雨が降るまで
取水路が使えるようになったからといって、すぐに町全体の水不足が解消したわけではない。
川の水位も下がっており、無制限に水を引けるわけではなかった。
そこで、ダグラスとガンドが相談し、取水量を調整しながら調整池へ水をためることになった。
洪水に備える容量は残し、池にためた水は農地と家畜の水場へ順番に送る。
特に優先したのは、まだ収穫まで時間のかかるライ麦とオーツ麦、それから家畜たちだった。
「まずは、枯れかけている畑へ水を回そう。家畜の飲み水も確保するんだ」
俺が指示すると、農夫たちが水路の分岐を調整していった。
ノエも畑の様子を確かめながら、必要な場所を教えてくれた。
『ここは、まだ持ち直せる株が多いじゃろう。まずは根元の土に水が届くようにしてやるのじゃ』
「分かった。水が全体に行き渡るように、ゆっくり流してくれ」
水が土へ染み込み、乾ききっていた畑に少しずつ湿り気が戻っていく。
もちろん、一度水を流せば元どおりになるわけではない。
水をかけすぎれば別の問題が起きるし、広い畑のすべてを一度に潤すほどの水量もない。
そのため、農夫たちは区画を分け、順番に水を回していった。
最初に水を回した畑では、翌朝になると葉の丸まりが少し和らいでいた。完全に元気になったわけではないが、根元の土には湿り気が戻っている。
ノエはその様子を確認し、ほっとしたように息をついた。
『よし。ここは、まだ持ちこたえられそうじゃ』
「よかった。ほかの区画も同じように回していこう」
『うむ。じゃが、水が届くまでの間に傷んでしまった株は戻らん。優先順位を考えて、できるだけ多くの株を守るのじゃ』
農夫たちは、ノエの助言を聞きながら水路の分岐を調整した。
水を必要としている畑は多い。どこか一か所に水を集中させれば、別の場所が干上がってしまう。
だからこそ、作物の状態を見ながら配水を続けなければならなかった。
水が届くまでのあいだ、枯れかけた株を見つめていた農夫たちの表情にも、少しずつ安堵が戻り始めていた。
「これで何とか持ちこたえてくれればいいんだが……」
「水が来なければ、もう駄目かと思っていたよ」
その声を聞きながら、俺は改めて水路を眺めた。
完成が少しでも遅れていれば、助けられた株はもっと少なかったかもしれない。
コルの掘削力がなければ、そもそも間に合わなかっただろう。ミズハが水の流れを感じ取り、途中の漏水箇所を見つけてくれなければ、せっかくの取水路も十分な役目を果たせなかった。
そして、デルブやガンド、ダグラス、ミントたちが、それぞれの仕事を果たしてくれたからこそ、水を安全に流せるようになったのだ。
家畜の水場にも、必要な量を運べるようになった。
水桶が空になるたびに遠くまで水を運んでいた世話係の負担も、これで少しは軽くなるだろう。
『家畜たちも、これなら安心です!』
トモロが、水を飲む山羊たちを見ながら頷いた。
「そうだな。これで少なくとも、飲み水を運ぶだけで一日が終わるような状態からは抜け出せそうだ」
『はい! よかったです!』
トモロは、家畜たちの様子を確かめながら何度も頷いた。
ただし、取水路を造っただけで安心するわけにはいかなかった。
流量を確認しながら水門を操作し、水路の崩れや漏水がないかも点検する必要がある。
「ダグラス、取水量の記録を続けてくれ。水位が下がったら、すぐに分かるようにしておきたい」
「承知しました。水門の開度、川の水位、調整池への流入量を記録します」
「ガンドは水路の点検を頼む。土が崩れたり、水が漏れたりしていないか、定期的に確認してほしい」
『うむ。コルにも手伝わせよう。掘るだけでなく、造ったものを維持することも大切じゃからな』
『えーっ、まだ掘っていい場所ないのか?』
「今度は点検だ。勝手に掘り始めるなよ?」
『分かってるって!』
……本当に大丈夫だろうか。
ともあれ、川から水を引けるようになったことは大きい。
畑はまだ収穫まで時間がかかる。それでも、枯れかけた株が持ち直すための水を届けられるようになった。
家畜にも、必要な飲み水を確保できる。
これで、雨が降るまでの時間を稼ぐことができるはずだった。
◇
それからも、暑い日々は続いた。
空から雨が降ることはなかったが、取水路からの水は少しずつ調整池へ入り、農地と家畜の水場へ送られていった。
十分な量を確保できたわけではない。農夫たちは使う水を調整し、畑の区画ごとに順番を決めて水を回した。
家畜にも必要な飲み水を優先して確保し、世話係が遠くまで水を運び続ける負担は減っていった。
取水路の点検は毎日続けられ、水門の開度や川の水位も記録されていた。コルはガンドに見張られながら、水路の補修や追加の掘削を進めていた。
その一方で、工事現場や農地では暑さへの対策も続いていた。
セレナは無理な作業を避けるよう指示を出し、具合の悪い者が出た場合には、すぐに診療所へ運ぶ体制を整えていた。
診療所では、アトラが診察や処置を補助し、リゼが患者の受け入れや経過の記録を担当している。セレナが治療に集中できるようになり、住民たちも体調が悪ければ早めに申し出るようになっていた。
それでも、空は晴れたままだった。
取水路ができたおかげで、麦は何とか持ちこたえている。しかし、川の水だけですべての畑を十分に潤すことはできなかった。
畑の中には、すでに枯れてしまった株もある。残った作物も、収穫量が平年を下回る可能性は高かった。
それでも、全滅だけは避けたい。
毎朝、畑へ出るたびに、農夫たちは葉や穂の状態を確かめていた。水を回した区画では何とか持ちこたえていても、水が届くまでに時間がかかった場所では、株の傷みが進んでいる。
家畜も同じだった。
飲み水は確保できるようになったが、暑さによる体力の消耗は続いている。水を運ぶ負担が減ったとはいえ、給餌や健康状態の確認を怠るわけにはいかなかった。
俺は、調整池の水位を記録した帳面を開いた。
「……取水量は、まだ維持できているな」
川の水位は少しずつ下がっているものの、現状では水門を調整すれば、必要な量を引き込めていた。
だが、このまま雨が降らなければ、いつまで続けられるか分からない。
「もう少し、持ちこたえてくれよ」
俺は、ライ麦とオーツ麦の穂を見つめた。
収穫まで、まだ時間がある。
ここで枯れてしまえば、これまでの苦労が水の泡になる。
◇
ある日の夕方。
俺は、再びライ麦とオーツ麦の畑を見回っていた。
葉の先が茶色くなった株もあれば、十分に育ちきれず、穂が小さいままの株もある。
それでも、多くの株は枯れずに持ちこたえていた。
『全部とはいかんが、これなら育ってくれそうじゃのう』
ノエが穂を確かめながら、安堵したように頷いた。
「取水路が間に合ってよかったよ。あのとき水が届かなかったら、もっとひどいことになっていただろうな」
『うむ。じゃが、まだ安心するには早いぞ。穂が十分に実るまでは、気を抜かぬことじゃ』
「分かってる。もう少しの辛抱だな」
そのときだった。
風が変わった。
これまで吹いていた熱を含んだ乾いた風とは違う。少し湿り気を帯びた風が、畑の上を通り抜けていった。
俺は空を見上げた。
西の空に、黒い雲が広がり始めている。
「……雲?」
『ハーシス、あそこだよ!』
ミズハが空を見上げ、嬉しそうに声を上げた。
『お水の気配がするよ! 雨が来るんだと思う!』
「本当か!?」
『うん! さっきまでとは違うの。空気も、地面の中のお水も、少しずつ変わってきてるよ!』
ノエも空を見上げた。
『これは……。ようやく、降るのかもしれんのう』
俺は雲の動きを見つめた。
取水路を造ってから、ずっと雨を待ち続けていた。
川から水を引いても、足りない分まで補えるわけではない。今の状態が続けば、麦が収穫できるまで持ちこたえられるかどうか、まだ確信は持てなかった。
頼むから、降ってくれ。
そう願った直後だった。
ぽつり。
頬に冷たいものが落ちた。
続いて、もう一粒。
そして――。
ザアアアアアッ!
突然、大粒の雨が降り始めた。
「うおっ!?」
あっという間に視界が白く煙る。
乾ききった土に雨粒が叩きつけられ、畑の葉が大きく揺れた。雨はすぐに勢いを増し、屋根や地面を打つ音が町じゅうに響き渡る。
『雨です! 雨が降っています!』
トモロが空を見上げ、嬉しそうに声を上げた。
家畜の世話をしていた者たちも、雨に打たれながら空を見上げている。誰もが、待ち望んでいた雨だった。
「やった……!」
思わず声が漏れた。
だが、雨は弱まるどころか、さらに強くなっていく。
このまま降り続けば、畑にはありがたい。しかし、川の水位が急激に上昇する可能性もある。
「ナンシー、調整池と取水路の状況を確認してくれ!」
『承知しました。現在、調整池への雨水流入量が増加しています。川の水位にも変化が見られます』
「ダグラスに連絡だ。川の水位を確認して、必要なら取水口を閉じてもらおう」
『了解しました』
俺たちは、雨の中を調整池へと急いだ。
◇
調整池には、雨水が勢いよく流れ込んでいた。
乾ききっていた斜面を伝い、これまでほとんど水の流れなかった水路にも雨水が集まっている。
水位は少しずつ上がっていたが、洪水対策のために残しておいた空き容量は、まだ十分にある。
ガンドが池の周囲を確認し、デルブが土の崩れそうな場所を点検していた。ゴーレムたちも、あらかじめ決められた安全な場所で待機している。
「水路は大丈夫か!?」
『今のところは問題ない! じゃが、この雨が続くなら、斜面の状態を見張っておく必要があるのう!』
ガンドが声を張り上げた。
ダグラスも川の様子を確認しながら、取水口の水門を操作していた。
「川の水位が上がってきています。取水口は一度閉じます。濁った水や大量の土砂が入り込むのを防ぎましょう」
「ああ、頼む!」
水門がゆっくりと閉じられた。
すでに取水路は役目を果たし、調整池には一定量の水がたまっている。今度は、降ってきた雨を安全に受け止める番だった。
『ハーシス! お水がいっぱいです!』
ミズハが、雨水の流れを確かめながら嬉しそうに飛び回っていた。
『地面の中にも、少しずつお水が戻ってきています! これなら、ほかの泉も元気になってくれると思います!』
「そうか……。よかったな、本当に」
雨はまだ降り続いている。
雨粒に濡れた畑では、丸まっていた葉が少しずつ開き始めていた。
もちろん、枯れてしまった株が元に戻るわけではない。すでに傷んだ作物もある。
それでも、残った麦が実るために必要な水は、ようやく地面に戻ってきた。
俺は調整池を見渡した。
干ばつ対策のために水をためられる場所を整備しておいたことが、今度は大雨への備えになっている。
洪水対策用の容量を確保していなければ、これほどの雨を前に、別の心配を抱えることになっていただろう。
取水路も、調整池も、必要なときに役目を果たしてくれた。
◇
翌朝。
久しぶりに、町の空気が涼しく感じられた。
夜のあいだに降り続いた雨は、ようやく弱まっていた。
俺は朝早くから畑を見に行った。
水を得た土は、昨日までのように粉を吹いていない。葉には雨粒が残り、麦の穂が朝日に濡れて光っていた。
ノエが畑の中を歩き、株の様子を確かめていた。
『うむ……。これなら、残った麦も育ってくれるじゃろう。収穫量が平年どおりになるとは限らんが、全滅を心配するような状態は抜け出せそうじゃ』
「よかった……」
ようやく、胸のつかえが取れた気がした。
近くでは、農夫たちも畑を見回っていた。
「これだけ降ってくれれば、何とか収穫できそうだな」
「まったくだ。あと少し遅かったら、どうなっていたことか……」
安堵の声があちこちから聞こえてくる。
家畜の水場にも、十分な水が確保されていた。雨を避ける場所から出てきた山羊や羊が、水を飲み、餌を食べている。
『家畜たちも、元気になってきています!』
トモロが嬉しそうに尻尾を振った。
「そうだな。これなら、家畜を失わずに済みそうだ」
『はい! よかったです!』
トモロは、家畜たちの様子を確かめながら何度も頷いた。
雨は農地だけでなく、森にも恵みをもたらした。
リカオンからは、森の水場に水が戻り始め、動物たちの動きも少しずつ落ち着いてきたという報告があった。
そして調整池には、洪水対策に必要な空き容量を残したまま、干ばつを乗り切るための水が蓄えられていた。
川から水を引く取水路も、これで終わりではない。今後も必要なときに水を補給できるよう、点検と維持管理を続けなければならないだろう。
それでも、今回の工事が無駄にならなかったことは確かだった。
◇
その後も時折雨が降るようになり、畑の土には少しずつ本来の湿り気が戻っていった。
取水路は、雨が少ないときに水を補うための設備として維持され、水門や水路の点検も続けられた。
やがて、ライ麦とオーツ麦の収穫期がやってきた。
すべての株が元どおりになったわけではない。干ばつの影響で実りが悪くなった区画もあり、収穫量は平年を下回った。
それでも、畑の多くは枯れずに持ちこたえ、食料として使える麦を収穫することができた。
収穫作業が始まると、農夫たちは刈り取った麦を集め、脱穀と乾燥を進めていった。
俺も、作業の様子を見に農地へ向かった。
「ハーシス、こちらが今のところの集計です」
バルドが帳面を持ってやってきた。
「もう、まとまったのか?」
「はい。まだすべての区画の収穫が終わったわけではありませんが、おおよその見込みは立ちました」
バルドは帳面を開き、数字を確認しながら説明した。
「平年と比べると、収穫量は少なくなっています。ただ、枯れてしまった区画が想定より少なかったため、食用に回す分だけでなく、次の播種に使う種も確保できそうです」
「非常用の備蓄は?」
「それも、何とか確保できる見込みです。余剰分を交易に回せるほどではありませんが、少なくとも、次の収穫までの食料をすべて外から調達しなければならない状況は避けられそうです」
俺は、深く息を吐いた。
「そうか……。よかった」
もし取水路が間に合わなければ、枯れる麦はもっと多かっただろう。
あのまま干ばつが続いていたら、種を残すことさえ難しかったかもしれない。
「乾燥と保管については、フィンが管理しています。湿気や害虫による損失を抑えられるよう、倉庫ごとに保管場所を分けています」
バルドがそう付け加えた。
フィンも、荷車で運ばれてくる麦の流れを確認しながら、倉庫への搬入を指示していた。
「収穫したばかりの麦を、乾燥が終わっていないうちにまとめてしまうと、後で傷む原因になりますからね。乾燥の具合を確かめてから倉庫へ入れています」
「頼もしいな。せっかく収穫できたんだから、最後まで大事に扱ってくれ」
「もちろんです」
少し離れたところでは、ローズが帳面を手に、搬入された麦の量を記録していた。
「こちらの荷車はライ麦が二袋、オーツ麦が三袋ね。倉庫の記録と照合しておくわ」
ローズは運び込まれた袋の数と記録を確認し、ネズミによる被害がなかったかも調べていた。
ベルも倉庫の周囲を見回し、ネズミの痕跡を探している。
『ネズミなら、ベルに任せるにゃ! せっかくの麦を食べられたら困るにゃ!』
「頼んだわよ。ただし、捕まえた数も記録しておくからね」
『分かってるにゃ!』
ローズの返事に、ベルは張り切って頷いた。
俺は、その様子を見ながら笑った。
畑で育てるだけでは食料にならない。収穫し、乾燥させ、運び、保管する。それぞれの仕事がきちんと進んで、初めて次の季節までの食料を確保できるのだ。
今回は、収穫量が平年を下回った。
それでも、次の播種に使う種と、非常用の備蓄を残せそうだという。
それは、決して小さな成果ではなかった。
◇
夕方。
俺は、取水路の様子を確かめに調整池へ向かった。
雨上がりの地面はまだ湿り気を残し、池の水位も落ち着いていた。
ダグラスが水門を点検し、ガンドが水路の状態を確認している。コルは掘削用の道具を手に、補修が必要な場所がないか見回っていた。
『ここは問題ないぞ! もう少し掘れば、さらに水が流れやすくなるんじゃないか?』
「まずはガンドに確認してもらえ。勝手に掘るなよ?」
『分かってるって!』
ガンドがすぐに声を上げた。
『本当に分かっておるのか! 地面の高さを確認してからじゃ!』
ミズハは、池の水面近くを飛びながら、嬉しそうにこちらへやってきた。
『ハーシス、お水は落ち着いているよ。地下の流れも、前より元気になってきたみたい!』
「そうか。よかったな」
『うん! でも、また雨が少なくなったら、今度は早めに準備しようね』
「ああ。今回のことは教訓にしないとな」
俺は、雨上がりの調整池を眺めた。
今回、俺たちは水不足を解決するために取水路を造った。完成までのあいだ、少ない水をやりくりしながら、何とか麦と家畜を守ってきた。
そして、最後に降った大雨が、枯れかけた畑と乾ききった大地を救ってくれた。
川からの水がなければ、雨が降るまでに麦を守りきれなかったかもしれない。反対に、調整池の空き容量を残していなければ、今度は大雨への対応に追われていたはずだ。
どちらか一つではなく、両方が必要だった。
「……ひとまず、助かったな」
『うむ。皆、よく耐え抜いたのう』
ノエが、収穫を終えた畑を見つめながら頷いた。
『これなら、次の年の準備もできそうじゃ』
ミズハも嬉しそうに笑った。
『コルが頑張って掘ってくれたからね! わたしも、お水の通り道を見つけられてよかったよ!』
『へへっ! 俺が掘れば、あっという間だろ!』
コルは得意げに胸を張った。
その姿を見ながら、俺は思った。
干ばつを乗り切れたのは、取水路を造ったからだけではない。
水の流れを探ったミズハ、道を切り開いたコル、土を固めたデルブ、現場を監督したガンド、水門を設計したダグラス、石材で補強したミント。ほかにも、農夫や家畜の世話係、備蓄を管理した仲間たち、住民の健康を支えたセレナたちがいた。
そして、最後に降った恵みの雨もあった。
エマイン・マハの長く暑い夏は、ようやく終わりを迎えた。
川から水を引くために力を尽くした仲間たちと、最後に降った恵みの雨。
その両方があったからこそ、俺たちは大切な麦と家畜を失わずに済んだのだった。




