Ep56: 【弱者の一撃】
先程より多く、数千のネネがゼルを囲む。石畳の広場は今や、人間一人が立てる隙間もないほどに埋め尽くされている。
どれが本物か。
どれが土の人形か。
完璧な複製、完璧な包囲——完璧な、手のはずだった。
ゼルは笑った。
小さく、しかし確かに楽しそうに。
「さて」
呟きながら、右手を振る。大した動作ではない。武器も魔法陣も関係ない。ただ指先から生じた空間の歪みが最も近くにいたネネの一体を土に戻した。
音もなく崩れる。形を保てなくなった人形が石畳に散る。
「なるほどね」
人の中を散歩するようにゼルは歩いた。手が触れるたびに、あるいは視線が向くたびに、奴らが崩れていく。奴らは反撃しようとする。六本の腕が動き、弾丸が生成され、しかしその動きは——
遅い。
ほんの少しだけ。ゼルは弾丸を躱しながら、その差異を観察した。
最初の一撃と比べて、動きの精度が落ちている。弾丸さえ遅くなっている。複製体同士の連携がコンマ数秒噛み合っていない。
意識が追いついていないのだ。
魔力は無限だ。奴が底を抜いてやったのだから。しかし魔法とは魔力だけで動くものではない——
ゼルは知っている。精密な魔法ほど、それを制御する術者の意識を喰う。複製体を一体動かすのがどれだけの集中力を要するか。それが数百体なら、数千体なら。
魔力は無限でも、ネネの神経は一つしかない。
「消耗してるな」
ゼルは立ち止まった。
目を閉じる。
視覚を遮断した暗闇の中で、空間に満ちる魔力の流れが像を結ぶ。何千もの複製体はどれも同じ魔法であり魔力の気配を放っているが——それぞれを操る糸の根本は、一点に収束している。
見えた。
広場の東端。他の複製体よりわずかに魔力密度が高い一点が、じっとしている。
ゼルは目を開けた。ネネは動揺し一斉に複製体をゼルへ向かおうとする——その一瞬前に。
「『アドヴァント・カスケート』」
音もなく、どこまでも、砂が降った。土に戻った複製体の残滓が石畳を薄く覆い、その中に一人だけ、立っているネネがいた。六本の腕のうち増設した四本を千切られ、両腕だけになって膝が震えている。
それでもなお眼光だけは死んでいない。
「……まだやる気か」
ネネは歯を食いしばり、両腕を地面へ向ける。土が盛り上がる。しかし今度は形が歪んだ。人の形になりかけて崩れる。また盛り上がってまた崩れる。
なんで……、崩れる?
四本の腕の形を作ろうとして生成したドロドロの土が、地面にへばりついて動かない。
ネネ自身も、複製体を大量展開するために使い果たしたのは魔力ではなく、自分の神経そのものだったのだと、今さら理解した。
「限界か」
ゼルは静かに言った。
ネネはゼルを睨む。
「死ね」
その言葉と同時に——
遠くで紙が燃える匂いがした。
なにが、起きた?
なにが、起きた?
ゼルには分からなかった。直前まで確かに自分はネネへ向けて斬撃を放とうとしていた。それだけは覚えている。しかし次の瞬間には——
胸が燃えるように熱かった。何か刃が自分の胸をめちゃくちゃに引っかき回したような、内側から外側にかけて肉と骨が抉れているような、そういう感触が後から後からやってくる。
ゼルは自分の胸を見下ろした。胸の中央から左肩にかけて、斧か何かで叩き割ったように布ごと肉がギタギタに裂かれていた。骨が外から見え、大量に血が出ていた。石畳に黒に近い赤が広がっていた。
いつ。
いつ、これが。
時間が飛んでいる。自分の知覚の外で、何かが起きた。
「今ので終わらないんですかあ!!」
絶叫が広場に響いた。サングラス越しでもわかる涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔面を晒しながら、ボンスが杖を握りしめて立っていた。
全身が震えてる。それでも走ってきていた。ゼルへ向かって。手には太い特製の杖、その下部に黒い羊皮紙が束ねて差し込まれているのが見えた。
一枚、すでに燃え尽きていた。
「あ、あああ、効いたわ。効いたわぁ! 時間停止、効いたわぁぁぁぁ!!」
ボンスは泣きながら叫んでいた。
「俺は弱い! 魔法も使えない! だから知識だけで、卑劣に生きてきた! でも今日こそは! 今日だけは! 弱い俺があなたに! 一発入れてやりましたよ魔王!!!」
ゼルは、ゆっくりと顔を上げた。
——ただ、その赤い瞳に明確な色が宿っていた。
「……小細工を」
低い声だった。
今まで一度も聞いたことのない声だった。
「小細工を、しやがって」
石畳にひびが入った。ゼルが魔力を身体全体へ流す。
次の瞬間、ゼルの右腕が横に流れた。
音が遅れた。空間が裂ける音が聞こえた時には、ネネはもう地面に崩れ落ちていた。両膝から下が断たれていた。
「ネネ!」
ボンスが駆け寄る。ネネは声を上げなかった。
ボンスは杖をネネに向けて杖の下部を強く叩いた。
一枚の羊皮紙が燃えて灰になり、空へと舞った。
次の瞬間、ネネの断面から肉が生えた。骨の断面から白い組織が泡立つように膨れ上がり、筋肉が編み上がり、皮膚が覆っていく。聖女エリアの"白壊"の回復魔法——それと同等の速度で、十秒も経たないうちに足は再生した。
当たったッ! 再生!
「走れますか!」
「……走る」
「行きますよ!!」
ボンスはネネを担いで走り出した。涙が横に流れた。
怖くて膝が砕けそうで、でも止まったらこれは死ぬって!!
背後で音がした。ゼルの声が広場全体に響いた。
「ふざけるな!!」
怒鳴り声だった。
あの魔王が吠えた。ボンスは喜びと共に全身の毛が逆立つのを感じた。
そして魔力の圧が、物理的な風圧として背中を叩く。振り返れば——見たくなかったが一瞬だけ振り返れば——門が渦を巻いていた。空の色が変わり始めていた。
これは、しゃれにならない。
「走れ走れ走れ走れ走れェェ!!!」
叫びながら、残りの羊皮紙が入った杖を握りしめた。
あと四枚。次に引くのは何が出るか、自分でも分からない。




