Ep62: 【第十七回 王立ルシアナ魔法学院 大祭半月前】
一週間が経った。
王立ルシアナ魔法学院はルーラが思っていたよりずっと、人の声がうるさかった。廊下でも食堂でも中庭でも、常にどこかで誰かが笑っていて、怒っていて、言い合いをしていて、それが全部まとめて壁に跳ね返ってくる。
それが今はうるさいけれど、悪くなかった。
「ルーラちゃん、これ食べてみて!」
リンが食堂のトレイを押しつけてくる。ルーラはすでに自分の昼食を持っていたが断れなかった。
ま、眩しい。
笑顔が美しすぎる人間には、ルーラの体は反射的に従う。
「……ありがとうございます」
一口食べると甘酸っぱかった。
「どう!?」
「おいしいです」
「でしょ!!」
リンが派手に喜んだ。サリナが隣で「リンちゃん、ちょっと落ち着いて〜」と言った。三人でテーブルを囲んでいる。外は晴れていた。
それが昨日まで。
今日はその晴れた空に靄がかかっているような感じがした。
理由は分かっている。食堂の入り口に、彼女がいるからだ。
***
ノン・ヴァルクリエは、笑っていた。
表面上は。
Aクラス最上位。この学院で「ヴァルクリエ家」の名を知らない者はいない。大陸西部の三大貴族のひとつ。魔法適性は歴代トップクラス。そして本人は艶やかな黒髪を左肩に流し、制服を完璧に着こなした、どこから見ても美しい16歳だった。
その笑顔がルーラには引っかかった。
なんか……目が笑ってない。
三人の取り巻きを引き連れたノンが、食堂を歩いている。視線はまっすぐ、リンへ向いていた。リンを見る目だけがわずかに違う。
「リン先輩、ごきげんよう」
ノンの声はよく通る。食堂の周囲が、ほんの少し静まった。
「ノン、ちょうどよかった。一緒に食べる?」
リンが何でもなさそうに答えた。
「……ご招待はうれしいのですが」
ノンの視線が、初めてルーラへ向いた。
一秒だけ。ただそれだけ。
視線の重さがまったく別物だった。リンへ向ける熱とも、取り巻きへの無関心とも違う。ルーラへ向いた瞬間だけ、その目に何も入っていなかった。
「今日は先約があって」
ノンが微笑んだ。「またの機会に」
踵を返す。その後に取り巻きが続く。
「……ノン、ちょっと機嫌悪かったかな」
リンが小声で言った。
ルーラは視線をノンの去っていった方角からゆっくり外した。スライムだった頃の本能が、何かを言いかけていた。ルーラはそれに気づかなかった
***
午後の授業が終わった後、リンがルーラを連れて廊下の掲示板へ向かった。
「学院の情報って、ここに全部貼られるんだよ。見ておくといいよ」
木の板に何十枚もの紙が重なって貼られている。依頼。告知。成績発表。
ルーラは目を流した。
そして止まった。
右端、少し高い位置に貼られた一枚。印刷ではなく手書きに近い質の紙だった。上部に大きく捜索願と書かれている。
その下に顔の絵。
あ。
ルーラの胸の中で、何かが音を立てた。
この人。
黒髪のボブの女性だった。青い毛先と、鋭い視線、真一文字に結んだ口。どこか前だけを見ているような表情。絵なのにそう見えた。
「リナ・フォルトーゼ。王都を守った英雄。行方不明」
リンが傍らで小声で読み上げた。「魔王の戦いの後から連絡が取れないって……。知ってる人? 知ってるわけないか」
ルーラは記憶の中にある顔と見比べた。
間違いない。王都で……ゼル様に向かっていった。
リナは英雄という言葉で貼り出されている。そしてルーラは今、その心に秘める事実を誰にも言えない。言えるはずがない。
「大丈夫? ルーラちゃん」
リンが心配そうに覗き込んでくる。
「あ、うん。大丈夫です」
「ねえ、こっちも見て」
リンが掲示板の別の紙を指さした。
大きい。白地に太い文字。
【第十七回 王立ルシアナ魔法学院 大祭】
半月後、開催。
出場希望者はエントリー用紙を二週間以内に提出のこと。
種目の一覧が続く。魔法精度測定。模擬戦団体形式。それから最下段に、少し字が小さくなったもの。
特別実戦種目:魔境演練——志願者は別途書類に署名のうえ提出。高難易度のため志願者は注意してください。
「外部から観覧客も来るし、すごく盛り上がるんだよ。ルーラちゃん、何か出てみたい?」
ルーラは少し考えた。
ゼル様に、強くなったところを見せたい。
思ったら、すぐ頷いていた。
「出たいです」
リンがぱっと笑顔になった。「じゃあ一緒に! サリナも誘おう——」
二人の声が廊下に弾けた。
その会話を。
一本向こうの廊下の角から、ノンが聞いていた。
***
自習室は、夕方になると人が減る。
ノンは一人、机に向かっていた。
手元に、三枚の紙がある。
大祭のエントリー用紙だ。学院事務局への提出用。ヴァルクリエ家が寄付した西棟には、事務局の副担当者が常駐している。書類を一枚通すことなどノンにとって挨拶と変わらない。
インクを取った。
丁寧な字で名前を書いた。
ルーラ。
出場種目の欄。
ノンは最下段の文字を、もう一度だけ確認した。
「特別実戦種目、魔境演練」
この種目が何かノンは知っている。学院の封印区画から引き出した実在の叡ランク以上の魔物との戦闘。過去二名が退学。一名が長期入院。種目の志願書には死亡の場合も学院は責を負わないという文言がある。
それを知った上で。
ノンは魔境演練の欄に、丁寧に丸をつけた。
考えるのに感情は要らなかった。必要なのは結果だけだ。一週間後に参加者が張り出される。リン先輩が気づいた時には、エントリーは既に締め切られている。あの緑色の子が当日になって戸惑い、怯え、最終的に無様な姿を晒す。それだけでいい。
退場の理由は後からついてくる。
「どこの馬の骨か知らないけれど」
静かな自習室に、ノンの声だけが落ちた。
「リン先輩の隣は、あなたが立っていい場所じゃないわ」
インクが乾き、書類を畳んだ。
翌朝。
寄宿舎の東棟、307号室のドアの下に、一枚の紙が差し込まれた。
エントリー受付確認書だった。
既に学院の公印が押してある。種目の欄に、ルーラには読み取れない正式名称で記されていた。
ルーラは自室で目を覚まし、床に落ちていたその紙を拾い上げた。
なんだろう、これ。
上部に「大祭出場確認書」とある。種目欄を見た。ひらがなで小さく書き添えてあった。「まきょうえんれん」
まきょう、えんれん?
……なんか、演習みたいな感じかな。ゼル様の言う実戦で覚えろってやつ、かも。
ルーラはもう一度、紙を見た。
頑張ればゼル様に報告できる。もし上手くできたら、よくやったとは言わないと思うけど、でも少しくらいは——。
見てくれるかな。
思っただけで少し照れてしまって、ルーラは紙を大事に折り畳んだ。引き出しの奥にしまった。その日の授業の準備を始めながら、何か嬉しい気持ちがずっと続いていた。
***
ルーラは知らなかった。
魔境演練とは、二年前に一人の生徒が両腕を失ってから、志願制に変わった種目であることを。
ルーラは知らなかった。
確認書の備考欄に小さく書かれた、治癒術師の待機ありという一文が、過去の事故への苦い反省から追記されたものであることを。
そして。
審査員として種目を視察する予定の外部の人間たちも、まだ知らなかった。
今年の魔境演練の魔物の中に、かつてSランク勇者ネネの斧を何十本も体に受けながら再生し続け、最終的に相手を吹き飛ばした何かが、手違いで紛れ込んでいることを。
半月後。
東棟307号室の少女はまだ、引き出しの中の紙のことを、たぶん普通の演習だと思っていた。
早く強くなって、報告したかった。
それだけを、思っていた。




