世界樹を蝕む黒い結晶――俺は守護竜を救うことにした
翌朝。
リューネの隠れ家を出る準備が整った。
鹿の肉は一部を解体し、燻製にするための下処理をリューネに教えてもらった。
残りは村へ持ち帰るため、ガードナーが背負える大きさに分けてある。
「世界樹の根までは、どれくらいかかる?」
俺が尋ねると、リューネは森の奥を見つめた。
「普通なら、半日ほどだ」
「普通なら?」
シャーリスが聞き返す。
リューネは少しだけ間を置いた。
「今の森は正常ではない」
「……道が変わっている、と?」
「そうだ」
リューネは頷いた。
「木々が伸び、獣道が消え、魔力の流れまで乱れている。この森は生きているからな。弱っている時ほど、不安定になる」
「森そのものが変化しているのか……」
俺は森の奥を見つめた。
ゲーム時代の設定でも、この森には《迷いの森》という特殊エリアが存在していた。
ただし――本来なら、もっと後半だ。
プレイヤーが十分に装備を整え、精霊系スキルを持った仲間を連れて挑む場所。
序盤の村作りをしている時期に来るような場所じゃない。
それに。
今回の異変そのものが、俺の知るゲームには存在していなかった。
つまり。
この世界では、俺の知らない何かが起きている。
『ハーシス……』
ナンシーの声が響いた。
いつもの明るさがない。
『何か、嫌な感じがします』
「お前もか」
『森の中に、変なレイキの流れがあります』
ナンシーが言葉を選ぶように続ける。
『昨日の千眼と同じです。でも……もっと深いところから感じます』
「やっぱり、黒い結晶か」
『はい』
俺は剣の柄に手を添えた。
千眼を蝕んでいた黒い結晶。
あれと同じものが、森の奥にある。
もしそうなら――かなり厄介だ。
「行こう」
俺たちはリューネを先頭に、森のさらに奥へ進んだ。
◆
昨日まで歩いていた森とは、明らかに違っていた。
木々は異様なほど巨大になり、太い幹には亀裂が走っている。
まるで血管のような黒い筋まで浮かんでいた。
鳥の声がしない。
獣の気配もない。
風が吹いているはずなのに、森の中は妙に静かだった。
「……妙だな」
ガードナーが呟いた。
「獣の気配が、ほとんどない」
「逃げたのか?」
俺が尋ねる。
シャーリスが首を横に振った。
「違う」
「違う?」
「いる」
彼女は周囲を見回した。
「いるのに……出てこない」
狩人としての感覚なのだろう。
俺には分からない。
だが、シャーリスがそう言うなら間違いない。
この森には何かがいる。
ただ――。
何かに怯えて、息を潜めている。
そう思えた。
しばらく進んだところで、リューネが突然足を止めた。
「止まれ」
全員が動きを止める。
リューネが見つめる先。
木々の隙間に、何かがいた。
最初は岩かと思った。
だが、それはゆっくりと動いた。
巨大な鹿だった。
――いや。
鹿のような姿をした、何か。
全身から黒い霧が漏れている。
角は枯れ木のように黒ずみ、片目は赤く濁っていた。
「……汚染されている」
リューネが呟く。
「千眼だけじゃなかったのか」
ガードナーが弓を構えた。
しかし、リューネが手を上げる。
「待て」
「待つ?」
「まだ完全には堕ちていない」
その言葉通りだった。
黒い霧に包まれた鹿は、こちらを威嚇するように鳴いた。
だが。
その足は震えている。
苦しんでいるのだ。
「助けられるのか?」
俺が尋ねる。
リューネは答えなかった。
ただ、腰に下げた小さな笛を取り出す。
「……試す」
千眼の時にも使っていた笛だ。
静かな音色が森に響いた。
鹿が動きを止める。
赤く濁っていた瞳が――ほんの一瞬だけ、元の色を取り戻した。
「今だ!」
リューネが叫んだ。
俺は走った。
狙うのは鹿じゃない。
胸元。
そこに埋め込まれた黒い結晶。
千眼の中にあったものと、まったく同じだ。
俺は剣を抜いた。
普通に斬れば、鹿まで傷つけてしまう。
――これは戦闘じゃない。
救出だ。
「パッチワーク」
心の中で呼びかける。
視界が切り替わった。
――――――――――
【対象解析開始】
【対象:汚染された森鹿】
【異常:魔力核侵食】
【汚染源:黒色結晶体】
【除去難易度:低】
【推奨行動:結晶部位のみ破壊】
――――――――――
やはり。
俺は一歩踏み込む。
鹿が突進してきた。
巨大な角が迫る。
「左!」
リューネの声。
俺は反射的に身体を捻った。
角が頬を掠める。
そのまま懐へ入り込み――。
「そこだ!」
剣を振り抜いた。
――ガキンッ!
硬質な音が響く。
黒い結晶に亀裂が走った。
次の瞬間。
鹿の身体から、黒い霧が一気に噴き出した。
「っ!」
俺は飛び退く。
森全体が揺れるような低い唸り声。
だが――。
数秒後。
鹿はゆっくりと膝をついた。
赤く濁っていた目が、穏やかな瞳へ戻っていく。
「……助かったのか?」
ガードナーが呟く。
リューネは鹿へ近づき、そっと手を触れた。
「……戻った」
その声には、はっきりと安堵が滲んでいた。
「まだ間に合う」
その言葉に、俺は森の奥を見る。
千眼も。
この鹿も。
同じ黒い結晶に蝕まれていた。
なら――。
森の奥には、もっと多くのものがいる。
そして。
もっと大きな何かが。
その時だった。
ズン……。
地面が揺れた。
「……なんだ?」
次の瞬間。
もう一度。
ズン……。
まるで巨大な何かが、地中で鼓動を打ったようだった。
ナンシーが震える。
『ハーシス……』
「分かってる」
俺も感じていた。
あの黒い結晶。
これは、ただの汚染じゃない。
誰かが意図的にばら撒いている。
そして、その中心にあるのが――。
世界樹の根。
リューネが森の奥を睨んだ。
「急ぐぞ」
「何かあるのか?」
「……ある」
リューネの表情が険しくなる。
「本来、世界樹は自らを守るため、古き契約を結んでいる」
「その契約者が……ユグドラなのか?」
リューネは答えなかった。
ただ、森の奥を見つめている。
「あれが怒っているのなら、まだいい」
「……いい?」
「怒るということは、生きているということだから」
リューネは静かに言った。
「だが――今、その気配がない」
背筋に嫌なものが走った。
ゲームの知識が告げている。
この先には、本来なら――。
森を守る精霊獣がいる。
その名は。
――緑守竜ユグドラ。
序盤で遭遇するはずのない、高位存在。
俺たちは知らないうちに。
本来のシナリオから、大きく外れた場所へ踏み込んでいた。
「行くぞ」
俺は剣を握り直した。
世界樹の根。
その奥で何が待っているのか。
確かめるしかない。
◆
森の奥へ進むほど、空気が重くなっていった。
まるで森そのものが、息を止めているようだった。
さっきの汚染された鹿。
あれほどの異常が起きていたのに、周囲の木々は何も反応しなかった。
普通なら。
森に生きる存在が危機を察知するはずだ。
だが――。
何もない。
静かすぎる。
「……おかしい」
シャーリスが呟いた。
「何が?」
ガードナーが尋ねる。
「森が死んでいる」
その言葉に、俺は足を止めた。
「死んでいる?」
「違うな」
リューネが首を振った。
「死んでいるのではない」
彼女は巨大な木の幹へ手を触れる。
「眠らされている」
背筋に寒気が走った。
「眠らされているって……誰に?」
リューネは答えなかった。
代わりに、木の表面をじっと見る。
そこには細かな黒い筋が走っていた。
血管のように。
根から幹へ。
幹から枝へ。
そして――森全体へ。
『……感染している』
ナンシーが小さく呟いた。
『ハーシス。これ……』
「分かってる」
自然発生した汚染じゃない。
何者かが世界樹の力を吸い上げるため、意図的に仕掛けたように見える。
「急ぐぞ」
俺は歩みを速めた。
すると。
「止まれ」
リューネが手を上げる。
全員が身構えた。
「何がいる?」
ガードナーが小声で尋ねる。
リューネは答えない。
ただ、耳を澄ませている。
「……声がする」
「声?」
俺も集中した。
風の音。
木々のざわめき。
その奥。
確かに何かが聞こえた。
『……たす……け……』
俺は目を見開いた。
「今、聞こえたか?」
ガードナーを見る。
「何が?」
「声だ」
シャーリスも首を振る。
「私には聞こえない」
リューネだけが、苦しそうな表情を浮かべていた。
「聞こえる者と、聞こえない者がいる」
「どういうことだ?」
「森との繋がりだ」
リューネは拳を握った。
「世界樹が、助けを求めている」
その言葉に――。
ナンシーが震えた。
『ハーシス……近いです』
「何が?」
『あの黒い結晶を作っているもの』
次の瞬間。
森の奥から――。
――ドクン。
巨大な鼓動のような音が響いた。
地面が揺れる。
木々が軋む。
そして。
前方の霧が、ゆっくりと晴れていった。
そこにあったのは――。
巨大な根。
山のように広がる、世界樹の根だった。
だが。
本来なら白銀にも似た輝きを放っているはずの根は――。
黒く染まっていた。
無数の亀裂から、黒い液体のような魔力が流れ落ちている。
「……そんな」
リューネが呟いた。
初めて見る。
彼女の怯えた顔。
「リューネ?」
「ありえない……」
声が震えている。
「世界樹の根が……」
その時。
根の奥で――。
巨大な影が動いた。
地面を揺らしながら、ゆっくりとこちらを見る。
巨大な角。
緑色の鱗。
そして――。
片目だけが、黒く染まっていた。
『……侵入者』
空気そのものを震わせる声。
竜の声だった。
『なぜ……我が眠りを妨げる』
リューネが膝をつく。
「ユグドラ……」
俺には分かった。
これは違う。
ゲームで見た姿とは、あまりにも違う。
守護者じゃない。
苦しんでいる。
『我は……世界樹を守らねばならぬ』
黒い霧が周囲へ広がっていく。
『だが……もう……』
巨大な竜の瞳から――。
一滴の黒い涙が落ちた。
『我自身が……世界樹を蝕んでいる』
ナンシーが叫ぶ。
『ハーシス!』
俺は剣を抜いた。
だが。
ユグドラは敵意を向けていない。
ただ、苦しんでいる。
千眼も。
森鹿も。
そして、この竜も。
全部同じだ。
黒い結晶によって、蝕まれている。
なら――。
やることは一つ。
「助ける」
俺が呟く。
ガードナーが驚いた顔をした。
「戦わないのか?」
「必要なら戦う」
俺は竜を見る。
「でも、こいつは敵じゃない」
リューネが目を見開いた。
「ハーシス……」
「俺たちは森を壊しに来たんじゃない」
剣を構える。
「助けに来たんだ」
その瞬間。
ユグドラが咆哮した。
森全体が震える。
巨大な爪が振り下ろされた。
俺は走った。
――――――――――
【高位存在を確認】
【対象解析開始】
【警告】
【通常戦闘では勝利不能】
【推奨行動】
【汚染核の除去】
【解析難易度:極高】
――――――――――
やはり。
狙うべき場所は胸元。
そこに埋め込まれた黒い結晶だ。
だが――。
あまりにも大きい。
鹿や千眼とは、まるで規模が違う。
「これを……俺に壊せっていうのか?」
思わず呟いた、その時だった。
システムウィンドウが、今まで見たことのない黄金色へ変化する。
――――――――――
【特殊イベント発生】
《世界樹救済》
【目的】
緑守竜ユグドラから汚染核を除去せよ。
【失敗条件】
対象の死亡。
【世界樹損傷率】
12%
【守護竜汚染率】
73%
【パッチワーク介入権限】
一時解放
――――――――――
そして。
最後に表示された文字を見て、俺は息を呑んだ。
【未知の救済イベント】
――――――――――
知らない。
こんなイベント、ゲームには存在しなかった。
なら。
この先は、誰も攻略方法を知らない。
俺自身が、答えを見つけるしかない。
「……また、知らない展開かよ」
ユグドラが咆哮する。
巨大な爪が迫る。
俺は剣を握り直した。
「だったら――」
一歩、踏み込む。
「攻略方法も、俺が作る!」
その瞬間。
苦悶に歪んでいたユグドラの瞳が――。
一瞬だけ、穏やかな緑色を取り戻した。
そして。
森全体を揺るがす咆哮が、再び響き渡った。




