泉の妖精ミズハとの出会い
雑穀の収穫が始まってから、数日が過ぎた。
悪辣ジョーの襲撃を乗り越え、エマイン・マハには穏やかな日常が戻りつつある。農場では収穫作業が進み、町の人々にもようやく笑顔が増えていた。
しかし、空を見上げれば、今日も雲一つない。
朝から日差しが強く、昼になる前だというのに、地面から熱気が立ち上っている。雨らしい雨も、ここしばらく降っていなかった。
「……少し、様子を見てくるか」
俺は農場を離れ、町の外れへと向かった。
気になっていたのは、残っている作物だけではない。この暑さは、畑以外にも影響を及ぼし始めているようだった。
最初に見かけたのは、ノエだった。
畑の隅にしゃがみ込み、ノエは一本の苗に手を伸ばしていた。いつもなら元気よく葉を広げているはずの植物が、力なく垂れ下がっている。
ノエの表情は暗かった。
『……もう少し、お水があれば』
ノエがそっと葉に触れる。
緑の光がかすかに瞬いた。葉はわずかに持ち上がったものの、すぐに力を失ってしまう。
「ノエ、どうした?」
俺が声を掛けると、ノエはゆっくりと顔を上げた。
『ハーシス……。この子たち、苦しそうなの』
ノエの視線が、畑の向こうへ移る。
『わたしの力で元気にしてあげたい。でも、土の中のお水が少なくなっていて……』
「やっぱり、水不足か」
『うん。まだ全部が枯れたわけじゃないけど、このままだと……』
ノエは言葉を切り、もう一度苗を見つめた。
彼女が植物を大切にしていることは知っている。だからこそ、目の前で弱っていく苗をどうにもできないのがつらいのだろう。
「分かった。水源を調べてみるよ。何とかできる方法を考えよう」
『……うん。お願いね』
ノエは小さく頷いた。
その先では、リッカが風を起こしていた。
『えいっ! ……あれ?』
そよ風が畑を吹き抜ける。
だが、涼しさはなかった。風は熱を帯びた空気を運び、乾き始めた葉を揺らすだけだった。
『うぅ……。風を吹かせても、ちっとも涼しくならないにゃ』
「リッカも、暑さをどうにかしようとしていたのか?」
『そうにゃ! でも、風を吹かせても暑いままなの。これじゃ、葉っぱも土も乾いちゃうにゃ……』
リッカは悔しそうに唇を尖らせた。
風を起こす力があっても、空気そのものが熱ければ、涼しくするのは難しい。むしろ乾いた風が吹けば、植物から水分が奪われることもある。
『何かできると思ったのに……』
「十分だよ。異変に気づいて、何とかしようとしてくれたんだろ?」
『……うん』
リッカはまだ納得していない様子だったが、それ以上、無理に風を起こすことはしなかった。
畑を離れたところで、トモロの姿が見えた。
家畜小屋のそばに立ち、水桶を覗き込んでいる。いつもなら元気に動き回る家畜たちが、今日は日陰に集まって、あまり動こうとしない。
『……みんな、元気がないです』
トモロが心配そうに呟いた。
水桶の中を確かめると、残っている水は思ったより少なかった。
「水を飲む量も増えているのか?」
『はい。何度も飲みに来るんです。でも、飲み終わっても、みんな暑そうにしていて……』
「水桶を増やすだけじゃ、足りないかもしれないな」
『お水が足りなくなったら、どうすればいいですか?』
「まずは水源を調べる。家畜の飲み水は、できる限り確保しよう」
トモロは家畜たちへ目を向け、心配そうに頷いた。
農作物だけの問題ではない。
家畜にも水が必要だ。ここで水不足が深刻になれば、食糧だけでなく、町の暮らしそのものに影響が出てしまう。
さらに町へ戻る途中、リカオンからも気になる報告を受けた。
「森でも、いつもの水場に動物が集まらなくなってきている。狩りに出ても、獲物を見つけにくくなった」
「獲物まで減っているのか?」
「ああ。水場を変えたのか、それとも食べ物が減っているのか。まだ分からないが、少なくとも、以前と同じ場所で待っていても獲物が来ない」
森の中でも、何かが変わり始めている。
水が少なくなれば、水場を利用する動物の行動も変わる。草木が弱れば、それを食べる動物にも影響が出る。そして、獲物が減れば、それを追う側も困ることになる。
被害は、町の畑だけに収まっていないようだった。
診療所へ立ち寄ると、セレナがこちらを待っていた。
『ハーシス様。高温環境下での作業について、警告があります』
「警告?」
『日射病や脱水症状の危険性が高まっています。特に、日中に屋外作業を続けた場合、頭痛、めまい、意識障害などが起こるおそれがあります』
セレナは真剣な表情で続けた。
『水分補給と休憩を徹底してください。作業時間を朝夕に移し、日中は日陰で休ませることを推奨します。体調不良者が出た場合には、作業を中止させてください』
「分かった。工事を急ぐにしても、人が倒れたら意味がないからな」
『そのとおりです。水不足への対策と同時に、住民の健康を守る必要があります』
俺は頷いた。
畑の作物、家畜、森の野生動物、そして人間。
それぞれが違う形で、この暑さの影響を受け始めている。
早急に水源を調べる必要があった。
そこで俺は、農場から少し離れた場所にある古い泉へ向かうことにした。
以前から町の人々が利用している水源の一つだ。川から水を引けない農地にとっても、貴重な水の供給源になっている。
「……やっぱり、減っているな」
泉を覗き込むと、水面は以前よりずいぶん低くなっていた。
底の石が透けて見えるほど水位が下がり、泉から流れ出していた細い水路も、以前に比べて流れが弱くなっている。
「これじゃ、畑に回す水を増やすどころじゃないな」
俺はしゃがみ込み、水面に手を近づけた。
水はまだ冷たい。だが、周囲の地面は乾いているし、ここ数日はまとまった雨も降っていない。
そのときだった。
風もないのに、水面の中央に小さな波紋が広がった。
「……ん?」
波紋の向こうに、人影のようなものが見えた。
小さな女の子だろうか。水面に映っているだけにしては、輪郭が妙にはっきりしている。背中には透き通った羽のようなものがあり、水の揺らぎに合わせて淡い青色の光が瞬いていた。
「……陽炎か?」
いや、こんな水面に陽炎が映るはずもない。
俺が目を凝らすと、その小さな人影がゆっくりと顔を上げた。
『水が、苦しいの』
「……え?」
思わず声が漏れた。
次の瞬間、水面に映っていた人影が、泉のすぐそばへ浮かび上がった。
人間の子供ほどの大きさもない。透き通るような青い髪に、水滴を集めたような羽。身体の輪郭はどこか薄く、陽の光を受けるたびに淡い水色の輝きが揺れている。
妖精だ。
この世界に来てから何度も妖精たちと関わってきた俺には、それが分かった。
ただし、今まで出会ってきた妖精とは少し様子が違う。
彼女は泉から離れようとせず、水面を見つめたまま悲しそうに眉を寄せていた。
「君は……泉の妖精なのか?」
少女はこくりと頷いた。
『うん。わたしは、ここのお水を見ているの』
「水を見ている?」
『お水がどこから来て、どこへ流れていくのか。地面の下を通っている水のことも、少しだけ分かるの』
そう言って、彼女は泉の底を指差した。
『でも……最近、お水が少なくなってるの』
「やっぱり、雨が降らないからか?」
『それもあるの。お日さまがずっと強くて、地面の中のお水も減っているから……』
妖精は両手を水面に伸ばした。
泉の水がかすかに揺れ、彼女の指先に小さな水滴が集まる。
だが、それだけだった。
水滴はすぐに水面へ落ち、彼女の手元には何も残らない。
『わたし、お水を増やせるわけじゃないの』
妖精の声が、少しだけ小さくなった。
『お水の流れを感じたり、どこへ流れていくのかを探したりすることはできる。でも、お水そのものがなくなっちゃったら……わたしにも、どうすることもできないの』
「……なるほどな」
水を自在に生み出せるわけではないらしい。
それでも、水の流れや地下水脈の状態を感じ取れるのなら、大きな助けになる。人間が地面を掘り返して調べるより、ずっと早く異変を見つけられるかもしれない。
「この泉につながっている水の流れも、分かるのか?」
『うん。でも、いつもと違うの』
「どう違うんだ?」
妖精は泉の底を見つめた。
『前は、もっとたくさんのお水が流れてきていたの。でも今は、細くなってる。地面の下の水の道が、少しずつ弱くなってるみたい』
「水脈そのものが壊れたわけじゃないんだな?」
『うん。道がなくなったわけじゃないの。流れてくるお水が、少なくなっているの』
だとすれば、単に水路を掘り直せば解決する問題ではない。
水が足りないのなら、どこかにためておく必要がある。雨が降ったときに水を集め、必要なときに使えるようにする。
そこで、ふと思い出した。
以前、洪水対策として整備した調整池だ。
あそこは豪雨の際に水を受け止めるための施設だが、普段からある程度の水をためておけるように改修できれば、干ばつ対策にも活用できるかもしれない。
もちろん、洪水時に水を受け止めるための容量は残さなければならない。単純に池を満水にするわけにはいかないが、貯水と洪水対策を両立できれば大きな助けになるはずだ。
「君は、ほかの水源のことも分かるのか?」
『近くなら、少しだけ』
「そうか。それなら、もう少し詳しく教えてもらいたいんだ」
俺がそう言うと、妖精は驚いたように顔を上げた。
『……わたしの話、聞いてくれるの?』
「もちろんだ。俺たちも水が必要だし、君だって、この泉がなくなったら困るんだろう?」
妖精は小さく頷いた。
『うん……。ここは、わたしの泉だから』
その声には、悲しさと不安が混じっていた。
彼女にとって、この泉はただの水源ではないのだろう。
長い間、ここを見守ってきた。水が流れ、草木が育ち、小さな生き物たちが集まる。その当たり前の景色が、今まさに失われようとしている。
俺はもう一度、泉を見た。
「……なあ。これからも、この泉を守るために協力してくれないか?」
『えっ?』
「君の力があれば、水源の状態をもっと詳しく調べられる。俺たちは、その情報をもとに水をためる場所や水路を整備する。君だけに任せるつもりはないよ」
妖精は目を丸くした。
「もちろん、無理にとは言わない。けど、これからも一緒に力を貸してくれるなら、正式に契約を結びたいんだ」
『……契約?』
「ああ。俺たちが君を仲間として迎え、君には水源を調べる力を貸してもらう。お互いに協力するための約束だ」
彼女はしばらく俺の顔を見つめていた。
やがて、泉へと目を向ける。
『……わたし、この泉を守りたい』
「うん」
『お水がなくなって、みんなが来なくなっちゃうのは嫌なの。草も、お花も、小さな生き物たちも……みんな、このお水が好きだから』
小さな手が、胸元でぎゅっと握られた。
『わたしにできることがあるなら、やってみたい』
俺は頷いた。
「分かった。それじゃ、契約を結ぼう」
そう口にした瞬間、彼女の身体を淡い水色の光が包み込んだ。
泉の水面に光の輪が広がり、波紋が彼女の身体を囲むように幾重にも広がっていく。透き通った羽が鮮やかに輝き、小さな身体の輪郭が少しだけはっきりした。
俺の目の前に、見慣れた青白いウィンドウが浮かび上がる。
【新規妖精との契約を確認】
【種別:泉妖精】
【能力:水源感知・地下水脈探知】
【契約者:ハーシス】
【契約成立】
「おお……」
どうやら、無事に契約できたらしい。
妖精は自分の手を開いたり閉じたりしながら、不思議そうに身体を見つめていた。
『……なんだか、ハーシスのことが前より近くに感じるの』
「そうなのか?」
『うん。これなら、もっと遠くのお水のことも伝えられるかもしれない』
それはありがたい話だ。
もちろん、どこまでも探知できるわけではないだろう。それでも、今までより広い範囲の水源を調べられるのなら、契約した意味は十分にある。
俺は改めて、小さな妖精へ向き直った。
「そういえば、君の名前を聞いていなかったな」
『名前?』
「ああ。名前がないと呼びづらいだろう?」
妖精は少し困ったように首を傾げた。
『……名前、ないの』
「そうか」
俺は少し考えた。
透き通った青い髪。水滴のような羽。泉の水面に映った淡い光。そして、水を守りたいと願う小さな姿。
「それじゃあ、ミズハというのはどうだ?」
『ミズハ……?』
「ああ。君の名前だ」
妖精は、口の中で何度もその名前を繰り返した。
『ミズハ……ミズハ』
やがて、その顔にぱっと笑みが広がった。
『わたし、ミズハ!』
「そうだ。よろしくな、ミズハ」
『うん! よろしくね、ハーシス!』
ミズハが嬉しそうに笑うと、泉の水面に小さな波紋が広がった。
俺も自然と頬が緩んだ。
「さて、ミズハ。さっそくだけど、周辺の水源について教えてくれるか?」
『うん! でも、全部のお水が分かるわけじゃないよ?』
「構わない。分かる範囲から調べていこう」
ミズハは泉の向こうへ視線を向けた。
『あっちにも、水の流れがあるよ。今は少ないけど、雨が降れば、調整池の方へ流れていくお水もあると思う』
「本当か?」
『うん。でも、どのくらい流れるかは、もっと調べてみないと分からないの』
「それで十分だ。まずは、そこから確かめてみよう」
確実なことは、まだ何も分かっていない。
それでも、調整池に水を集めるための手掛かりは見つかった。
俺は立ち上がり、泉の周囲を見渡した。
以前、洪水対策で整備した調整池。そこへつながる水路。町の井戸や、農地へ水を引くための設備。
それらを改めて調べ、どこに水をため、どう配分すればいいか考えなければならない。
掘削を担当するコル、掘った土を固めるデルブ、現場を監督するガンド。彼らの力を借りれば、工事は大きく進むだろう。
ただし、土砂を運ぶのも、資材を準備するのも、人間の仕事だ。妖精たちの力だけで全てを終わらせられるわけではない。
それに、セレナの警告も忘れてはいけない。猛暑の中で作業を急ぎすぎれば、住民が倒れてしまう。
「まずは調整池を確認して、どこまで改修できるか調べよう。洪水のときに水を受け止める余裕も、きちんと残さないとな」
『わたしもお手伝いする! どこにお水が流れていくのか、探してみるね!』
「頼りにしているよ」
ミズハは嬉しそうに羽を震わせた。
この契約で、干ばつが解決するわけではない。
ノエの力でも、植物に必要な水がなければ限界がある。リッカが風を吹かせても、暑さそのものは消えない。トモロが家畜を気遣い、リカオンが森の異変を伝えてくれても、水が自然に増えるわけではない。
だからこそ、俺たちは考え、手を動かし、できることを積み重ねる必要がある。
ミズハのためにも、エマイン・マハで暮らす人々のためにも。
どうにかして、この水不足を乗り越えなければならない。
夏はまだ、始まったばかりだった。




