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第4話 踊り

2週間前、ジャスパーは言った。


“興が冷めた”と。


冷ややかに告げられたその一言は、律の中にずっと刺さったままだった。



あの夜から2週間。



何も起きていない。



最初の一週間、律は毎朝目を覚ますたびに、自分がまだ生きていることを確かめた。


首は繋がっているか。

心臓は動いているか。

手足はちゃんとあるか。


そんな馬鹿げた確認を、眠りから覚めるたびに繰り返した。




しかしジャスパーは、彼女を殺す素振りを見せなかった。



いつも通り朝起き、律が用意した朝食を食べ、仕事へ向かう。



帰ってくれば紅茶を飲み、レコードをかけ、気が向けば趣味へ出かけ、気が向かなければ本を読んで過ごす。



何も変わらない。

何も起きない。



その平穏さが、かえって律には恐ろしかった。



ひとつ変わったことがあるとすれば、ジャスパーがあまり律に話しかけなくなったことだ。



今日は何時頃に帰る。

夕食は何がいい。

シャツにアイロンをかけておいてくれ。



そんな業務連絡だけ。



以前のように意味の分からない冗談を投げかけたり、律の反応を見て楽しそうに笑ったりすることが減った。




沈黙。




それが一番怖かった。




律には、ジャスパーの考えが分からない。


そもそも彼の殺人衝動すら理解できないのだ。




自分が殺されるのか、殺されないのか。



そんなことを判別できるはずがない。



いつ殺そうかと悩んでいるのか。


殺す日はすでに決まっていて、今は準備段階なのか。


それとも、すべてを許してなかったことにしてくれているのか。




最後の選択肢だけは、あまりにも都合のいい希望的観測に思えた。









夕食の席。



律は目の前の分厚いステーキをナイフとフォークで切り分けていた。

皿の上で肉汁がじわりと滲む。


赤い断面を見て、律は一瞬だけ地下室の光景を思い出す。



喉を切られた男。

床に広がる血。

ジャスパーの低い声。



”興が冷めた”




律は息を詰めた。


目の前の男に牙は見えない。

爪を研いでいるようにも見えない。


それでも、少しの変化も見逃してはいけないと思った。



彼がいつ襲いかかってくるか分からない。



律はステーキを切り分けるジャスパーの指先を見つめる。



長く、綺麗な指。


人を殺す時も、食事をする時も、彼の手つきは変わらず優雅だ。



ジャスパーはステーキを一切れ口に運び、ゆっくり咀嚼する。

そしてこちらには見向きもせずに言った。




「私の可哀想なピエロは肉が嫌いなのかな」


「あ、いえ」




律の皿の上では、彼女の分のステーキが冷めつつあった。



ナイフとフォークは手に持っている。

しかし考え込むあまり、ほとんど手をつけられていなかった。



食べる意思があることを示すため、律は慌ててナイフを動かす。



ぎこぎこ。



皿の上で刃が鈍い音を立てる。

だが切り分けただけで、また手が止まった。




食欲などあるはずがない。




ジャスパーはある程度食事を終えたのか、カトラリーを静かに置いた。




ナプキンで口元を拭う。

 


その動作さえ、舞台上の演技のように整っていた。



律はその一連の所作を見つめる。



そしてとうとう、衝動に負けた。

自分の命を顧みる余裕などなかった。


このまま何も分からないまま怯え続ける方が、よほど耐えがたかった。



「あの、ジャスパー」


「なんだい?」


「私のこと、殺さないんですか……?」




言った。


言ってしまった。




食卓に一瞬、妙な静けさが落ちる。


ジャスパーは数秒だけ律を見つめた後、唐突に笑った。




「HA! 君は私に殺されたいのかい? おかしな願望だね」




小馬鹿にするような笑いだった。


律はむっとする。

殺人鬼が恐ろしくて仕方がない律の気持ちなど、彼は一ミリも考えていない。


少しだけ眉を寄せて言い返す。



「だって、2週間前に言ったじゃないですか。“興が冷めた”って……」


「あぁ……」



ジャスパーの笑みが薄くなる。



「あの夜は……至極つまらなかったな」



思い出して不快になったのか、彼は律から視線を逸らし、両眉をわずかに顰めた。



律の指先が冷える。



やはりそうだ。


彼はあの夜、自分が拒否したことを許していない。



彼の期待を裏切ったことを、面白くないと思っている。




ではなぜまだ殺さないのか。



そう尋ねる勇気は出なかった。



先ほどの言葉だけで、十分に死刑宣告に近かったからだ。



律は皿の上の肉を見下ろす。

湯気はもう消えていた。


カトラリーを握る両腕から力が抜けていく。


その時、ジャスパーが言った。



「私も質問したいんだが、いいかい?」


「なんでしょう」



律は皿の上の肉を見つめたまま答える。


今は彼の顔を見たくなかった。


もしもそこに猛獣のような瞳があったなら、一縷の望みさえ消えてしまう気がしたからだ。



「君は殺されるかもしれないと思いながら、どうして私から逃げなかったんだ?」


「……え」



予想していなかった問いに、律はようやく顔を上げた。



ジャスパーは頬杖をつき、静かにこちらを見ている。


そこに怒りはなかった。


愉悦もない。


ただ純粋に、

興味深そうに、

答えを待っている顔だった。



律は思う。




逃げる、という選択肢はなかった。



最初から。





ジャスパーに言われて、律はようやくその事実に気がついた。




逃げればよかったのだ。

恐ろしい殺人鬼から。


身の毛もよだつような非日常から。



扉を開けて、裸足のままでも外へ飛び出せばよかった。


逃げてサーカスに戻ってもよかった。



戻れば、あの檻のような場所で、またインプと呼ばれ、笑いものにされ、傷つけられる日々を過ごすことになるだろう。


しかし、この家で常に感じている、いつ殺されるかわからない死の恐怖よりは、まだましだったのかもしれない。




では、なぜ逃げなかったのか。




答えはただひとつ。


律は、ジャスパーに絆されていた。




恐怖と嫌悪の中に、

感謝と情が混ざってしまった。



まともな衣食住を与えられ、

汚れた床ではなく、清潔な寝台で眠ることを許された。



残飯ではなく、温かい食事を口にできた。



インプでも、アジア人でも、見世物でもなく、

少なくともこの家の中では、ひとりの人間として扱われた。




最低限の生活と尊厳。




この時代に来て5年間、律が一度も味わったことのないものだった。



その対価として失うものは、ただひとつ。




自分の中にある道徳心。




ジャスパーの趣味の時間だけ、それらを心の奥にしまい込めばいい。




目を逸らし、耳を塞ぎ、心を殺す。




そうすれば生きられる。


そうすれば、ここにいられる。


もしかすると、律の中で、すでに善の心など息をしていないのかもしれない。




気づいてしまった感情を認めることができず、律は俯いた。




喉の奥が詰まる。



胸の中心が、冷たい手でゆっくり握り潰されていくようだった。

彼女は小さく首を横に振る。



「わかりません」



かろうじて絞り出した声は、ひどく頼りなかった。



「そうか。まぁいいさ」



ジャスパーはそれ以上追及しなかった。

ただ、いつものように穏やかに微笑んでいる。



「ここ2週間、私は珍しく他人のことについて考えてみたよ。もちろん君のことをね」


「はい」



律は反射的に返事をする。



この2週間。

彼は律にほとんど話しかけなかった。



朝食を食べ、仕事に行き、帰宅し、趣味に没頭する。



必要最低限の会話だけで、律の存在を視界から外しているようだった。


その沈黙が、律には何より恐ろしかった。


何を考えているのかわからない沈黙は、

首に縄をかけられたまま椅子の上に立たされているようなものだった。




ジャスパーは椅子から立ち上がる。

床板がきしりと鳴った。



その音だけで、律の肩がわずかに跳ねる。


彼はゆっくりとこちらへ歩みを進めながら続けた。




「私が君に求めることはただひとつ。利便性だ」




靴音が近づいてくる。


一歩。

また一歩。



「君との関係に友人、相棒、家族、ましてや恋人や人生の伴侶なんてものは求めていないのさ。それは君も重々わかっているだろう?」


「はい」



律は頷いた。


わかっている。

そんなことは、痛いほどわかっている。




ジャスパーはとうとう律の近くまで来ると、机に腰をかけた。


腕を組み、少し体重を預ける仕草すら、どこか優雅だった。



「さて、では君の利便性は何かと考えた。私にとって君がいることで有利なことは何か」



灰色の瞳が律を見下ろす。



「可哀想なピエロは私のために家を整えて食事を提供し、たまに心躍るジョークを考えるが、度胸が足りない」


「はい」



まるで学校の先生に成績を伝えられているような心地になる。


律の返事はほとんど機械的だった。


逆らわない。

言い訳しない。


余計なことを言わない。



この一か月で身体に刻み込まれた、生存のための作法だった。



「ひとかけらでも残っている君の良心は、私からすればゴミクズも同然」



ジャスパーは律の胸の前に手を伸ばし、

何かを掴むように指を閉じる。


そして、それをつまらなさそうにぽいと床へ投げ捨てた。



見えないはずのものを捨てられたのに、律は本当に胸の中を空っぽにされたような気がした。



「あの夜の君のつまらなさは、良心からくるものだとわかっている。だから興が冷めた」



あの時を再現するかのような、低く冷たい声。


その言葉に、律の指先が冷たくなる。




「しかし、こうも考えた」




ジャスパーの声が、少しだけ調子を変える。



「そもそも私が君と交わした取引は、“私を楽しませ、かつ私の言う通りに手伝うこと”」


「はい」



律は顔を上げることができなかった。


ただ、首元に当てられていた見えない刃が、ほんの少しだけ動いたような気がした。



「あの夜、私が君にさせようとしたことは、手伝いの範疇を超えていたかもしれない」



律はゆっくり瞬きをする。


脳内で首に押し当てられていたナイフの先が、少し離れたように感じた。



「つまり、まぁ、あの夜は興冷めだったが、取引と違うことをしたのは私だ」


「はい」



心臓がまだ速く脈打っている。


しかし、それは先ほどまでの恐怖だけではない。



「だから君の不手際は気にしないことにしよう」


「……ありがとうございます」



胸を締め付けていた緊張がほどけ、ようやくまともに息を吸えた。


どうやら、命の危機は去ったらしい。




「少し話が逸れた。今一度、本題に立ち返ろう」


「え?」




律は思わず間の抜けた声を漏らした。

彼女の中では、先ほどの言葉こそが本題だった。



命を取らない。


あの夜の件は不問にする。



それ以上に重要な話などないと思っていたのだ。



そんな律の反応を見て、ジャスパーは小さく肩を揺らした。

愉快そうな笑みを浮かべたまま、彼は律の両手を取る。


冷たい指先だった。



気づけば律は椅子から立ち上がらされていた。


何をするのかと思う間もなく、ジャスパーの左腕が腰へ回される。



ぐっと引き寄せられた。



息が止まる。



胸が触れ合うほど近い。



互いの呼吸がわかる距離。




ジャスパーの香水の匂いが微かに鼻先を掠めた。


そして彼は律の左手を持ち上げると、ゆっくりと指を絡めた。

まるで社交界のダンスへ誘う紳士のように。



律の心臓が激しく跳ねる。



どくん。


どくん。



耳の奥で脈打つ音がうるさいほど響いた。



気づかれてしまう。


そう思った。



ジャスパーは目を細める。



灰色の瞳が真っ直ぐ律を映していた。


それは獲物を狙う猛獣の目ではない。



むしろ、

知らぬ間に蜘蛛の巣へかかった蝶を見つけた子どものような目だった。



興味深そうで、

楽しそうで、

どこか残酷な目。



「律」



低く甘い声が響く。



「さっきも言ったが、私が君に求めるものはただひとつ。利便性だ」



至近距離で動く唇から紡がれる言葉は滑らかだった。


まるで演説でも聞いているような気分になる。



「私の邪魔にならず、なおかつ私の日常に刺激を与えてくれるピエロが欲しい」



律は何か言おうと口を開く。


しかし声が出ない。



ぱくぱくと魚のように唇が動くだけだった。



そんな自分を滑稽だと思った。

けれど、ジャスパーは笑わない。


ただ楽しそうに見つめている。



「今後、私は君に生きている人間を傷つけさせるような頼み事はしないようにしよう」



律の瞳がわずかに見開かれる。



「もちろん、改めて誓う。私は君を殺さない」



その言葉を聞いた瞬間。


熱を持っていた頭が急速に冷えていく。



あまりにも好条件だった。



ジャスパーにしては、あまりにも。


だからこそ、律は知っていた。




受け取るものには大きな代償を必要とする。



「代わりに……何をしてほしいんですか……?」



疑うような視線を向ける。


ジャスパーは絡めていた指をほどく。


代わりに肩へ触れ、首筋をなぞり、最後に左頬へ指先を添えた。



まるで値踏みするような手つきだった。



「今までと変わらないさ」



彼は微笑む。



「私の言うことを聞き、私の手伝いをする。それだけだ」



その笑顔は穏やかだった。


しかし、律にはその奥に潜むものが見えてしまう。



「ただし、前よりも強く。より覚悟と犠牲を払って誓うんだ」



ジャスパーの瞳が妖しく光った気がした。


夜道を歩く猫の目のように。



犠牲。



それは、まだ心のどこかに残っている倫理観、罪悪感について。




今までは見ないふりをしていた。


趣味の時間だけ心の奥へ押し込めていた。




しかし彼は言っているのだ。



それを捨てろ、と。




では覚悟とは何なのか。


律は答えを探すように彼を見上げる。



「私は君を傷つけない」



ジャスパーは穏やかに告げる。



「君も生きている人間を傷つける必要はない。

しかし、それ以外の私の言うことは全て聞くこと」



逃げ道はない。



「君にはずっと私の手のひらで踊るピエロでいてほしいからね」



ジャスパーは微笑む。



「どうだい? 約束できるかい?」



疑問形だった。



しかし、律にはわかる。



これは質問ではない。

脅迫でも命令でもない。


もっと質が悪いもの。




自分の意思で、彼の手の平に堕ちることを選ばせるための言葉。


ジャスパーは律自身の足で檻へ入ることを望んでいる。




一回目の契約とは違う。


今度は律自身が歩み寄る。


その覚悟が必要なのだ。




ジャスパーに嘘は通用しない。


建前も意味を持たない。


沈黙が落ちる。

やがて律は小さく息を吐いた。



「……ひとつ、私からもお願いがあります」


「……なんだい?」



ジャスパーの片眉がぴくりと上がる。



少しだけ警戒しているらしい。



その反応が妙に可笑しくて、律は心の中で小さく笑った。


凶悪な殺人鬼がちっぽけな私に、何をそんなに警戒するのだろう、と。




最低限の尊厳を与えてくれるなら。


人として扱ってくれるなら。




それだけでいい。




「ダンスは苦手なので、手のひらで踊るために、タップダンスを教えてくれませんか?」



数秒。


ジャスパーは固まった。


そして。



「……HA!」



堪えきれなかったように笑う。


肩を震わせる。

心の底から愉快そうに。



律は最近知った。



ジャスパーはいつも笑っている。



しかし、口元だけではなく目元まで緩む笑い方をする時だけは、本当に機嫌が良いのだと。



彼は一歩下がる。

律の右手を持ち上げ、もう片方の手を背中へ回し、優雅に腰を折った。


まるで舞踏会の騎士だった。



突然、お姫様役にされた律は少し困る。



「Myピエロ」



ジャスパーは楽しそうに笑う。



「そんな可愛いお願いなら、いくらでも聞いてあげようじゃないか」


「お優しいですね」



律が棒読みで返すと、ジャスパーはさらに楽しそうに笑った。


そして姿勢を正す。



「もちろん。さて、では改めて契約だ。異論はないかい?」



律は彼の左手を握る。

今度は自分から。


ぎゅっと。



「はい、ジャスパー」



ジャスパーも同じ強さで握り返した。


それで十分だった。

契約は成立した。


握手を終えると、ジャスパーは満足そうに手を離し、


何事もなかったかのように席へ戻る。



律も椅子へ腰を下ろした。


目の前のステーキはすっかり冷えている。


肉汁は固まり、表面の艶も失われていた。




「ステーキ、焼き直しましょうか?」




律が尋ねると、ジャスパーは首を横に振る。


「いや」



そう言ってナイフを入れる。


冷えた肉を気にする様子もなく口へ運んだ。



「肉はレアがいい。焼き直したらウェルダンになってしまう」


「なるほど」



律は頷く。


ジャスパーにとっては温度より焼き加減が重要らしい。



律は逆だった。


焼き加減よりも温かい方がいい。


だから自分の皿を持って立ち上がる。


キッチンへ向かう背中に、ジャスパーの機嫌の良い鼻歌が聞こえてきた。


その音を聞きながら律は思う。


どうやら今日も、生き延びられそうだと。


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