夏の実りと干ばつの兆候
悪辣ジョーの襲撃を乗り越え、エマイン・マハには、ようやく穏やかな日常が戻り始めていた。
襲撃への警戒はまだ続いているものの、住民たちは少しずつ普段の仕事に戻っている。町の整備も、農地での作業も、止まっていた時間を取り戻すかのように再び動き出していた。
そして今日、俺は農場へ足を運んでいた。
「おお、やってるな」
畑では、住民たちが鎌を手に雑穀の収穫を進めていた。
刈り取られた穂が次々と束ねられ、運搬役の人々が集積場所へ運んでいく。少し離れたところでは、脱穀の準備も始まっていた。
今回の雑穀は、ノエの促成栽培能力も借りて、播種からおよそ二か月で収穫までこぎ着けたものだ。
通常の栽培よりも早く実りを得られるのは、食糧事情がまだ安定していないエマイン・マハにとって大きな利点だった。
もっとも、生育期間を縮められても、畑ごとの土質や手入れの違いまでなくなるわけではない。穂の長さにはばらつきがあり、実の入り方も場所によって違っていた。
それでも、こうして収穫できるところまでこぎ着けたのは喜ばしい。
「ハーシス様!」
声を掛けてきたのは、収穫を指揮していた農夫だった。
「何とか、ここまでこぎ着けました。いや、本当によかった……」
「そうだな。せっかく育てた作物だ。最後まで気を抜かずに頼むよ」
「はい!」
農夫は笑顔で頷くと、仲間たちのもとへ戻っていった。
俺も畑の中へと目を向ける。
黄金色に実った穂が、次々と刈り取られていく。
悪辣ジョーの襲撃があったときには、これから先、町をどう守っていくべきかと頭を悩ませたものだ。それでも住民たちは立ち止まらず、こうして農作物を収穫できるところまでこぎ着けた。
そのとき、畑の向こうから聞き慣れた声が響いた。
「ごっはん、ごっはん! ごっはん、ごっはん!」
……何だ?
声のする方へ顔を向けると、ミントがぴょんぴょんと跳ねながら、収穫された穀物の山を眺めていた。
「ミント、何をやってるんだ?」
「ごはん! いっぱいごはんができたよ!」
ミントは満面の笑みで、積み上げられた穀物を指差す。
「これだけあったら、みんなでいっぱいごはんが食べられるね!」
「ああ。ちゃんと保管できれば、みんなの食糧になるな」
「ごっはん、ごっはん!」
どうやら、ミントの頭の中では、もう食卓に料理が並んでいるらしい。
まあ、収穫を喜んでくれるのはいいことだ。
……ただし、まだ脱穀も乾燥も終わっていないんだが。
そんなミントの様子を見て、俺は苦笑した。
ところが、そのすぐ近くでは、別の意味で収穫を喜んでいる妖精がいた。
『おおー! いっぱい実ったにゃ!』
ベルだ。
刈り取られた穂の山を眺め、目をきらきらと輝かせている。
「ああ。おかげで、何とか雑穀を収穫できそうだ」
『ということは……』
ベルの目が、さらに輝いた。
『ネズミも増えるにゃ!』
「……なんでそっちなんだよ」
『だって、穀物がいっぱいあるところにはネズミも集まるにゃ! ネズミが増えれば、ベルのごはんも増えるにゃ!』
「いや、ネズミが増えすぎたら、せっかく収穫した穀物を食われるんだぞ?」
『むむっ!』
ベルは腕を組み、真剣な顔になった。
『それは困るにゃ!』
「分かってくれたか」
『穀物を食べるネズミは、ベルが食べるにゃ!』
「……そういう問題なのか?」
『そういう問題にゃ!』
胸を張るベル。
そのやり取りを聞いていたローズが、呆れたようにため息をついた。
「ベル、ネズミを捕まえるのはいいけれど、何匹捕まえたかは記録しておいてね」
『えっ?』
「昨日と今日で何匹捕まえたのか、倉庫にどれくらい被害が出ているのか。それを記録しないと、対策がうまくいっているのか分からないでしょう?」
『むむむ……』
ベルが考え込んでいる間に、ローズは手元の帳面を開いた。
「それから、穀物の収穫量と保管量も確認しておくわ。せっかく収穫できたんだもの。湿気や害虫で駄目にしたくないしね」
「ローズ、もうそこまで考えていたのか」
「当然よ。収穫して終わりじゃないもの。食べるまで、きちんと管理しないと」
ローズはさらりと言って、帳面に目を落とした。
収穫量の記録に保管場所の確認、さらにネズミの捕獲数まで。
気がつけば、ベルの仕事の管理まで引き受けている。
『ローズはすごいにゃ!』
「褒めるなら、明日もちゃんと捕まえてきてね」
『任せるにゃ!』
ベルは元気よく答えた。
……いや、待て。
「ローズ。まさか、ベルの捕獲ノルマまで設定するつもりじゃないよな?」
「必要なら考えるけど?」
「いや、そこまではいいから!」
俺は慌てて止めた。
ベルが嬉々としてネズミを追い回し、ローズが帳面を片手に捕獲数を管理する。
そんな光景が日常になるのは、ちょっと勘弁してほしい。
その横では、ミントが相変わらず楽しそうに歌っていた。
「ごっはん、ごっはん!」
「ミントも、食べる前に収穫物の保管が必要だからな?」
「分かってるよ! でも、ごはんがいっぱいなのは嬉しいもん!」
まあ、それはそうだ。
俺は改めて畑を見渡した。
ひとまず、食糧の確保という点ではいい滑り出しだったと言えるだろう。
だが、まだ安心するには早い。
少し離れた畑には、春播きのライ麦やオーツ麦が育っている。こちらは雑穀よりも生育期間が長く、ノエの促成栽培能力を活用しても、収穫までにはさらに二、三か月ほどかかる見込みだった。
そのとき、近くで作業していた農夫が手を止め、水桶を覗き込んだ。
「……もう、これだけか」
桶の底には、わずかな水しか残っていない。
農夫は別の桶も確かめたが、そちらも似たようなものだった。
「悪いが、次の水汲みは少し早めに頼む。こっちが空になりそうだ」
「またか? 朝に満たしたばかりだろう」
「日が昇ってから、ずいぶん使ったからな。それに、土がすぐ乾くんだ」
そう言って、農夫はまだ青い麦畑へ歩いていった。
しゃがみ込み、株の根元を指で掘る。表面の土は白っぽく乾き、少し掘っても湿り気が感じられない。
「こっちもか……」
農夫は土を指先でこすり合わせ、眉をひそめた。
別の農夫もやってきて、隣の株の根元を確かめる。
「川に近い畑は、まだましなんだがな。こっちは水をやっても、次の日には乾いてしまう」
「水をやる量を増やせばいいって話でもない。ほかの畑にも回さなきゃならんからな」
二人は困った顔を見合わせた。
その様子を眺めていると、先ほどの農夫が額の汗を拭いながら近づいてきた。
「ハーシス様。ここのところ、朝露も少なくなってきましてね」
「朝露までか?」
「ええ。以前なら、朝のうちは草や葉が濡れていたんですが、最近はそれも少なくなりました。朝の水やりも、前より早く始めています」
農夫は、まだ青々としたライ麦とオーツ麦に目を向けた。
「このまま雨が降らなければ、あの麦が実るまで持つかどうか……。せめて、ひと雨欲しいところです」
「ああ……そうだな」
俺は頷いたものの、空を見上げるしかなかった。
朝から雲がほとんどない。
強い日差しが畑を照らし、日陰に入っても熱気がまとわりつくようだった。
農夫たちは、まだ大騒ぎしているわけではない。畑が枯れたわけでも、収穫が失敗したわけでもなかった。
それでも、水桶の減りを気にし、土を掘り、青い麦の根元を確かめている。
長年、畑と向き合ってきた人間が、いつもと違うと感じ始めているのだ。
……待てよ。
俺は、ふと嫌なことを思い出した。
この世界の元になったゲームには、季節ごとのイベントがいくつか用意されていた。
その中には、夏の猛暑と干ばつもあったはずだ。
気温が上がり続け、雨が降らなくなり、農作物の生育が悪化する。水源の少ない土地では住民の生活まで圧迫され、対策が遅れれば食糧不足に直結する。
たしか、そんな内容だった。
……まさか。
農夫たちの様子は、単なる暑さだけでは説明できない。
水の減りが早くなり、土は乾き、朝露まで少なくなっている。
しかも、これから収穫するライ麦とオーツ麦は、まだ二、三か月も育てなければならない。
悪辣ジョーの襲撃からの復旧が続くこの時期に、干ばつまで重なったら厄介どころではない。
「……原作ゲームの夏の猛暑&干ばつイベント、来ちゃったかぁ」
俺は、思わず空を仰いだ。
少しくらい平穏な時間をくれてもいいじゃないか。
……いや、ぼやいていても仕方がない。
まずは水の確保だ。
今ある水源で、どれだけの農地を潤せるのか。貯水できる場所はどこにあるのか。水路を延ばすなら、どこまで現実的なのか。
それに、収穫した雑穀も、食べる分と種として残す分を分けて考えなければならない。ここで食糧を使い切ってしまえば、次の播種にも響く。
ローズには備蓄量と消費量の見直しを頼もう。農夫たちには畑ごとの水の状況を調べてもらう必要がある。
ノエの促成栽培能力も、どこまで役に立つか確認しておきたい。
ただし、作物を早く育てられたとしても、水そのものを生み出せるわけではない。
そこを勘違いしたら、対策を誤ることになる。
俺は農夫たちに声を掛けた。
「少し聞きたいんだが、今使っている水源と水路、それから貯水できる場所を全部教えてくれないか?」
「水源と貯水場所ですか?」
「ああ。畑ごとに、どこから水を引いているのかも知りたい。水が足りなくなってからでは遅いからな」
農夫は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情で頷いた。
「分かりました。ほかの者にも聞いて、まとめておきます」
「頼むよ」
俺は、まだ青々とした麦畑へ目を向けた。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
だが、それにはまず、どれだけの水が残されているのかを知らなければならない。
悪辣ジョーを撃退し、町の復興も軌道に乗り始めたところだ。
少しくらい平穏な時間をくれてもいいじゃないか。
……いや、そんなことを言っていても仕方がない。
照りつける日差しは、今日も容赦なく畑を乾かしていた。
原作ゲームの夏の猛暑&干ばつイベント。
どうやら、本当に始まってしまったらしい。




