第3話 非凡
ジャスパーに連れられ、律はアメリカに来て初めてまともに街並みを見た。
サーカスにいた頃は団員から、
“お前みたいなアジアのインプが街を歩けば人攫いに遭って終わりだ”
と散々脅されていたため、自分から街へ出ようと思ったことはない。
だから目の前に広がる光景は、律にとってまるで絵本の中の世界だった。
煉瓦造りの建物が並び、ショーウィンドウには色鮮やかな商品が飾られている。
道端では新聞売りの少年が声を張り上げ、馬車と自動車が混ざり合うように行き交っていた。
パン屋からは焼き立ての香りが漂い、どこか遠くでは楽しげな音楽まで聞こえてくる。
サーカスの檻のような生活しか知らなかった律にとって、その全てが新鮮だった。
まるで世界が急に色を持ったみたいだ。
きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回す律に対し、隣を歩くジャスパーは楽しそうに口元を緩めた。
「ニューヨークは初めてかな? お嬢さん」
「はい! 私あんまりサーカスの外に出たことなくて……とても魅力的な街ですね」
思わず声が弾む。
律は照れ隠しするように後頭部を掻いた。
するとジャスパーは大袈裟に目を丸くした。
「なんと! 可哀想なMyピエロ。それではこの私が直々にニューヨークの街を紹介してあげよう。だがその前に、まずは洋服を揃えなければ」
「……ありがとうございます!」
まさか殺人鬼から観光案内を申し出られる日が来るとは思わなかった。
律は胸の前で両手を組み、小さく跳ねる。
その様子を見た店先の婦人が微笑ましそうにこちらを見ていたが、その少女が殺人鬼の連れであることを知ったら卒倒するだろう。
そして数分後。
律は自分が置かれている状況を理解できずにいた。
一言で表すなら。
ジャスパーの着せ替え人形である。
店へ入った途端、ジャスパーは顔見知りらしい店員と親しげに挨拶を交わし、次から次へと洋服を持ってきては試着室へ押し込んだ。
「次はこれだ」
「ほらほら、早く着替えたまえ」
「こっちも見てみようじゃないか」
その勢いは止まることを知らない。
しかし問題があった。
ジャスパーが選ぶ服はどれもこれも、ピンク色や花柄の可愛らしいワンピースばかりなのだ。
フリル。
リボン。
レース。
花。
また花。
律は鏡の前で途方に暮れた。
正直に言って、趣味ではない。
何着目かわからないレースだらけのワンピースを着せられた後、律はとうとう我慢できなくなった。
試着室から出ると、ジャスパーは片眉を上げ、顎に手を当てながら彼女を品定めしている。
まるで新しい家具でも選んでいるかのようだ。
「あの、ジャスパー」
「なんだい?」
「えっと、申し訳ないんですが」
「いやいや、お金のことは気にしなくていいさ。私は君の主人だからね」
「そうじゃなくて」
「ん?」
「趣味じゃないです。これ」
律はワンピースの裾を摘まみながら言った。
するとジャスパーは本気で固まった。
店員まで「あらまぁ」という顔をしている。
むしろ律としては、フリルだらけの服を大量に持ってくるジャスパーの感性の方に驚いていた。
彼は首を傾げる。
「君くらいの年頃の子どもはこういうのが好きだろう?」
その瞬間。
律の目尻がぴくりと動く。
子ども。
その言葉は地雷だった。
サーカスでも散々言われた。
ジャスパーと出会った時も勘違いされた。
しかし律はもう20歳だ。
10歳の頃から働き続け、人生の半分をサーカスで過ごしてきた。
子ども扱いされる筋合いはない。
「あの、ジャスパー。私、子どもじゃないです」
「ははっ。君くらいの年の子は大人ぶるのが好きだと聞くよ」
ジャスパーは両手を上げ、わざとらしく降参のポーズを取った。
「ジャスパー、真面目に聞いてください。私いま20歳です」
「なんだって?」
「だから、20歳です」
彼の笑顔は崩れない。
しかし目だけが完全に固まっていた。
その顔が妙に面白くて、律は少しだけ気分が晴れる。
近くにいた店員でさえ両手で口元を覆っている。
ジャスパーは乾いた笑いを漏らした。
「いやいや、どう見ても12…13歳だろう?」
「嘘じゃないです。サーカスには10歳の頃から10年いました」
今度こそジャスパーは本気で驚いた。
口まで半開きになっている。
数秒間完全に停止した後、彼はようやく頷いた。
「なるほど。アジア人は顔つきが幼いということを失念していたよ」
「信じてくれたようで何よりです」
「あぁ。それじゃあレディに合った服を選ばないとね」
ジャスパーが店員へ手を振ると、店員は慌てて奥へ走っていった。
彼はハンガーに掛かった服を眺めながら問いかける。
「それで、君はどんなものが好みかな」
「無地で、暗めの色……そうですね」
律は悩んだ。
好きな色。
そんなものを聞かれたことはない。
サーカスでは選ぶ権利がなかった。
与えられた派手な衣装を着るだけだった。
赤。
黄色。
青。
緑。
客席から目立つための色。
笑われるための色。
だから今さら華やかな色を着たいとは思わない。
考え込む律の脳裏に、ひとつの色が浮かぶ。
それは過去を塗り潰せる色。
インプだった自分を隠せる色。
「黒、が好きです」
ぽつりと零した言葉に、ジャスパーの動きが止まった。
黒。
地味で、不吉で。
死を連想させる色。
若い女性が好む色とは言い難い。
ジャスパーは服から手を離し、ゆっくり目を細めた。
そして律へ歩み寄る。
左手で彼女の右手を掬い上げ、肩に掛かった黒髪をさらりと撫でた。
「君は趣味がいいようだ。葬式の色を選ぶとはなかなかセンスがいい。私の好みに合わせたつもりかい?」
ジャスパーは唇の端を吊り上げながら言った。
好みに合わせるだなんて、そんな殊勝な理由で選んだわけではない。
律は思わぬ言葉に目を瞬かせる。
返事に困り、少しだけ視線を逸らした。
「失言でしたね」
「いやいや! そんなことはないさ!」
ジャスパーは肩を揺らして笑う。
「ただ黒色のドレスを着たレディを常に側に置くというのは、私が変人だと思われる」
「そうですね」
律が即答すると、ジャスパーは一瞬だけ眉をぴくりと動かした。
しかしすぐに笑顔へ戻る。
「ということで、代わりにこれはどうかな」
ちょうど店員が持ってきた服を、ジャスパーは指先で示した。
無地のネイビーのワンピース。
清潔感のある白い襟。
派手さはない。
けれど落ち着いた気品があった。
律は思わず目を奪われる。
サーカスの衣装とは正反対だ。
誰かを笑わせるためでも、見世物になるためでもない。
ただ普通の女性が着るための服。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
自然と口元が緩んだ。
「いいですね」
思った1秒後には口に出していた。
その反応が面白かったのか、ジャスパーは満足そうに頷く。
「よし、では早速着てみてくれないかい?」
店員からワンピースを受け取り、律は試着室へ入った。
カーテンを閉める。
古い服を脱ぎ、丁寧に畳む。
そして恐る恐る袖を通した。
柔らかい生地が肌を滑る。
サーカスの衣装のようなごわつきも重さもない。
鏡の前に立った律は思わず息を呑んだ。
ジャスパーが選んだワンピースは無地ながらも細かな刺繍が施されており、光が当たるたびに繊細な模様が浮かび上がる。
腰の部分はきゅっと締まり、裾はふんわりと膝下へ広がっていた。
鏡の中には見慣れない少女がいた。
いや、少女ではない。
ちゃんと大人の女性に見える。
少なくともサーカスのインプではなかった。
すごく良い。
律は胸の前でそっと手を握る。
初めてだった。
自分の容姿と服装を見て、素直にそう思えたのは。
胸の奥がくすぐったい。
心臓の辺りで何かが跳ね回っている。
嬉しいのだと気づくまで少し時間がかかった。
律は意を決してカーテンを開く。
外ではジャスパーが店員と談笑していた。
その視線がこちらへ向く。
彼は一瞬だけ言葉を失ったように目を細め、それから感心したように息を吐いた。
「ほぉ……」
いつもの芝居がかった笑みではない。
純粋な感嘆だった。
「うんうん、いいじゃないか。たしかに君はピンクや花柄よりもこちらの方が似合っているね」
「よかったです。私もこれ好きです」
「ではこれで決まりだな。後はそれに合う靴も見繕ってもらおう」
そこから先は早かった。
ジャスパーが店員へ指示を出し、店員が次々と商品を運んでくる。
律が流されるまま頷いているうちに、全てが決まっていった。
数十分後。
ネイビーのワンピースに黒いパンプス。
髪も軽く整えられ、鏡の中にはすっかり街のレディが立っていた。
サーカス団員にも見えない。
使用人にも見えない。
ましてやインプでもない。
ほんの少しだけ。
自分が別人になれたような気がした。
「あぁ、いいね」
ジャスパーは、ひとつの作品を作り上げた芸術家のように頷く。
「では行こうか、レディ」
そう言って左腕を差し出した。
律は思わず目を丸くする。
その左腕が、淑女をエスコートするためのものだということを、ピエロである彼女でも理解した。
ジャスパーが殺人鬼であることも、一瞬だけ頭から消えてしまう。
胸がどきりと鳴った。
律は頬が熱くなるのを感じながら、そっと彼の腕へ自分の腕を絡ませた。
その瞬間、ジャスパーはわずかに目を細める。
そして二人は並んで店を後にした。
ジャスパーと一緒に歩くニューヨークの街は、想像していたよりもずっと賑やかで、ずっと温かみがあった。
石畳を叩く靴音。
路面電車の走る音。
人々の笑い声や話し声が絶え間なく混ざり合い、街そのものが生き物のように脈打っている。
きっと律が一人で歩いていれば、人攫いに遭うか、アジア人差別を受けるかの二択だろう。
そう思っていた。
しかし実際には、通りを歩く人々は忙しそうに自分の人生を生きていて、律に目を向ける者はほとんどいない。
世界は案外、自分が思っていたほど自分中心には回っていないらしい。
隣を歩くジャスパーに目をやれば、彼は視線に気づいたのか、ん? と首を傾げて微笑んだ。
陽光を受けた丸眼鏡がきらりと光る。
家の中で紅茶を飲みながら新聞を読む姿。
あるいは血まみれのナイフを握り、趣味に没頭している姿。
律が知るジャスパーはその二つだった。
だからこそ、街中で誰に対しても愛想よく振る舞い、店員や通行人と気軽に言葉を交わす彼を見ると調子が狂う。
好青年。
その言葉が妙に似合ってしまうのだ。
もちろん中身が殺人鬼である事実は変わらない。
変わらないはずなのに、律の心臓はなぜか少しだけ脈打つ速度を上げていた。
ジャスパーは律が何も話さなくても楽しそうに喋り続ける。
まるで長年住み慣れた街を自慢する子供のように、身振り手振りを交えながらニューヨークを紹介してくれた。
「ニューヨークは特別な街だよ、お嬢さん。
世界中から夢を追いかけた人間が集まってくる。
港には毎日のように移民船が着き、様々な言葉が飛び交う。
きっとアジア人だって珍しくないだろう」
ジャスパーは律に目を向けたあと、再び街並みへと視線を移す。
遠くには煙を吐く高層ビル群。
通りには色とりどりの服を着た人々。
馬車と自動車が同じ道路を行き交う光景は、どこか不思議だった。
「だから私はこの街が好きなんだ。人が多ければ多いほど、文化も音楽も物語も生まれるからね」
「へぇ……」
律は素直に感嘆の声を漏らした。
十年間サーカスの檻の中で生きてきた彼女にとって、この街はまるで別世界だった。
「文化といえば、私は音楽が好きだ。特にあれだね。」
ジャスパーが指を差した先には、数人の黒人たちが路上で音楽を奏でていた。
真鍮の管楽器が陽光を反射してきらりと輝く。太鼓を叩く男は全身でリズムを刻み、弦楽器を抱えた男は身体を左右に揺らしながら指を踊らせている。
通りを行き交う人々も、足を止めたり、肩を揺らしたり、思い思いにその音楽を楽しんでいた。
空気そのものが弾んでいるようだった。
「なんだか、いいですね」
律には聞き馴染みのない音楽だった。
けれど胸の奥をくすぐるような軽快な音と、どこか自由で奔放な旋律に自然と耳を奪われる。
まるで鳥が空を飛ぶように、音が好き勝手に跳ね回っている。
サーカスの楽団とも違う。
日本で聞いた音楽とも違う。
知らないのに、なぜだか心地よかった。
「さすがmyピエロ。ジャズほど心躍る音楽はないよ」
「ジャズ……」
律は初めてその名前を知った。
たった一つ言葉を覚えただけ。
それなのに、自分の知らない世界が急に輪郭を持った気がした。
ジャズ。
ニューヨーク。
移民たちの街。
今まで律が生きてきた世界の外側に、こんなにも広い世界があったのだと知る。
知らないものばかりだった。
街も、人も、文化も。
そして、自分自身のことさえも。
胸の奥へ吹き込んだ新しい風は、10年間閉ざされていた窓を少しだけ押し開く。
冷たくも温かいその風に、律は目を細めた。
ジャスパーは心躍るという言葉を体現するように、ご機嫌になっていた。
つま先が音楽に合わせて小さく床を叩く。
カツ、カツ。
革靴が石畳を鳴らす。
その音は次第に速くなり、やがて彼の身体全体が音楽へ溶け込んでいった。
長い脚が軽やかに跳ねる。
踵を鳴らし、爪先を滑らせ、くるりと回る。
まるで重力など存在しないかのようだった。
演奏家たちはそんな観客を見つけると顔を見合わせて笑う。
トランペットが高らかに歌い上げ、ドラムのリズムが一段と激しくなる。
即興で交わされる音の応酬に、周囲から歓声が上がった。
律はただ呆然と見つめていた。
目が離せない。
人間が踊っているというより、一つの芸術作品が目の前で生まれているようだった。
すると突然、ジャスパーが彼女の両手を取る。
「ジャズが気に入ったんだろう。君も心躍るはずだ」
「いや、え。ダンスは特に……」
「私と音楽に合わせればいいさ」
彼はそう言って笑い、再び目を閉じた。
灰色の瞳は見えなくなる。
代わりに現れたのは、音楽だけを信じる踊り子の顔だった。
律は戸惑いながらも、彼の手に引かれるまま身体を動かす。
右へ。
左へ。
リズムに合わせて揺れる。
ジャスパーの足捌きを邪魔しないように必死でついていく。
けれど不思議と嫌ではなかった。
むしろ身体の奥に眠っていた何かが目を覚ましていくようだった。
音楽と彼の動きだけに集中する。
それ以外は何もいらない。
人々の話し声も。
車のエンジン音も。
街を包む喧騒も。
すべて遠くへ溶けていく。
ここは私たちだけの劇場だ。
観客は街そのもの。
スポットライトは午後の日差し。
演者はジャスパーと律。
首筋を伝う汗も、速くなる鼓動も、動きを止める理由にはならない。
むしろ生きている証のように思えた。
10年間、生き延びることだけを考えてきた律は、その瞬間だけは違った。
ただ音楽を楽しみ、
ただ踊り、
ただ笑っていた。
それがこんなにも幸せなことなのだと、初めて知った。
最後にジャスパーが床を踏み鳴らした。
乾いた音が石畳に響いた瞬間、まるで指揮者の合図を受けたかのように演奏もぴたりと止まる。
弾むようなリズムが消えた後も、律の胸だけはまだ音楽に合わせて高鳴っていた。
頬は熱く、呼吸は乱れたまま。
ぜぇ、と息を吐き、肩を上下させる律には目もくれず、ジャスパーは悠々と演奏家たちの前へ歩み寄る。
そして足元に置かれたくたびれた帽子へ、銀貨を何枚か放り込んだ。
からん、と軽やかな音が鳴る。
演奏家たちは笑顔で礼を言い、ジャスパーは大げさな仕草で腰を屈めて応えた。
「観光の続きをしようか。レディ」
「はい、ジャスパー」
今度は促される前に、律の方から彼の腕へ手を伸ばした。
黒いコート越しに伝わる体温は不思議と温かい。
単純に言ってしまえば、律はジャスパーに絆されていた。
知らない街を歩き、
知らない音楽を教えられ、
知らない景色を見せられる。
ジャスパーと過ごす時間は、律が失った10年間を少しずつ取り戻していくようだった。
こんな時間が続けばいい。
そんな考えが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
そして、律は思い出す。
どれだけ彼に絆されようとも。
どれだけ彼と笑い合おうとも。
彼は殺人鬼だ。
彼女は彼のピエロで、
この関係は友人でも家族でもなく、
ましてや恋人などではない。
ただ利害だけで結ばれた、
酷く歪な契約関係に過ぎない。
「さぁ、今日はどんなジョークを思いついたかな」
街が夜に飲み込まれた後、律たちはジャスパーの趣味部屋にいた。
地下へ続く階段を下りるたび、地上の喧騒は遠ざかっていく。
ジャズも笑い声も。
街灯の明かりも人々の温もりも。
すべてが頭上へ置き去りにされていくようだった。
地下一階のその部屋は暗く、湿っていた。
古い煉瓦壁には染みが浮き、空気には土と鉄の匂いが混ざっている。
唯一の明かりである間接照明だけが部屋の隅でぼんやりと灯り、
かち、かち、と不規則な音を鳴らしていた。
その淡い光に照らされているのは、
椅子に縛り付けられた見知らぬ男。
口元には布が噛まされ、両腕は背もたれの後ろで固く拘束されている。
恐怖で見開かれた瞳だけが忙しなく揺れていた。
その向かい側にはジャスパーが座っている。
足を優雅に組み、まるで劇場の最前列で開演を待つ観客のように。
今日は律にとって、とても良い日だった。
ジャスパーは上機嫌だったし、ニューヨークの街も見られた。
おまけに新しい洋服まで買ってもらえた。
だから今日くらいは趣味を休むのではないかと期待していた。
しかし彼にそんな気は毛頭なかったらしい。
幸福な一日の締めくくりに、いつも通りの殺人を選んだだけだ。
ジャスパーから表情は見えていない。
だから律は小さく眉を寄せる。
彼への嫌悪と、目の前の被害者への憐憫を込めて。
この男は今日の夕方に出会った人物だった。
ジャスパーと入ったカフェで、ひとり愚痴をこぼしていた男。
最初こそジャスパーも興味を示していないように見えた。
しかし席が近かったせいで、男の声は嫌でも耳に入ってくる。
仕事の失敗。
家庭の不満。
人生への諦め。
どの言葉がジャスパーの琴線に触れたのか、律にはわからない。
ただ気がつけば、
彼は旧友に再会したかのような笑顔で男に話しかけていた。
巧みな相槌。
自然な質問。
絶妙なジョーク。
男は見る見るうちに笑顔になり、最後には肩を叩いて笑うほど打ち解けていた。
その光景を見た瞬間、
律は心の中でため息をついた。
ああ。
始まった。
ジャスパーの狩りだ。
彼はいつもそうだった。
バーでもカフェでも街角でも、暗い顔をしている人間を見つければ近寄っていく。
悩みを聞き、
笑わせ、
安心させる。
そして相手が心を開いた瞬間、蜘蛛が糸を巻き取るように逃げ道を奪っていく。
最後には沼地へ引きずり込み、
自分だけの趣味の世界へ招待するのだ。
本当に性格が悪い。
律は心の底からそう思う。
さて。
そろそろジャスパーに親父ギャグを披露しなければならない。
彼の期待値はエベレストより高い。
だからギャグを言う瞬間だけは、どんな危険な状況よりも緊張する。
心臓が変な汗をかきそうになる。
なにせこの世には、
「殺人鬼にウケなかった」という理由で死ぬ人間だっているのだから。
そして最悪の場合、
クソみたいな親父ギャグが律の人生最後の言葉になる可能性すらあった。
「母国語でもいいですか?」
「へぇ、なんだい?」
ジャスパーは椅子の背にもたれたまま、顔だけこちらへ向ける。
灰色の瞳が興味深そうに細められた。
正直なところ、慣れない英語で親父ギャグを考えるのは骨が折れる。
ただでさえ命が懸かっているのだ。
言葉遊びの細かなニュアンスまで外国語で再現しろと言われても無理がある。
だから今日は日本語で勝負することにした。
「日本語なんですが、“腸を蝶々結びする”」
「君はJapaneseなのか! 初耳だ!」
ジャスパーは目を丸くした。
まるで今初めて知った面白い事実に出会った子供のように。
「それで、その言葉はどんな意味なのかな?」
「えっと……腸を蝶の形みたいに結ぶんです」
蝶々結びの英訳がわからない。
律は「バタフライ」と言いながら両手で紐を結ぶ動作をしてみせた。
指先で輪を作り、
交差させ、
きゅっと結ぶ。
ジャスパーは顎に手を添えて数秒考え込む。
そして、
ゆっくりと口角を吊り上げた。
「HAHAHAHA!」
地下室に大きな笑い声が響く。
楽しそうな声だった。
本当に心の底から面白がっている声だった。
「Japaneseは発想が恐ろしいね! 腸をリボンのように結ぶなんて!」
肩を震わせながら笑う。
「君もそう思わないかい? Mr.コール」
名を呼ばれた男はびくりと身体を震わせた。
額には脂汗が浮かび、縄で擦れた手首は赤く腫れている。
必死に何かを訴えようとするが、猿ぐつわに阻まれて言葉にならない。
「んっ……! んんっ!」
男は首を横に振るばかりだった。
「おや」
ジャスパーが肩を落とす。
「君のジョークは面白くなかったそうだよ。Myピエロ」
猿ぐつわをしたのはジャスパー自身だ。
反応できないのは当然なのに、彼は本気で傷ついたような顔をしてみせる。
わざとらしく眉尻を下げ、胸に手を当てて嘆息する。
まるで舞台役者だ。
そして次の瞬間。
「ああ!」
突然何かに気付いたように立ち上がった。
「もしかして!」
ぱっと顔を輝かせる。
「やはり日本語では意味が伝わらなかったのかもしれないね!」
「そうですね……」
男の代わりに律が肯定すると、ジャスパーは両手をぽんと打った。
「それだ!」
嬉しそうだった。
本当に嬉しそうだった。
その顔を見た瞬間、律の背筋を嫌な汗が伝う。
嫌な予感がした。
嫌というほど知っている予感だった。
「仕方ない! 言葉の壁は誰にだってあるさ!」
ジャスパーは軽快な足取りでこちらへ歩いてくる。
「では可哀想なMr.コールのために実演してあげようじゃないか。Myピエロ」
「え?」
嫌な予感は見事に的中した。
うん、それがいい。
そう独りで頷きながら、ジャスパーは律の右手を取る。
そして、銀色に光るナイフを握らせた。
冷たい。
ぞっとするほど冷たい金属だった。
見覚えのある感触。
見覚えのある光景。
手の中のナイフ。
目の前の獲物。
娯楽を求める猛獣の瞳。
ジャスパーは期待している。
目の前の劇を。
これから始まる余興を。
その瞳に見つめられると、
律はどうしてもNOと言えなくなる。
しかし、身体だけは拒絶していた。
指先が震える。
喉が乾く。
胃の奥が冷たくなる。
「じ、実演って……」
声が裏返った。
「生きてるんですよ?」
ジャスパーは首を傾げる。
本当に不思議そうに。
「そうだね」
当然の事実を確認するように頷き、続ける。
「でも、もうすぐ死ぬ」
あまりにも自然な口調だった。
夕飯の予定でも話すような気軽さだった。
律の背筋に寒気が走る。
今まで倫理観を捨てて残虐な行為ができたのは、相手が死体だったからだ。
既に死んでいる。
もう苦しまない。
そう自分に言い聞かせていた。
しかし。
目の前にいる男は違う。
生きている。
呼吸をしている。
恐怖を感じている。
助かりたいと思っている。
そんな人間の身体にナイフを突き立てるなんて、
できるわけがない。
律はぶんぶんと首を振った。
「無理、無理です……!」
震える手でジャスパーにナイフを差し出す。
「だって生きてるんです……! 死体ならまだしも……できないです……」
ジャスパーは眼鏡を外した。
レンズの奥に隠れていた灰色の瞳が露わになる。
そして、覗き込むように腰を屈めた。
「おや」
至近距離で目が合う。
逃げ場はない。
「君は立派なレディなんだろう?」
優しい声だった。
だからこそ恐ろしい。
「我儘はいけないな」
「わ、我儘じゃないです……!」
涙が滲む。
「無理なものは無理です……許してください……」
律は目を閉じた。
視界ごと現実から逃げるように。
再度、震える両手でナイフを差し出す。
かたかたと刃が鳴る。
数秒後。
律の手から重量が消えた。
受け取ってくれた。
助かった。
そう思った瞬間。
「――っ!」
男の呻き声が響く。
続いて。
ごぼっ。
ごぼごぼっ。
水に溺れたような音。
律は恐る恐る目を開いた。
そこにいたのは、
血まみれのナイフを握るジャスパーと、
喉を掻き切られた男だった。
鮮血が噴き出している。
床へ落ちるたび、ぱたぱたと生暖かい音を立てる。
男は必死に息を吸おうとしている。
だが吸えない。
空気の代わりに血が溢れてくる。
身体が痙攣する。
足が跳ねる。
その様子を、ジャスパーは背中を向けたまま眺めていた。
「興が冷めた」
低い声だった。
さっきまで笑っていた男と同じ人物とは思えない。
絶対零度。
深海の底。
光も熱も届かない場所。
そんなものを連想させる声だった。
瞬間、律の顔から血の気が引く。
やってしまった。
一か月。
必死に耐えてきた。
笑わせて、
機嫌を取り、
期待に応え続けてきた。
それなのに。
ついに。
彼を飽きさせてしまった。
抵抗することに必死で律は忘れていた。
ジャスパーにとって自分の価値は、
面白いか、
面白くないか。
それだけなのだ。
律は確信する。
私はきっと殺される。
用済みだと。
つまらないと。
ゴミでも捨てるように、彼の手で殺されるのだ。




