Ep61: 【リナvsゼル】
アドネの貴族拠点の屋上。バラルガは眼下の広場を見下ろしている。
広場の中央に、ゼルが立っている。魔王の外套が朝の潮風に揺れていた。その正面にリナが来た、とバラルガは確認した。
これが、主とリナにとって正しい選択のはず。
止めに行く気はなかった。あの二人の間に割って入れるほど、バラルガは鈍くない。
「三日も経ってるわ」
リナは歩きながら言った。近づきながら言った。止まらずに言った。
「報告くらい入れなさいよ」
「言う必要を感じなかった」
「私が感じてる!」
リナが立ち止まった。ゼルとの間に、五メートルほどの距離があった。
「あの戦いのこと全部聞いた。Sランクとやり合ったんでしょ。そのうち二人は宇宙に飛ばされた。あなた一人で全部やった。それで三日間魔法が使えなくなった」
「ルーラから聞いたのか」
「いいえ、もう有名よ」
ゼルがわずかに眉を上げた。あの回復魔法使いめ、と思ったが声には出さなかった。
「なんで連れて行ってくれなかったの」
怒りを抑えるように声を低くしていた。
「なんで、また置いていったの。あの日の夜、あんたは私が死んだってわざと思い込んだんでしょ! 知ってるよ。強くなってみせるから。逃げないで認めてよ」
「認める、認めないの問題じゃない」
「分かってる。そういうこというと思ってた。いつまでもそうやって逃げるんだね、魔王」
リナは手から氷剣を作り出す。だがすぐに氷剣を砕いた。
「決闘を申し込む」
「装備はいらないのか」
「そう。剣なし拳で。あんたもテレポートなんて姑息な手使わないで」
リナは短く息を吐いた。
これで条件が同じ……なわじゃない。あんたの身体能力は人間以上なのは知ってる。私が全力で行っても、普通にやったら話にならない。でもそれでいい。それでも来た。私がここまで来たことをあんたに直接受け取ってほしい。
「置いていかれた回数、数えてないけど多いわ。迷子になるな、なんて言っておいて自分勝手ね」
「さっきも言ったはずだ。認める、認めないの話じゃない」
「話がズレてるよ、魔王。私を置いていってSランク勇者と戦う? もともと戦うつもりだったんでしょ。ならなんで私も一緒にやらせてくれないの」
「お前が死ぬからだ。あの戦場にお前がいれば死んでいた」
「それはあなたが決めることじゃない!」
広場に声が響いた。
「やりましょ。やった後で話す」
ゼルはしばらく、リナを見ていた。
リナが死んでいなかったのは、ずっと前から分かっていた。だがあの後、ここにつれてこなかったのは正解だったと今でも思っている。あの戦場はお前が入れる場所ではなかった。
だがこの女が今ここに来た事実は、別の話だ。
ゼルの口元が、わずかに動いた。
「来い。置いていかれないほどの力を、俺に見せてみろ」
最初の一撃は、予想より速かった。リナは踏み込みが小さい。体重を前にかけるより先に、腰の回転で打つ。
左の拳がゼルの顎骨に当たって頭が揺れる。口の中に血の味が広がった。
「……」
「当たった」
「うるさい」
ゼルの右の拳がリナの脇腹に叩き込まれた。
「っ——!」
リナの体が横に流れた。流れながら、左腕でゼルの腕を絡めとって体ごとぶつかってくる。
リナがゼルの胸ぐらを掴んだ。
「なんで」
リナが言った。
「なんで一言も言わないの」
「何を」
「危ないとか、お前は来るなとか、そういうの!」
「言わなくてもわかるはずだ」
「わからないから、ここにいるの!!」
リナがゼルを突き飛ばした。リナは大きく踏み込んだ。
右、左、右。連打が来る。全部が体の中心を狙っている。ゼルはそれを腕で受けながら、体を動かして逃がしながら下がった。
「お前が死ぬから止めた」
「死ぬかどうかは私が判断する!」
「お前が判断する前に死ぬ場所だったと言っている」
リナの連打が一瞬止まった。その隙をゼルは使わなかった。
「死ぬかもしれなくても行きたかった!」
リナが拳を打つ。ゼルは両腕で受け止めた。
「私は弱いから! 居場所を作り出したかった」
それだけでリナの力が伝わってくる。この女はあの時より、ずっと強くなっている。
「分かった」とゼルが呟いた。
リナが顔を上げた。「何が」
「お前が怒っている理由は、分かった。だからといって、止めたことは間違ってない」
「はぁ!?」
リナの顔が赤くなった。そのまま右の拳を振り切った。ゼルは首を傾けてかわそうとする。拳が頬骨に当たった。ゼルの体が半歩横によろめいた。
リナが息を整えながら、拳を引いた。手の甲が赤くなっている。
「……今のは、いい一撃だった」
「そういうこと言って誤魔化さないで」
「誤魔化していない」
「誤魔化してる」
ゼルは胸に手を当てた。1500年、勇者や魔物にやられた傷は多いが、この女の攻撃を受けたのは初めてだった。
「聞くが」
「何よ」
「お前は今、俺への怒りと自分への苛立ち、どちらが大きい」
「両方」
「どちらが先にある」
「……自分への苛立ちが先。あなたへの怒りはその後から来た」
ゼルは「そうだ。だから俺はお前の決闘を受けた。それは俺への怒りじゃなく、お前自身のけじめだろう。それなら受ける価値があると見たんだ」
「はあ。……ほんっと、あんたって性格悪いよ」
「事実を言っただけだ」
「ほんと嫌なやつ」
リナが再び踏み込んだ。今度は構えから入った。氷魔法の身体強化が指先に薄く青白く光った。ゼルも足の裏に微量の魔力を通した。
「魔力あり、魔法なし。これでいいな続けるぞ」
「ええ言いわ! 当たり前よ!!」
***
バラルガは窓から離れなかった。
広場では二人が殴り合っている。声は距離で聞こえないが、動きは見える。リナが打ち、ゼルが受け、ゼルが返しリナがまた来る。
殺し合いではない。それはバラルガには最初から分かっていたことだった。
ゼルが本気でリナを排除するつもりなら、この場所にすら来させない。気配を察した瞬間にアドネの外でけりをつけている。受け入れた時点で、あの主にとってこれは受けるべき何かなのだ。
そういう主だ。
銀色の髪が風で揺れた。
あの主は冷酷に見える。事実、冷酷な判断を下す。感情を出さない、言葉を省く。必要なことだけをやって、不要なことには一切関与しない。
だが。
置いていくのと見捨てるのは、あの主の中では別の話だ。リナを渓谷に置いていった夜も、きっとそうだったのだろう。
今回も。
「……やっかいな御方だ」
呟いた。批判ではなかった。むしろそういう複雑な歪み方をしているゼルを、バラルガはどこか好ましいと思っていた。化け物と呼ばれることが相応しい力を持ちながら、立ち向かってくる者の覚悟だけには正面から応える。
広場ではリナの連撃でゼルの体が後方へ下がる。
そして最後の一撃。リナが渾身の右拳を振った。ゼルはそれをまた腕で受けようとするが、視界がぼやけ、顔に当たる。
リナは石畳に片膝をついた。両手も地面についた。
ゼルも息が上がっていた。頬が腫れている。腹部に鈍い痛みがある。
しばらく、広場に音がなかった。
潮の匂いの風が吹いた。
「……殺してよかったのに。勇者が来た時、私も呼んで、前線に立たせてよかったのに。死んだとしても、それはそれで私の責任だった」
「死んでいた」
「だから何」
「死んでいた、と言っている。お前が死ぬ場所だった。それだけだ」
「それだけって——」
リナが顔を上げた。
「それだけって、言えるの? あなたは本当に、それだけなの?」
ゼルは答えなかった。
リナはゼルを見上げたまま、短く笑った。
「……嘘つき」
「何が嘘だ」
「何でもない」
リナは膝を折って、ゆっくりと立ち上がった。右肩を押さえ背筋は伸ばした。
「次は呼んでよね」
「場合による」
「場合によらず呼んでよね」
「…………場合による」
「次に置いていったら、また来るから」
「好きにしろ」
リナは鼻を鳴らした。怒りというより、仕方ないに近い音だった。背を向けた。歩き出した。城の方角ではなく大通りの方へ。
「リナ」
ゼルは呼んだ。
リナは振り返らず止まった。
「今日の打撃は……良かった」
しばらく、リナは動かなかった。
「よかった」とだけ言った。
潮風が広場を抜けていった。
昨日までの瘴気の色はどこにもなく、ただの青い空だった。どこかで鳥が鳴いていた。ゼルにとってはどうでもいい音だったが、なぜか今日だけは、もう少し聞いていてもいいと思った。




