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Ep57: 【遠方へ逃げて】

 港に五百人がいた。手も足も出ない、出してはいけない精鋭騎士団と七人の魔法学院の生徒たち。アドネの住民。


「これ、まずいよ。どうすんの」

全員が同じ恐怖を抱えて、桟橋の上に押し合っていた。遠くで建物が倒壊する音が響くたび、誰かが肩を震わせる。


魔法学院代表の金髪の少女リンは、甲板の手すりを握りしめていた。見えなかった。戦場は街の中心で港からは建物に遮られて直接は見えない。


 でも空が歪み、色が変わったのは分かった。あれがゼルだ。あれが魔王の力の余波だ。


「リン先輩、あの人たちは……」

隣に立つ下級生、サシュナが震えた声で言いかけた。


答える前に喧騒が上がった。桟橋の入口。人波を割るようにして、エリアが走ってきた。白い聖女服の裾が泥で汚れ、足元はすでに血と砂埃で黒ずんでいる。その後ろから住民が続々と流れ込んでくる。老人、子供、怪我人——どれだけ走ってきたのか、全員が必死の形相だった。


「船を出して!」

エリアの声が港全体に通った。精鋭騎士の一人が進み出る。「エリア様、しかし勇者たちが——」


「分かってる! 彼らは勝ちます。あの人たちは、そういう人たちです。だから私たちは生きて待っていなければならない。勝った彼らが帰ってくる場所を、用意しておかなければならない」


騎士たちが、互いに顔を見合わせる。エリアは振り返らなかった。住民たちを誘導しながら、同時に船の数を数えていた。「重症者……私たちの枠は足りないか……」


「私たちは残れます! 降りれますから——」

声を上げたのはリンだった。


「そ、そうですよ。僕たちは、大丈夫です。王立ルシアナ魔法学院の生徒なんですから」

前髪をおろした顔が見えない男子生徒、ミストがボソボソと呟いた。


学院の生徒たちは何も言わず頷いた。

迷っている顔は、誰もしていなかった。


エリアが振り返った。

「駄目です」


静かだった。しかし有無を言わせない声だった。

「あなたたちは乗ります。乗って逃げなさい。これは命令です。勇者の一員としての命令です」


「でもそうしたら——」


「未来を持つ人間が、今ここで死ぬ必要はありません」

エリアはリンの目をまっすぐに見た。その瞳の奥に何かがあった。不安もあった。恐怖もあった。それを全部、笑顔の裏に押し込んで——それでも、微笑んでいた。


「絶対生きて帰るから」

リンは泣かなかった。泣いていい場面ではないと、全身で分かっていたから。ただ唇を噛んで、頷いた。


船が動く。

沖へ向かう。

桟橋が遠くなる。

エリアの白い姿が小さくなっていく。


甲板にしがみついたまま、リンは歯を食いしばった。胸の中で何かが煮えていた。苦しみや悲しみとも呼べない、もっと根源的な煮え滾るような——怒り。


 私たち——人間の尊厳と誇りを……魔王!


ゼルの胸の傷はまだ塞がっていない。血が垂れている。ネネの斧が来る、そして回避する。ボンスが後退しながら杖を構えている。


 残りの魔術はあといくつだ! 杖の中に入れた羊皮紙、それが発動源となって魔術を解放。

 次は何が出る! 何が出る!!


ゼルは一瞬、視線を動かした港が見えた。沖へ向かう船が見えた。民間人どもがこの街を見捨てて自分の命だけ抱えて逃げていく。


「……鬱陶しいにもほどがある」

勝敗のついた戦場から逃げる者を見るのは好きではなかった。


ゼルはネネへの斬撃を止めた。右腕を港へ向けた。


エリアはゼルから出る不穏な空気を逃さなかった。


 奴の魔力は強大だ。だからこそわかる。アドヴァントが、来る!


エリアが叫んだ。「進んでぇぇぇぇ!!」


 一センチでも先へ——


その声が届いた瞬間、ゼルの指先から『アドヴァント・カスケート——ポイントセット』が解き放たれた。


展開する空間断絶が、直線で港まで飛ぶ。

船の一隻がただ、刻まれた。


叫び声があったかもしれない。あったはずだ。しかしゼルには聞こえない。ただ一隻分の質量が細切れになって海に沈んでいくのが見えて、それだけだった。


「——っ!!」

ネネが拳を強く握った。怒りで多少は展開できる六本の腕を全力で展開し、ゼルへ向かう。それでもゼルはすでに向き直っていた。


「うるさい」

両腕を交差させ、開く。


「『アドヴァント・カスケート——リボリュッテ』」

斬撃が門をくぐり、別の角度から再びネネとボンスを狙う。回避してもその先にまた来る。回避不能の多段斬撃。


それでもネネの頬を、赤い線が走った。次いでボンスの左腕へ。

血が飛んだ。


ボンスは涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、杖を両手で握り直す。残りの羊皮紙を一枚、引いた。


黒い紙が燃える。

次の瞬間、ゼルは気づいた。


 動けない!

 テレポートが使えない。アドヴァントが使えない。

 もしや——


「さっきの魔法か!!」


ネネが踏み込んだ。

斧が胸に突き刺さった。

さらに深く押し込む力が来て、二本目。

腕の中から必死に生成した斧で、三本目。


ボンスは口角を上げ、サングラスを手で着け直した。


 10秒、それだけの座標固定でも……お前は倒せる。


「どうだよ、最強魔王!! 眼中に無かった男が、ここまで活躍した屈辱が! 味わえたか!!」


ゼルは斧の柄を掴んだ。引き抜く。血がぽたぽたと落ちる。一滴ではなく地面へ滴り落ちる。自分の血が地面に広がるのを、ゼルはしばらく見下ろした。


ネネとボンスが、距離を取って構えている。息を呑む音が聞こえた。


ゼルは顔を上げた。

笑っていた。しかしそれはもう、余裕の笑みではなかった。唇の端が引き攣り眉間に血管が浮き、目の奥に爛々と燃える何かがある。


「お前」

息が、漏れた。

「お前ら、そんなもので俺を殺せると思うな!」


その一瞬だった。瓦礫が落ちる音も遠くで鳴る波の音も聞こえなくなる。ゼルの呼吸音も、ネネの息遣いも、ボンスの足音も全部、消えた。


ゼルはゆっくりと右手を下ろし、地面に触れた。それだけだった。指先が石畳に触れた。それだけの動作なのに、その瞬間、ネネは自分の足の裏から何かが伝わってくるのを感じた。


「なに、これ……おい」

ボンスが呟いた。自分の手が震えているのに気づいていない声で。


ゼルが立ち上がった。

「『参——』」

ゼルの全身から何かが溢れた。色のない膨張が、ゼルを中心として広がっていく。魔力というより、空間そのものが彼の意志に従って書き換えられていく。ネネは本能的に逃げようとしたが、足が動かない。ボンスが杖の羊皮紙を引こうとした。指が動かない。


ゼルが右手を持ち上げた。

足元を指差した。

広場の床へ門が開く。下向きに。しかしその先にあるのは地下でも地中でもなかった。


暗かった。

圧倒的に暗かった。


足元に広がる暗黒の向こうに、光の粒が見えた。星だとネネは思った。星が見える。なぜ地面の下に星が見える。なぜ地面の下があんなに、遠い——


地面へ飲み込まれる感覚がした。空気がなかった。息ができない。


目を開けたら浮いていた。全身が捻り潰されるように痛い。


 痛い、痛い、痛いっ!


「っ、ぁか——!!」


 苦しい、苦しい……。


ゼルが口を開いた。

音は届かなかった。しかし唇の形が、読めた。

「『参噩(さんがく)』」


ゼルは下へ開く門の上で浮いている。そしてゆっくり門を閉ざした。ネネとボンスの視界から地球が消える。


代わりに——暗黒と無数の星が、広がっていた。

どこまでも、どこまでも、綺麗だった。

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