寝てるよ。
泣き疲れちゃったみたい」
アトラは水差しから木のコップに水を注ぎ、俺へ手渡してくれた。
「君が倒れたのは自分のせいだって、ずっと責めてた」
「……そうか」
水を一口飲む。
喉が渇いていたのか、驚くほど美味かった。
「それより、『パパ』って……」
「心当たりは?」
「ない」
即答した。
「全くない」
俺がドワーフの子供の父親になった覚えなど、もちろんない。
そもそもドワーフの知り合い自体がいない。
「でも、あの子は確信してたよ」
アトラが俺を見る。
「君の顔を見るなり飛びついてきた。
『やっと会えた』って」
「……それは確かにそうだったな」
俺は考え込んだ。
人違い。
そう考えるのが普通だ。
だが、あの子の目は違った。
本気で俺を父親だと思っていた。
理屈ではない。
もっと根本的な何か。
「一体、どういうことだ……?」
「私に分かるわけないでしょ」
「……だよな」
俺は苦笑した。
「本人たちに聞くしかないか。
あの女の人は?」
「畑を手伝ってくれてるよ」
「もう働いてるのか?」
「名前はローズ。
あの子はミント」
「ローズにミント……」
やはり心当たりはない。
だが――。
「そういえば、あのローズって女」
「何?」
「特徴、なかったよな」
アトラは少し考え込んだ。
「……それ、私も気になってた」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
「さっきまで話してたのに、顔を思い出そうとすると……ぼやけるの」
「俺もだ」
「髪の色も、目の色も、なんとなくしか覚えてない」
「栗色だったか……黒だったか……」
「私も分からない」
妙だった。
顔を見ているはずなのに、記憶に残らない。
人混みに紛れれば、数秒で見失ってしまいそうな存在感。
「まるで……存在そのものが、周囲の風景に溶け込むようにできてる」
「隠れるために生まれてきたみたいね」
アトラがそう呟いた。
俺はしばらく考え込んだ。
あの二人は何者なのか。
なぜ、こんな何もない場所へ来たのか。
そして――。
なぜ、ミントは俺を父親だと思っているのか。
「アトラ」
「うん?」
「悪い。ローズをここに呼んでくれ」
「分かった」
アトラが立ち上がる。
だが、その時だった。
コン、コン。
小さなノックの音。
「……ぼく、入ってもいい?」
ミントだった。
目を真っ赤に腫らし、申し訳なさそうに立っている。
「パパ……」
ミントは慌てて言い直した。
「……ちがう。
えっと……ごめんなさい」
「どうした?」
「ぼく……また、やっちゃった」
「やっちゃったって?」
ミントは俯いた。
「ぼく、時々……自分が何してるのか分からなくなっちゃうんだ」
「……」
「気づいたら、誰かを傷つけてる」
なるほど。
俺はできるだけ優しい声を出した。
「気にするな。
こっちへおいで」
ミントがおそるおそる近づいてくる。
そして俺の横に立った。
「なあ、どうして俺のことをパパだと思ったんだ?」
「……だって、パパだもん」
「でも、俺はドワーフじゃない。
お前に会った記憶もない」
「うん。
知ってる」
ミントは迷いなく答えた。
「でも、パパなの」
「……どうして?」
「ぼくには、分かるの」
その言葉には、子供特有の思い込みとは違うものがあった。
太陽が東から昇る。
火は熱い。
水は濡れる。
――それと同じくらい、当たり前のこととして語っている。
「ローズからは、何か聞いてないのか?」
「ローズねえはね」
ミントは少し考えてから答えた。
「『本当のことを言っても、信じてもらえないかもしれない。でも、それでいい』って」
「……本当のこと?」
「うん」
ミントは俺の手を握った。
今度は、ちゃんと力を加減している。
「『ぼくたちは、ここにいていいかどうか。それだけが大事』って言ってた」
その時。
部屋の外から足音が聞こえた。
ドアが開く。
ローズだった。
手には野草がいくつか抱えられている。
「すみません。
勝手に収穫させてもらいました」
ローズは小さく頭を下げた。
「おかゆを作ろうと思って」
「ああ、助かる」
ローズは少しだけ微笑んだ。
だが――。
その顔が、また記憶から滑り落ちていく。
「……」
俺は無意識に目を細めた。
「どうかしました?」
「いや」
今はいい。
それより聞くべきことがある。
「ローズ」
「はい」
「説明してくれ」
ローズは静かに頷いた。
「なぜ私たちがここへ来たのか」
「なぜミントが俺をパパと呼ぶのか」
「……はい」
彼女は覚悟を決めたように息を吐いた。
「ただ、その前に……」
ローズは手にした野草を見る。
「おかゆを作らせてください」
「そうしてくれ」
腹が減っている。
それに丸一日寝ていたせいで、身体が何かを欲しがっている。
「話は食べてから聞こう」
「はい」
◇
しばらくして。
ローズが作ってくれた野草と雑穀のおかゆが運ばれてきた。
見た目は質素だった。
塩気もほとんどない。
それでも――。
「……美味いな」
口に含んだ瞬間、身体の奥がじんわりと温まった。
「ありがとうございます」
ローズは少し驚いたように目を見開いた。
そして俯く。
「料理を褒められたのは……初めてです」
その言葉に、ミントが小さく笑った。
アトラは部屋の隅で腕を組んでいる。
警戒しているのは間違いない。
俺も同じだ。
だが、今のところ敵意は感じない。
俺は空になった椀を置いた。
「じゃあ、改めて聞こう」
ローズを見る。
「お前たちはどこから来た?」
「山の向こうです」
「そこから、なぜここへ?」
「逃げてきました」
「何から?」
「……すべてから、です」
ローズは一瞬だけ目を伏せた。
「私たちが住んでいた場所には、もう人は残っていません」
「争いか?」
「それもあります」
「それも?」
ローズは答えなかった。
代わりにミントを見る。
「私たちは、一緒に育てられました」
「姉弟なのか?」
「いいえ」
「じゃあ……」
「拾われた、と言えばいいでしょうか」
ローズは苦笑した。
「なるほど」
「そしてミントが、ずっと言っていました」
ローズは俺を見る。
「南へ行けば、パパがいる、と」
「……俺が?」
「はい」
「それだけを頼りに、ここまで?」
「もっと具体的でした」
ローズは淡々と続ける。
「光る塔がある場所」
「壊れた村」
「でも、畑が始まったところ」
「まるで……この場所を見てきたように」
俺はミントを見る。
ミントはこくんと頷いた。
「夢で見たの」
「夢?」
「うん」
ミントは嬉しそうに話し始めた。
「夢の中で、小さな妖精さんが笑ってた」
「妖精?」
「うん」
「何て言ってた?」
「『パパは南だよ』って」
俺は息を呑んだ。
妖精。
この世界で、妖精の存在は珍しくない。
だが――。
俺の妖精たちが、ミントに何かを伝えた?
そんな記憶はない。
「なぜ、俺がパパなんだ?」
「……わかんない」
ミントは胸に手を当てた。
「でも、わかるの」
「ここが、ぎゅーってなる」
「それで……こっちだって分かる」
「パパがここにいるって、誰かが教えてくれるの」
俺は言葉を失った。
アトラが静かに口を開く。
「それって、もしかして……」
「俺の血か、塔か、妖精か」
俺はミントを見る。
「何かに反応しているのかもしれない」
だが、何に?
それが分からない。
「じゃあ……本当に、あなたがパパなの?」
ミントが不安そうに尋ねてきた。
「血の繋がりがあるかどうかは、まだ分からない」
俺は少し考えてから答えた。
「でも、お前に帰る場所が必要なら――ここがお前の家でいい」
「……!」
「パパと呼びたいなら、それでも構わない」
ミントの顔がぱっと明るくなった。
その横で、ローズが深く息を吐く。
「私は……ただ、この子を守りたかっただけです」
ローズは俯いた。
「この子が幸せになれる場所があるなら、それでいいと思っていました」
「だから、もし迷惑なら――」
「迷惑なんて言ってない」
俺は言葉を遮った。
「こういう時代だ。
事情がどうであれ、盗賊に襲われることだって珍しくない」
俺は身体を起こそうとした。
「っ……」
「ほら!」
アトラがすぐに支えてくれる。
「無理するなって言ってるでしょ!」
「大丈夫だ」
「全然大丈夫じゃない!」
「……はい」
俺は大人しく横になった。
「とはいえ、今の話だけで信用したわけじゃない」
「はい」
ローズは素直に頷いた。
「だから、しばらくここで暮らしてもらう」
「……え?」
「行く当てのない人間を追い出すほど、俺たちは冷たくない」
アトラも頷いた。
「私も同意。
追い出したら、また危険な目に遭うだけだもの」
「……ありがとうございます」
「ただし」
俺は続ける。
「危険がないと分かるまでは、村の外へ出るのは禁止」
「分かりました」
「二人の監視も必要だ」
「はい」
「働けるなら働いてもらう」
「もちろんです」
俺はミントを見る。
「そして――ミント」
「なに?」
「俺をパパと呼ぶなら、少しは親孝行してくれ」
「親孝行って?」
「まずは、俺を殺さないように抱きつく練習からだな」
「うん!」
ミントの目が輝いた。
「いっぱい練習する!」
「よし。
いい返事だ」
ミントが嬉しそうに飛び跳ねる。
ドンッ!
床が鳴った。
「……!」
ローズの顔が青ざめる。
「ミント!」
「わっ!」
「飛び跳ねちゃダメ!」
「ご、ごめんなさい……」
俺は思わず笑ってしまった。
「まあ、元気なのはいいことだ」
「……ありがとうございます」
ローズは深く頭を下げた。
「この恩は、必ず――」
「礼は後でいい」
俺は手を振った。
「まずは畑の続きだ」
「はい」
「アトラ。
悪いが、ローズに村のことを教えてやってくれ」
「分かった」
アトラは立ち上がる。
「でも、私はまだ完全には信用してないからね」
「もちろんです」
「それとハーシス」
「ん?」
「今度こそ、ちゃんと寝て怪我を治して」
「……善処する」
「絶対だからね」
三人が部屋を出ていく。
その直前。
ミントが振り返った。
「パパ!」
「ん?」
「おやすみなさい!」
ミントは満面の笑みを浮かべる。
「今度は、ちゃんと優しく抱っこするからね!」
「……期待してるよ」
俺は苦笑しながら手を振った。
ドアが閉まる。
静寂。
俺は天井を見上げた。
本当は違う。
俺は間違いなく、ミントの父親ではない。
前世にも。
今世にも。
子供をもうけた覚えなんてない。
それでも――。
あの子が安心して眠れる場所がここなら。
それを否定する理由はなかった。
呼び名くらいで、あの子が笑えるなら。
安いものだ。
◇
外から風の音が聞こえる。
若い麦の葉が擦れ合い、さらさらと音を立てていた。
遠くからはガードナーたちの笑い声も聞こえる。
少し前まで、ここはただの廃墟だった。
今は違う。
畑がある。
家がある。
人がいる。
少しずつだが――村が、生き返っている。
それだけなら、胸の奥が温かくなる。
だが。
「……」
俺の頭の中には、別の疑問が残っていた。
ミント。
ローズ。
そして――。
「パパ」。
俺は間違いなく、あの子の父親ではない。
なのに。
ミントは迷いなく俺を見つけた。
あれは人違いではない。
本能。
そう。
あの子は、俺を見つけた。
「……何なんだ、一体」
呟く。
そして、もう一つ。
ローズだ。
俺は目を閉じた。
彼女の顔を思い出そうとする。
栗色の髪。
……いや、黒だったか?
淡い茶色の瞳。
……灰色だったかもしれない。
鼻筋は――。
「……」
思考が止まった。
「まただ」
顔だけが思い出せない。
輪郭がぼやける。
霧がかかったように、そこだけ記憶から抜け落ちている。
声は覚えている。
話した内容も。
歩き方も。
仕草も。
それなのに――。
肝心の顔だけがない。
まるで最初から、俺の記憶から「顔」という情報だけを切り取っているかのように。
「記憶阻害……?」
俺は小さく呟いた。
いや。
「……認識阻害か」
ゲーム時代にも存在した。
姿そのものは見えている。
だが、脳が重要な情報として認識できない。
暗殺者や潜入工作員向けに作られた、極めて高位の認識阻害魔法。
普通の人間が扱えるような代物ではない。
だが――。
「違うな」
俺は首を振った。
もし魔法なら、ナンシーや塔が反応するはずだ。
なのに何も警告がない。
「……じゃあ、魔法じゃない?」
その瞬間。
『解析……開始』
ナンシーの声が頭の中に響いた。
数秒。
『…………』
「どうした?」
返事がない。
『エラー』
『エラー』
『対象情報取得不能』
肩に乗っていたナンシーが、小さく震えた。
『……ハーシス』
「どうした?」
珍しく、その声には迷いがあった。
『推測ですが』
「何だ?」
ナンシーは数秒、沈黙した。
『……回答不能』
「は?」
『該当個体の解析結果が存在しません』
「解析できないってことか?」
『違います』
ナンシーは静かに否定した。
『存在するはずの情報が――最初から存在しません』
「……何?」
その瞬間だった。
塔の最上階。
マザークリスタルが低く唸った。
ゴォン……。
青白く輝いていた結晶が、一瞬だけ赤黒く染まる。
次いで。
空中に見慣れない文字列が浮かび上がった。
――SYSTEM ERROR――
ENTITY NOT FOUND
ACCESS DENIED
ROOT DATABASE
NO RECORD
そして。
表示は、瞬きをする間に消えた。
「……管理領域外?」
俺は息を呑んだ。
この塔は、世界そのものを管理する施設だ。
その管理領域から外れる存在など――。
本来なら、存在するはずがない。
肩の上で、ナンシーが小さく震えた。
『ハーシス』
「……何だ」
『これ以上の解析を推奨しません』
「理由は?」
また沈黙。
そして。
『危険です』
その言葉を聞いて、俺は目を見開いた。
ナンシーがこんな言い方をするのは初めてだった。
◇
窓の外。
ローズはミントの頭を優しく撫でていた。
ミントは嬉しそうに笑っている。
ローズも――。
穏やかに微笑んでいた。
……そう見えた。
だが。
俺はもう、その笑顔を思い出せない。
◇
「良かった……」
ローズは誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
そして、胸元へ手を伸ばす。
服の下から取り出したのは、古びた金属製の首輪。
その表面には、錆びた文字が刻まれていた。
PROPERTY OF
PROJECT
ARTIFICIAL HERO
No.07
ローズはその文字を指でなぞる。
「……やっと、見つけてくれた」
その横で。
ミントが無邪気に笑った。
「パパ、いたね」
ローズは答えなかった。
ただ、遠くに見える光の塔を見つめていた。




