森の主を退けた俺たちを、エルフは静かに見ていた
そして、一夜が明けた。
朝食を済ませると、俺はアトラに声をかけた。
「昨日、ローズの様子を見ていてくれたんだよな。
どうだった?」
「うん。
一生懸命働いてたよ。
畑に生えてきた雑草をずっと抜いてた」
「土が良くなった分、雑草まで元気になったか」
苦笑すると、アトラも小さく笑う。
「それに、ローズさんはあんまり力がないみたい」
「見れば分かるさ。
あの細い身体で鍬を振るうんだ。
大変だろうな」
「変な様子はなかったよ。
真面目に働いてた」
「ミントは?」
「ずっと砂で何かを作っては壊して遊んでた」
「あの怪力だからな。
下手に畑を手伝わせたら、畝まで壊しかねない」
俺が肩をすくめると、アトラはくすりと笑った。
「だからかな。
ノエもローズさんも、優しく笑って見守ってるだけだったよ」
どうやら二人とも、この村で問題を起こすつもりはないらしい。
少なくとも今は、それで十分だ。
◇
待ち合わせ場所へ向かうと、ガードナーとシャーリスはすでに準備を終えていた。
「おはよう。
待たせたか?」
「おう。
シャーリスなんて夜明け前から待ってたぞ」
ガードナーが笑う。
当のシャーリスは何も言わず、じっと俺を見つめていた。
昨日、「寝坊するな」と言われた手前、自分が遅れるわけにはいかなかったのだろう。
「悪かった。
それじゃ、行こう」
三人は東の沢へ続く獣道を歩き始めた。
朝の森は、まだ薄暗い。
冷えた空気が肌を撫で、小鳥のさえずりだけが静かな森に響いている。
「そういや、さっきアトラと話してたんだが」
俺が切り出すと、ガードナーが先回りした。
「ローズとミントのことか?」
「ああ。
二人とも、この村でやっていこうと頑張ってるみたいだ」
「そりゃ結構なこった」
ガードナーは足元の枝を蹴り除けながら続ける。
「どう見ても訳ありだからな。
向こうが話す気になるまでは、根掘り葉掘り聞かねぇ方がいい」
「住んでいた場所は、もうないって言ってたしな」
「だとしても、いい思い出が残ってる場所じゃなさそうだ」
ぽつりと呟いたのはシャーリスだった。
「……でも、怪力の子ども」
「気になるか?」
「力があるだけならいい。
でも……力に振り回されるなら危ない」
その言葉には思わず苦笑する。
俺自身、ミントに抱きつかれて気絶させられたばかりだ。
「まあ、それは身をもって知ってる。
でも周りにちゃんと見てる大人がいれば、大丈夫だろ」
「ローズが見てりゃ、そうそう大事にはならねぇさ」
ガードナーも軽く笑った。
そんな話をしながら歩いていると、不意に足が止まった。
泥の上に、無数の足跡が刻まれている。
鹿。
猪。
それだけではない。
深く地面をえぐる、大きな蹄。
さらに、鋭い鉤爪が土を引き裂いたような跡まで残っていた。
「……これは」
俺がしゃがみ込むより早く、シャーリスが膝をついた。
足跡の縁を指先でなぞる。
「新しい。
昨夜……か、明け方」
ガードナーも周囲を見回した。
「鹿に猪、それから熊だな」
そして眉をひそめる。
「全部、西へ逃げてやがる」
森の獣たちが、一斉に同じ方向へ。
まるで――何かから逃げているように。
「熊まで逃げるのか……」
俺は東の沢へ視線を向けた。
「みんな東を避けてる。今日は、その理由を突き止める」
シャーリスが静かに立ち上がり、腰のナイフへ手を添えた。
「……来るなら、来ればいい」
恐れよりも、覚悟の滲んだ声だった。
俺も背中の剣へ手をやる。
三人は足音を殺し、森の奥へ進んでいった。
その時だった。
――ゴォォォン……。
森の奥底から、腹の底まで震わせる低い音が響いた。
獣の遠吠えではない。
地鳴りとも違う。
まるで、巨大な何かがゆっくりと息を吐いたような音。
三人の足が同時に止まった。
「……聞いたか」
「ああ」
ガードナーが笑みを消し、弓へ手を伸ばす。
シャーリスも無言でナイフを抜いた。
いつの間にか、小鳥の声は消えていた。
森が、異様な静寂に包まれている。
「行くぞ」
俺たちは音のした方向へ進んだ。
沢へ近づくほど、霧が濃くなる。
五歩先も見えない。
「……待て」
シャーリスが片手を上げた。
地面に膝をつき、何かを拾い上げる。
親指ほどの大きさをした、深い青緑色の鱗。
「鱗か……」
ガードナーが険しい顔になる。
「こんな色の生き物、この森にはいねぇ」
周囲を見回す。
同じ鱗が、いくつも落ちていた。
「この鱗の主が、あの音の正体か……」
問いかけた、その瞬間。
――ゴォォォン……。
再び低い音が響いた。
今度は、近い。
「来るぞ」
ガードナーが矢を番える。
俺も剣を抜いた。
そのまま霧の中を進む。
やがて、沢へ辿り着いた。
そこで俺たちは、言葉を失った。
水辺に、一頭の鹿が倒れている。
食い荒らされた形跡はない。
だが、その全身は炭のように黒く焼け焦げ、周囲の草木まで一直線に焼き払われていた。
「獣の仕業じゃねぇ……」
ガードナーの声が震える。
シャーリスは焼け跡を見つめ、小さく呟いた。
「……逃げ切れなかった」
その瞬間。
――ゴォォォン……。
霧の奥で、巨大な影が揺らいだ。
霧ではない。
何かが、こちらへ近づいている。
木々を見下ろすほど巨大な影が、ゆっくりと姿を現した。
最初に目を奪われたのは、天を突くほど巨大な角。
幾重にも枝分かれした角が、霧の向こうへ伸びている。
続いて見えたのは、岩盤を貼り合わせたような青緑色の鱗。
長大な胴を覆うその鱗の隙間から――。
無数の目が、こちらを見ていた。
腹。
肩。
背。
尾。
まるで全身に目を埋め込んだようだった。
しかも、その目は一つとして同じ動きをしていない。
ある目は俺を見ている。
別の目はガードナーを。
また別の目はシャーリスを。
そして尾の付け根にある目だけが、ゆっくりと俺を追っていた。
「グルルルルル……」
低い唸り声だけで空気が震える。
「……なんだ、こいつ」
千眼が一歩踏み出した。
地面が沈み、沢の水面が大きく跳ねる。
その巨体を見上げながら、俺は呟いた。
「……伝承に残る森の主、《千眼》」
ガードナーが息を呑む。
「おいおい……伝説じゃなかったのかよ」
「動いてる以上、現実だ」
俺は剣を構えた。
隣ではシャーリスが前へ出る。
ナイフを逆手に持ち替え、腰を落とした。
千眼の無数の目が蠢く。
次の瞬間。
巨木のような尾が、唸りを上げて薙ぎ払われた。
「散れ!」
三人が同時に飛ぶ。
だが――。
「ぐっ!」
ガードナーだけが避け切れなかった。
尾の先端をまともに受け、身体が木の葉のように吹き飛ぶ。
何本もの木を折りながら地面を転がった。
「ガードナー!」
「げほっ……心配すんな!」
木にもたれながら立ち上がる。
「まだ動ける!」
その瞬間。
「右!」
シャーリスの鋭い声。
振り向いた俺の目前へ、巨大な鉤爪が迫っていた。
「っ!」
身体を投げ出す。
鉤爪が頭上を掠め、背後の大木を数本まとめて切り裂いた。
轟音とともに木々が倒れる。
あれを受けていたら――死んでいた。
俺の左手が胸元へ伸びる。
《パッチワーク》。
起動印を描こうとして――止めた。
……まだだ。
《パッチワーク》も妖精憑依も、最後まで隠しておくべき切り札だ。
強敵が現れるたびに頼っていては、自分自身の戦い方を失う。
それに、この化け物はまだ力の全てを見せていない。
まずは見極める。
その直後だった。
千眼が大きく息を吸い込んだ。
胸の奥にある赤い器官が脈打つ。
赤い光が、鼓動に合わせて明滅した。
空気が揺らぐ。
熱い。
肌を撫でる風が、一瞬で灼熱へ変わった。
「伏せろ!」
三人が地面へ飛び込む。
次の瞬間――。
赤い閃光が走った。
轟音すら置き去りにする熱線が、さっきまで俺たちの頭があった場所を薙ぎ払う。
直径三十センチはある大木が、一瞬で炭化した。
地面が赤熱し、落ち葉が燃え上がる。
「熱線かよ……!」
あれに触れれば、人間なんて跡形も残らない。
だが、熱線を放った直後。
胸の赤い器官が、鈍く暗くなった。
「今だ!」
俺は一気に踏み込む。
「次を撃つまで間がある!」
剣を振り下ろす。
――ガキィン!
甲高い金属音。
刃は鱗に弾かれ、火花を散らした。
「硬ぇ……!」
だが、その衝撃で一枚の鱗がめくれた。
下から、赤く柔らかな肉が覗く。
「そこだ!」
ガードナーの矢が飛ぶ。
無数にある目の一つを正確に射抜いた。
「グオオオオンッ!!」
千眼が苦悶の声を上げる。
「効いてる!」
俺は横へ回り込み、シャーリスも反対側へ走る。
だが、千眼の爪が唸った。
シャーリスは紙一重でかわす。
それでも一撃が左腕を掠めた。
鮮血が飛び散る。
それでも止まらない。
狙いは脚。
巨体を支える関節だ。
その時だった。
「ゴォォォン……」
千眼が再び息を吸う。
胸の赤い器官が明るく脈打ち始めた。
熱線が来る。
そう思った瞬間――。
――ピィィ……ホゥ……。
澄み切った笛の音が森へ響いた。
千眼が、ぴたりと止まった。
怒りに任せて暴れる獣ではない。
まるで、主人の命令を待つように。
「……笛?」
俺は息を呑んだ。
この音。
どこかで聞いたことがある。
いや――知っている。
前世で俺が作ったゲーム。
そこに登録されていた、魔獣使い用の指揮笛。
音色まで、酷似している。
「隙ができた!」
シャーリスの声で我に返る。
迷う暇はない。
俺は一気に駆けた。
「左脚、崩せる!」
シャーリスが滑り込み、脚の関節へナイフを突き立てる。
刃が腱を断ち切った。
巨体が大きく揺らぐ。
「目を開けさせねぇ!」
ガードナーの矢が連続して飛ぶ。
一射。
二射。
三射。
開こうとした目を次々と射抜いていく。
千眼の動きが鈍った。
「もらった!」
俺は跳んだ。
鱗の隙間へ剣を突き込む。
狙い違わず、赤く脈打つ器官を貫いた。
「グォオオオオオオッ!!」
森を揺るがす絶叫。
胸から白い蒸気が噴き出す。
千眼は胸を庇うように身を縮め、一歩、また一歩と後退した。
もう熱線は撃てない。
そう確信した、その時。
――ピィィ……ホゥ……。
再び笛が鳴った。
千眼はなおも俺たちへ牙を剥く。
だが、二度目の音色が響いた瞬間。
身体を震わせ――踵を返した。
命令には逆らえないらしい。
巨体は木々を揺らしながら、森の奥へ消えていった。
「……退いた?」
シャーリスが呟く。
だが、誰も追わなかった。
追えない。
俺たちは三人とも、肩で荒く息をしていた。
「はぁ……はぁ……流石にきつかったぜ……」
ガードナーがその場に膝をつく。
シャーリスの左腕からは血が流れている。
俺の剣も熱で赤く焼け、刃先から白い湯気を立ち上らせていた。
「……終わった、か」
そう呟いた時だった。
シャーリスが足元へ視線を落とした。
「……これ」
拾い上げたのは、一枚の青緑色の鱗。
いや。
周囲には、同じ鱗が何枚も散らばっていた。
「脱皮……?」
ガードナーが鱗を拾い上げる。
「だから鱗の継ぎ目が脆かったのか」
「そういうことだろうな」
もし脱皮直後でなければ。
俺たちの攻撃は、まともに通らなかったかもしれない。
「それより、あの笛だ」
俺が周囲を見回した。
その時。
シャーリスが、一本の樫の木を指差した。
「……あそこ」
枝が揺れる。
風はない。
それなのに。
木漏れ日の中で、銀色の髪がきらりと光った。
深く被ったフード。
手には一本の木笛。
そして――。
金色の瞳。
それだけが、静かに俺たちを見下ろしていた。
「尖った耳……」
シャーリスが息を呑む。
「まさか……エルフ?」
次の瞬間。
ガードナーが反射的に矢を放った。
「待て!」
制止は間に合わない。
矢は樫の幹へ突き刺さった。
だが――。
もう、そこに人影はなかった。
風もないのに枝だけが揺れている。
そして、一枚の葉がひらりと舞い落ちた。
「……消えた」
足元にも、枝にも、足跡一つ残されていない。
俺は木々の奥を見つめた。
あのエルフは、千眼を知っている。
いや。
知っているどころか――操っている。
そして、俺たちを助けたわけでもない。
逃がしたわけでもない。
ただ、見ていた。
値踏みするように。
あの金色の瞳には、敵意も歓迎もなかった。
そこにあったのは――。
俺たちの力を測るような、静かな視線だけだった。
そして俺には、妙な確信があった。
――近いうちに、俺たちはまた、あのエルフと会う。
そんな気がしてならなかった。




