山の呼び声
翌朝。
東の空が白み始める頃には、探索隊はすでに出発の準備を終えていた。
朝露に濡れた荷車の上には、数日分の食料と飲み水を詰めた樽が整然と並び、その隙間を埋めるように丈夫な麻袋が何十枚も積み上げられている。
さらに、つるはしや石槌、削岩用の楔、滑車、杭、坑道を補強するための丸太や縄、予備の工具箱まで載せられ、荷台は今にも軋みを上げそうなほどだった。
ギシリ――。
荷重を受けた車輪が小さく鳴る。
その様子を眺めていたガンドは、石槌を肩へ担ぎながら満足そうに頷いた。
『よし』
『無駄はない』
『鉱山仕事は準備が九割じゃ』
『現場で足りんと気付いた時には、もう遅いからの』
「工具だけで荷車が一杯だな」
俺が苦笑すると、ガンドは鼻を鳴らした。
『当然じゃ』
『鉱山とは山を相手にする仕事』
『人間相手と違い、山は一切手加減してくれん』
『崩れれば生き埋め、足を滑らせれば谷底』
『備えだけは、どれほどあっても足りぬ』
言われてみればその通りだった。
武器より工具の方が圧倒的に多い。
剣や弓は護身用に過ぎず、荷車の大半を占めているのは山と戦うための道具ばかりだ。
戦争へ向かうというより、大規模な工事現場へ赴く職人の一団――そんな表現の方がよほどしっくりくる。
だが相手が山そのものなら、それこそが正解なのだろう。
自然を相手にする仕事では、力より準備、生き残るための知恵こそが何より重要なのだ。
その隣では、デルブが小さな革袋を胸に抱くように大切そうに持っていた。
袋の中では石同士が触れ合い、かちゃり、と澄んだ音を立てる。
「それは?」
『方位石じゃ』
『地脈の流れを読むための道具』
『山では方角だけでは足りん』
『地の流れを知らねば迷う』
革袋の口から覗く石は、赤、青、緑、黒と、それぞれ異なる色彩を帯びていた。
磨かれた宝石ではない。
形も大きさもばらばらで、一見すれば河原で拾った石ころにしか見えない。
だが、デルブがこれほど慎重に扱う以上、ただの鉱石ではないのだろう。
ゲームには存在しなかった道具だ。
どうやら鉱山妖精たちは、人間とはまったく異なる独自の技術体系を受け継いでいるらしい。
俺が知るゲーム知識だけでは、この世界を測れなくなってきている。
そんな変化を感じるたび、不思議な高揚感が胸の奥で静かに膨らんでいく。
ゲームのシナリオから外れた先にこそ、本当の世界が広がっている。
そんな気がしてならなかった。
そんなことを考えていると、朝から落ち着きなく歩き回っている奴が一人。
もちろんコルだ。
『早く行こうぜ!』
『鉄が俺を呼んでる!』
『こんな良さそうな山、何年ぶりだろうな!』
目を輝かせ、今にも山へ飛び込んでいきそうな勢いである。
本当に鉱山が好きなんだな……。
いや、好きという言葉では足りない。
山を掘り、鉱石を見つけ、岩盤の鼓動を感じることそのものが、彼にとって生きる意味なのだろう。
その横では、ミントも負けじと飛び跳ねていた。
「お山!」
「今日は近くまで行けるんだよね!」
「約束を忘れるなよ」
「うん!」
「ローズねぇから離れない!」
元気いっぱいに返事をすると、ローズは苦笑しながら乱れた帽子を被せ直す。
「本当に目を離せませんね」
「好奇心旺盛なのは悪いことじゃないさ」
俺は笑って答える。
「でも、今日だけは別だ。この先は俺たちも初めて入る山だからな」
「好奇心猫を殺す、なんて言葉もある」
未知の土地では、ほんの少しの油断が命取りになる。
街なら笑って済む失敗も、山では二度とやり直せない。
ミントもそれを理解したのか、小さく唇を結び、真剣な表情で頷いた。
「うん」
「ぼく、気を付ける」
その返事に俺も安心して頷く。
ガードナーは全員を見回し、短く指示を飛ばした。
「先頭は俺とシャーリス」
「その後ろにハーシスたち」
「護衛二人が最後尾だ」
「異論は?」
誰も反対しない。
経験豊富な狩人である彼の判断を疑う者はいなかった。
「よし、出発だ」
朝靄の残る街道へ、探索隊は静かに第一歩を踏み出した。
荷車の車輪がゆっくりと回り始め、木製の軋む音が朝の静寂へ溶けていく。
こうして探索隊は、新たな鉄鉱脈を求め、北西の山へ向けて歩き始めた。
◇
エマイン・マハを離れて一時間。
石畳だった街道は土道へ変わり、その土道も次第に細くなって、やがて獣道へ姿を変えた。
左右には鬱蒼とした森。
幹の太い古木が空を覆い隠し、朝日さえ細い光となって木漏れ日の帯を地面へ落としている。
湿った土と苔の匂い。
遠くで流れる沢のせせらぎ。
枝葉を揺らす風が森全体をざわりと鳴らし、時折、小動物が茂みを駆け抜ける音だけが耳に届く。
文明の音はもう何一つ聞こえない。
ここは完全に山の世界だった。
その時、先頭を歩いていたシャーリスが、不意に右手を上げる。
「止まって」
短い一言。
それだけで全員が足を止めた。
荷車を引く者も、護衛も、妖精たちでさえ息を潜める。
森が静まり返る。
シャーリスは腰を下ろし、地面を指差した。
「鹿だ」
そこには新しい蹄の跡が幾つも残されていた。
湿った土に深く刻まれた足跡は、つい先ほど通ったばかりだと教えている。
「かなりの群れですね」
ガードナーもしゃがみ込み、土へ指を触れる。
「逃げた様子はねえ」
「大型魔物はいないな」
経験豊富な狩人らしい判断だった。
その横では、デルブが黙ったまま土を指先ですり合わせている。
『ふむ』
『土が変わった』
「もう分かるのか?」
『うむ』
『粘土質が減ってきた』
『岩盤が浅い』
『山が近い証拠じゃ』
さらにガンドも木々を見回しながら頷いた。
『木の種類も変わっておる』
『広葉樹が減り、針葉樹が増えてきた』
『この辺りから山岳地帯じゃな』
人間が見ているのは森。
しかし妖精たちが見ているのは、その森を支える山そのものだった。
土。
岩。
樹木。
風。
地脈。
俺たちには何の変哲もない景色でも、彼らには地中深くの変化まで見えているらしい。
鉱山妖精という名は、決して伊達ではなかった。
◇
昼過ぎ。
探索隊は最初の尾根へ辿り着いた。
「うわぁ……」
ミントが思わず息を呑む。
眼下には切り立った深い谷。
谷底では白い飛沫を上げる川が銀色の糸のように流れ、その向こうには青く霞む山々が幾重にも連なっている。
果てしなく続く山並み。
その景色だけでも圧倒される。
そして、そのさらに奥。
ひときわ巨大な山が、王が玉座から臣下を見下ろすような威容で、大地へ君臨していた。
雲を従えるように頂をそびえ立たせるその姿は、山というより巨大な城塞だった。
デルブは、その山から目を離さなかった。
『……あれじゃ』
「え?」
『泣いておる山は』
『あの山じゃ』
静かな声だった。
しかし、その一言だけで場の空気が張り詰める。
まるで巨大な山そのものが、こちらを見返しているかのようだった。 その時だった。
ミントが、胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、小さく呟いた。
「……聞こえた」
風に紛れて消えてしまいそうなほど小さな声。
だが、その一言だけで俺たち全員の視線がミントへ集まる。
「また?」
俺が静かに尋ねると、ミントは巨大な山から目を離さないまま、こくりと頷いた。
「うん……」
さっきまで無邪気にはしゃいでいた笑顔はどこにもない。
小さな肩は僅かに震え、その瞳には戸惑いと不安が浮かんでいた。
まるで、自分だけに聞こえる誰かの声へ耳を澄ませているようだった。
「なんて聞こえた?」
ローズが優しく問い掛ける。
ミントは唇を噛み、小さく息を吸った。
「『早く』って……」
「『急いで』って言ってる」
その言葉が尾根に落ちた瞬間、空気が一段重くなった。
誰も冗談とは受け取らない。
ミントには以前から、人には聞こえない何かを感じ取る力がある。
それを知っているからこそ、全員の表情が引き締まった。
するとナンシーが即座に反応する。
『周辺環境を走査』
『異常反応なし』
『魔物反応なし』
淡々とした電子音が静かな山へ響く。
しかし次の瞬間、その声色が僅かに変化した。
『しかし――』
一拍。
わずかな沈黙を挟み、続ける。
『地下深部より高濃度魔力反応を検知』
「地下?」
思わず聞き返す。
『推定深度』
『約二百三十メートル』
その数字に、その場にいた全員が顔を見合わせた。
「そんな深さまで分かるのか?」
俺の問いに、ナンシーは即座に返答する。
『マザークリスタルとの共鳴を確認』
『通常探知範囲外』
『現在のみ特殊探知成功』
地下二百三十メートル。
普通なら絶対に探知できない深さだ。
だが都市中枢であるマザークリスタルとの共鳴によって、一時的に探査能力が飛躍的に向上しているらしい。
デルブが目を丸くしてナンシーを見つめた。
『そこまで分かるとは……』
『ならば間違いない』
『この山には何かある』
その声には驚きだけではない。
長い年月を山と共に生きてきた者だからこそ感じる、確信が滲んでいた。
ガンドも石槌の柄を握り直す。
節くれだった指へ自然と力が入る。
『普通の鉄山ではないの』
『山が何かを抱えておる』
『それも、かなり厄介なものを』
対照的に、コルだけは興奮を隠そうともしない。
『いいじゃねえか!』
『宝だ!』
『絶対に宝が眠ってる!』
『地下二百メートルなんて、鉱脈の匂いしかしねぇ!』
今にも駆け出しそうな勢いで拳を握るコルを見て、ガンドが呆れたようにため息をつく。
『若いのぉ……』
俺は巨大な山を見上げた。
ゲームの知識には存在しない山。
妖精たちも異変を感じ取っている。
ミントには誰かの声が聞こえ、ナンシーは地下二百三十メートルの魔力反応を探知した。
そして、何より。
デルブやガンドほどの山の民が、これほど警戒している。
どう考えても、ただの鉄鉱山ではない。
尾根には重苦しい沈黙が流れた。
吹き抜ける風だけが針葉樹の梢を揺らし、ざわ……ざわ……と波のような音を立てる。
その音さえ、巨大な山が何かを囁いているように思えた。
誰もが巨大な山を見つめたまま、無意識に息を潜めていた。
その沈黙を破ったのは、ガンドだった。
『……今日はここまでじゃな』
「え?」
思わず聞き返す。
ここまで来て引き返すのか。
そんな思いが顔に出ていたのだろう。
ガンドは静かに頷いた。
『急ぎたい気持ちは分かる』
『じゃが、山とは急ぐ者から喰われる』
そう言って石槌の柄で足元を軽く叩く。
『見ろ』
俺たちは視線を落とした。
一見すると乾いて見える地面。
しかし、よく観察すると細かな亀裂が無数に走り、小石がゆっくりと斜面を転がり落ちている。
耳を澄ませば、ぱき……と小さく土が割れる音まで聞こえた。
『地盤が緩んでおる』
『昨夜の雨が岩盤へ染み込んでおるのじゃ』
『こんな日に斜面を登れば、落石を招く』
デルブもしゃがみ込み、土をひとつまみ手に取った。
指先で軽く潰す。
さらさらと崩れる表面。
しかし中心部には、まだしっとりと湿り気が残っている。
『表面は乾いて見える』
『じゃが中はまだ水を含んでおる』
『こういう山ほど危ない』
『焦る理由にはならぬ』
『まずは山に受け入れてもらわねばな』
その言葉には、長年山で生きてきた者だけが持つ重みがあった。
コルが不満そうに頬を膨らませる。
『えぇーっ!』
『あと少しじゃねえか!』
『鉄はすぐそこだぞ!』
ガンドは呆れたように振り返る。
『だから若造は困る』
『鉱夫は鉄を掘る前に、自分の墓穴を掘るな』
『生きて帰ってこその鉱山仕事じゃ』
その一言には反論の余地がなかった。
コルも「うぐっ」と言葉を詰まらせ、悔しそうに口を閉じる。
俺は改めて巨大な山を見上げた。
確かに焦る必要はない。
山は逃げない。
今日掘らなくても、明日もそこにある。
だが俺の胸の奥では、あの声なき呼び掛けだけが今も消えずに響いていた。
――早く。
――急いで。
まるで誰かが、時間だけは残されていないと訴えているようだった。
「……今日は様子を見るだけにするか」
『賢明じゃ』
ガンドは満足そうに頷く。
『山は毎日顔を変える』
『朝と昼でも違う』
『晴れの日と雨の日では、まるで別人じゃ』
『まず相手を知ることじゃな』
「たしかに、山を舐めて死んだ人間は少なくないからな」
探索隊は尾根の少し開けた場所へ移動し、小休止を取ることになった。
荷車から水袋が降ろされ、干し肉と、すりつぶした雑穀を焼き固めた携帯食が配られる。
噛み応えのある固いパンは決して美味いとは言えない。
それでも山では貴重なエネルギー源だ。
俺はそれを齧りながら苦笑する。
「やっぱり製粉施設も早めに欲しいな」
「そんなに違うのか?」
「違うなんてもんじゃない。石臼は一日中回しても大した量にならない。今使ってるサドルカーンやロータリーカーンじゃ、人手ばかり食うからな」
「だから水車を作りたいのか」
「そういうことだ」
そんなことを考えていると、ミントだけはパンを頬張りながら、なおも山を見つめ続けていた。
「まだ聞こえる?」
ローズが優しく尋ねる。
「うん……」
ミントは小さく頷く。
そして今度は、さらに小さな声で呟いた。
「今度は……『助けて』って」
その瞬間。
全員の動きが止まった。
「助けて?」
「誰が?」
「分かんない……」
ミントは困ったように首を振る。
「男の人でも女の人でもないの」
「もっと……もっと大きい感じ」
「山みたいな……木みたいな……」
言葉を探しながら、小さな両手を胸の前で広げる。
「でも……とても苦しそう」
デルブとガンドが同時に顔を見合わせる。
二人とも、その表情から笑みは完全に消えていた。
『まさか……』
『いや、まだ決め付けるには早い』
ガンドは低く呟く。
『じゃが、もし儂の考え通りなら……』
その続きを語ろうとした瞬間だった。
ナンシーが甲高い電子音を響かせる。
『警告』
『広域走査開始』
『上空より高速接近反応』
「何?」
俺が空を見上げた、その時だった。
――キィィィィィィィッ!!
鋭く、空気を切り裂くような鳴き声が山々へ響き渡る。
全員が一斉に空を仰いだ。
雲一つない青空を、一つの巨大な影が悠然と横切っていく。
翼を広げれば十メートルは優に超える。
全身を黒褐色の羽毛で覆った巨大な猛禽。
その翼が一度羽ばたくたび、強い風圧が尾根を吹き抜け、草木を大きく揺らした。
「で、でかい……」
ガードナーが思わず息を呑む。
シャーリスも反射的に弓へ手を掛ける。
だが――。
『待て』
ガンドが鋭く制した。
『撃つな』
『あやつは狩りに来たのではない』
『見に来ただけじゃ』
巨大な鳥は黄金色の瞳で探索隊を静かに見下ろす。
その眼差しには敵意も殺意もない。
まるで品定めでもするように一人ひとりを見回すと、再び大きく翼を広げ、例の巨大な山へ向かって悠然と飛び去っていった。
やがて、その黒い影は山肌へ溶け込むように消えていく。
静寂が戻る。
風だけが尾根を吹き抜ける。
誰も口を開かなかった。
ガンドだけが険しい表情のまま、鳥が消えた空を見つめ続けていた。
そして、ぽつりと呟く。
『……間違いない』
『あの山は、まだ生きておる』
その言葉の意味を、この時の俺たちはまだ理解していなかった。
だが、あの巨大な山がただの鉱山ではないことだけは、誰もが確信していた。
あの山は、確かに俺たちを呼んでいた。
助けを求めるように。
長い長い眠りから目覚めようとする、一つの命として。




