Ep65: 【隠しているだけではダメだから】
トーナメント表が更新された瞬間、観客席の空気が一変した。
ルーラチームの準々決勝の対戦相手。その名を見て観客は声を上げる。
「ミラドラトだ……」
「あいつが出てきたのか」
「終わった。ルーラチームは終わった」
リンはその名前を目にした瞬間、血の気が引いた。
お兄ちゃん。
トーナメント表から目が離せない。手が知らないうちに膝の上でぎゅっと握られていた。
「リン? 顔色悪いよ」
サリナが横から覗き込んでくる。しかしリンは答えられなかった。
ミラドラト。それはリンにとって、単なる上級生の名前ではない。
この学院で唯一、土魔法と火魔法の二属性を同時に扱える生徒。そしてリンの実の兄でもある。
彼はずっと、リンとの試合を待っている。ミラドラトは妹をライバルとして見ていて、妹と本気でぶつかるために、ここまで勝ち上がってきた。だから目の前の相手には一切の情けをかけない。弱者へのかけらほどの手加減も兄はしない。そういう人間だとリンは知っていた。
「ルーラちゃんがやられる」
フィールドに降り立ったミラドラトを見て、観客席はより盛り上がった。長身で肩幅が広く、制服の袖を無造作にまくり上げている。金髪の短髪は整える気配もなく、鋭い目つきは昔から変わらなかった。
不良と誰もが思う。そしてその直感はだいたい正しい。
対するルーラは小柄で、スキップするように中央へ向かった。ニコニコしている。まるで遠足のような足取りだ。ミラドラトはルーラを見下ろし、鼻で笑った。
「泣くなよ?」
「ルーラは、泣きません」
「どうかな」
その言い方が、ひどく冷たかった。
審判が腕を上げる。両者が構える。
そしてブザーが、鳴った。
ルーラが動くより先にミラドラトが左腕を前に突き出す。膨大な土の塊が腕から伸び始めた。長さは十数メートルに達し、ルーラに向かって地を這うように迫る。
しかしミラドラトはそこで止まらなかった。
右の指先をゆっくりと土の腕に触れさせた。
「炎纏」
腕へ真っ赤な炎が纏いつく。高熱が空気を歪めるように、フィールドはざわめきと異様な空気に包まれた。
「逃げてみろよ、やれんなら」
床が溶けるほどの熱。ルーラの体は音を立てて、少しずつ蒸発していく。
ルーラは必死に逃走する。後ろからは腕が追ってくる。
「はっや」
ミラドラトは両腕を空へ上げた。その瞬間、右腕も延長される。そして腕の軌道を変えて、生き物のように動く炎の腕がルーラを追い続け、着弾のたびに床が崩壊していく。観客席の最前列が熱を受けて揺れ、審判が慌てて魔力の壁を展開し直す。
腕はより加速する。ルーラは天井近くまで跳び、そこから急降下する。腕が通り過ぎた直後の瓦礫を踏み、方向転換。しかしミラドラトは笑った。地面へ炎を展開する。着地した足元が赤く燃えていて、ルーラの靴底が焦げる。
熱い。
でも!
ルーラはもう一度跳んだ。崩れ落ちた柱の上を二段踏みにして、フィールドの中央へ向かう。腕が再び軌道を変える。角度が悪い。
距離が詰まっていた。腕の勢いが増す。ルーラは体を伸ばして左に飛ぼうとした。ミラドラトはそれを読んでいた。腕が分岐した。土魔法の応用。二本が四本になり左右からルーラを挟み込む。
リンが観客席で立ち上がり、叫んだ。
「ルーラちゃん!」
直撃だった。燃え盛る腕の側面がルーラの小さな体を捉え、弾き飛ばした。ルーラが宙を舞い、観客との壁にぶつかった。観客は驚き、悲鳴を上げ、他のフィールドで戦っていた生徒たちもルーラの方を見た。ルーラはずるずると床に落ちた。
「ルーラッ!」
熱波の余熱だけが、ゆっくりと空気の中に散っていく。
ミラドラトは腕を引いた。土と炎が霧散し、フィールドには焦げた瓦礫だけが残った。彼はルーラを一瞥し視線を外した。もう終わったとでも言うように。
審判が前に出る。大きく息を吸い込んだ。
「戦闘不——」
「ごめんなさい」
声がした。
小さな声だった。
だが静まり返った会場にははっきりと届いた。
崩れ落ちたルーラが、うつむいたまま呟いている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
震えていた。手が肩が細かく揺れていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
止まることのないルーラのうめき声に全員騒然とした。
「ルーラ?」
サレーが目を丸くしていた。
「私、勝てなかった……。強くなりたいって言ったのに……ごめんなさい。ルーラは出来損ないです、ゼル様の隣にも立てません。足を引っ張るつもりはありませんでした、なのに」
目から大粒の涙が一粒、落ちた。
リンが席から立ち上がりルーラへ駆け寄ろうとしたのか、身を乗り出そうとする。それをサリナは止めた。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ルーラの腕が上がった。誰も気づいていなかった。審判もミラドラトも全員が終わったと判断していた。
翠閃
右腕がふらりと持ち上がる。
ルーラはそのまま手の形を変えた。
パーの形。五本の指を真っ直ぐに広げる。
翠閃
そして手のひらをミラドラトに向けた。先程とは違う、まったく別の圧力がフィールドを満たし始めた。濃い。重い。これまでのミラドラトの魔力とは異質の、密度が違う何かがルーラの小さな手のひらに、収束していく。
翠閃
ミラドラトの眉が動いた。
初めてだった。
この試合で、初めて。
彼はルーラに恐怖を覚えた。
ルーラが顔を上げた。涙の跡が頬に残ったままで、しかしその目は今まで見たことのない黒でぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような色をしていた。
ルーラの唇が静かに動く。
「『翠閃』」




