Ep58: 【長生きした者の教え方】
ゼルは一人で立っていた。胸の傷は塞がりかけていた。傷そのものは問題ではない。問題は別のところにあった。ゼルは右手を握り開いた。感覚を確かめるように。もう一度握る。
何も、来ないよな。
体の内側を探っても、いつもそこにあるはずの魔力の手応えが一切ない。空に手を突っ込むような感触だ。
思わず舌打ちが漏れた。分かっていたことだ。『参噩』を使う前から分かっていた。
千五百年かけて作った空間操作の極致。
その代償は、三日間の魔力喪失だった。
分かっていた上で使った。
だから文句を言う筋合いはない。それは理解している。
それでも、と思う。
ゼルは海の方角を見た。アドネの港から逃げた船団は、もう水平線の向こうへ消えているだろう。歩いて追いかけられる距離ではない。テレポートも、体力も、今の自分には何もない。
「……逃がしたか」
まあいい。
人間は、逃げるために生きている生き物だ。
追跡より先にあの二人を始末すべきだったか。いやあの状況で『参噩』を使わなければ、男が次の羊皮紙で何を出すか分からなかった。未知を許容したまま戦闘を続けるのは悪手だ。判断は間違っていない。
間違っていないが、気に食わない。
そして建物の影で、ルーラは息を殺していた。正確には息ができるかどうか自体が怪しいほど、全身が疲労で固まっていた。壁に背中を押しつけ、膝を抱え、スライムとしての体が恐怖で微妙に液状化しかけながら、ずっと震えていた。
見ていた。全部、見ていた。見たくなかった。
それでも、目が離れなかった。
——全部。見ちゃった。
そしてゼルが叫んだ瞬間、世界から音が消えたことも。あの瞬間の感覚はルーラにはうまく言語化できなかった。
ルーラは人間の戦いに怯えていた。
ゼルが振り返って「急ぐぞ」と言うと、ルーラは情けない声を上げた。
「ひゃっ」
「……何だその反応は」
「いや、だって、急に——」
「お前が怖くて隠れてるのは分かった。ただ怖いだけで終わりか」
言葉は刺さったが間違っていなかった。ルーラは立ち上がった。膝と腰が疲弊して上手く立ち上がれない。
ゼルは広場を見渡した。
「ここを魔王城にする」
「……魔王、城?」
「新しい拠点だ。魔王城と呼ぶのが適切だろう」
ルーラは一瞬、言葉の意味を飲み込めなかった。
「え、ここを魔王城に? 城、じゃないですよね、ここ」
「今はな。整備する」
ゼルは簡潔に言った。
「ルシアナ王国は海の向こうだ。陸路の補給線を断てば、大規模な侵攻には相応の準備が必要になる。海岸線を押さえれば海路も管理できる。内陸に要塞を作るより、港湾都市を抑える方が攻守両面で合理的だ。アドネは広い。住民も逃がした。使い勝手はいい」
淡々と語るゼルをルーラはぼんやりと見上げた。
「……あの、ゼル様」
「何だ」
「足、痛くないですか」
ゼルは止まった。
「何の話だ」
「だって魔法使えないですよね。テレポートとか。さっき怒ってたから」
ゼルがじろりとルーラを見た。
「見ていたのか」
ルーラはコクリと頷く。ゼルはゆっくりと歩き始めた。拠点として使える建物を物色するらしい。その横をルーラが小走りでついていく。
「三日だ」とゼルは言った。
「三日間、魔法が使えない。その後は戻る。それだけだ」
「それだけ?」
「追手が来ても対処できないとは言っていない。体術だけでも、雑魚を相手にするなら問題ない。ただ——」
ゼルは少しだけ間を置いた。
「余計なリスクは避ける。三日は大人しくしていろ」
それがゼルにとっての正直な話だった。あの船に乗っていた精鋭騎士たちが引き返してくる可能性は低い。しかし万に一つ、リスクのある戦力が接触してくる可能性が、今の三日間は通常より高い。それは認めた上で、動かなければならない。
***
半日で、世界は変わった。
逃げた船が港に着くと、すぐさまそのアドネの一件は特別に速く世界へ広まる。
Sランク勇者、〈ガルド〉〈ライラ〉〈ジェドルド〉死亡。
Sランク勇者、〈ボンス〉と〈ネネ〉行方不明。
アドネ近海の船一隻、沈没。
情報が重なるたびに、受け取る側の顔色が変わった。どの街もどの城も、一様に静かになった。
ただ、その事実を目の前に置いて、言葉を失っていた。
魔王が、本物だった。
噂でも誇張でもなく——ゼルという存在が、終わりとして世界に認識され始めていた。
魔法学院でも同様だった。周囲で他の生徒たちがリンたちの無事の帰還に泣いている。声を上げて泣いている子もいれば、ただ魔王に呆然としている子もいた。
リンは泣かなかった。
泣けなかったではない。泣くことを自分に許さなかった。
エリア様は生きている。あの人はああいう人だから絶対に生きている。
そう思うことにした。そう信じなければ、自分がここにいる理由が消えてしまう気がした。
魔王への怒りは、ありすぎるほどにある。
***
遠く、陸の方向。アドネとは別の場所の森の中で、二人が静かに動き始めていた。
リナは剣の手入れを止めた。
ゼルと同じ時代を生きた女だった。
「私、あいつに死んだと思われてるのかしら」
届いた報告書を閉じた。彼女は感情を表に出さない人間だったが、その目が細くなったのを、隣にいたバラルガだけが見ていた。
「行くか」とバラルガが言った。
「ええ」とリナが答えた。
荷物をまとめ、それぞれの準備を始めた。この二人がアドネへ向けて静かに歩み始めていることを、ゼルは知らない。
***
夕刻、ゼルとルーラは貴族の屋敷を仮拠点に定めた。ルーラは与えられた部屋の隅で、小さくなっていた。壁を背にして膝を抱えている。さっきから何かを言いたそうにして、言えずにいる。
しばらくして、ルーラが口を開いた。
「……強くなりたいです」
ゼルは振り返らなかった。
「今日、見てたら……ルーラ、何もできなくて。足手まといで」
声が震えていた。しかし今度は恐怖からではなかった。
「魔法を教えてほしいです。ゼル様にしか頼める人がいないから。ちゃんと強くなりたいから。お願いします」
ゼルはしばらく黙って悩んでいた。
スライムが魔法を習得するための最適な学習はどうなるか、という問題ではない——いや、それもあるがそれ以前に、そもそも俺は誰かに魔法を教えたことが、一度もない。
教えようとしたことも、一切ない。
ゼルの空間魔法は、千五百年かけて体得したものだ。理論から入ったわけではなかった。ある日、空間の歪みが見え、触れたら動いた。動かし続ける。試して失敗するその繰り返し。なぜ門が開くのかを言語化しろと言われたら正直、答えられない。
感覚だからだ。門を開く時も、門を閉じる時も、斬撃を飛ばす時も。すべて感覚で行っている。
ある日昔の仲間に質問された時のこと。そいつに「門を作るってどんな感じ?」と聞かれたら、ゼルには「ふわっとぞわっと、くるりって意識を広げる感じだ」としか答えられなかった。
これは、どうしようもない。
「……聞くが」
「はい」
「お前は今、魔法が使えるか」
「えっと……なんかたまに、液体の形を変えられるような気がします。でも理屈は全然わからなくて」
ルーラのあれは魔法じゃないのか? 自身の体の一部を放出している用に見えたが……。
「もしや素体か」
「そたい?」
「そこから先の話だ。一般的な魔法の体系、属性の分類、魔力の操作法——お前に必要なのはそういう基礎で、俺はその基礎を論理立てて教えることが」
自分で言っておいて、認めたくない気持ちがあった。だが事実は事実。
「苦手だ」
ルーラが、きょとんとした顔をした。
「……え」
「俺は感覚で覚えた。理屈ではない。なぜ空間が歪むかと問われれば、歪むからとしか答えられない。それを人に教える言葉を俺は持っていない。千五百年かけて一度も考えなかった」
ルーラはしばらく、その言葉を咀嚼するような顔をしていた。
「それって……ゼル様が、教えるのが苦手ってことですか」
「そうだ」
「……1500歳で」
「そうだ」
「魔王なのに」
「うるさい」
ルーラは何とも言えない顔になった。笑うべきか泣くべきか困っているような顔だった。
ゼルは立ち上がった。
「ルーラ」
「はい」
「そうだ魔法学院へ行け」
「はい」
沈黙。
「……はい!?」
「この世界で最も体系的に魔法の基礎を教えられる場所だ。この大陸で、一般の魔法使いを最も効率よく育てる実績がある。お前に必要なのは俺の感覚論ではなく、理論と段階的な訓練だ。そこへ行けば揃う」
「いや、でも……学院って、人間の学校じゃないですか。ルーラ、スライムですよ。というか魔王の眷属ですよ」
「だから行くのが難しいとは言っていない。入れるかどうかは入試結果次第だろう」
「入試!?」
「実力があれば入れる。なければ入れない。それだけだ。それにお前の顔を見たのは、勇者たちだけだ。幸いその勇者は俺が殺した」
「いやいやいや、ちょっと待ってください、それはあんまりにも——」
「俺が三日間、大人しくしていなければならない」とゼルは遮った。「その間、お前は学院への入学方法を調べろ。動ける時間を無駄にするな」
それだけ言って、ゼルは窓の外を見た。アドネの夜が静かに下りてくる。
「……学院に通うなんて」
「なるんだ。俺がそう言ったから」
「はあ……」
気の抜けた返事だった。




