Ep55: 【"循環型空間接続"】
上と下、右と左が繋がっている。
その一言で説明できるはずの現象が、いざ体感すると人間の認識を根本から破壊してくる。
ネネは落ちていた。猛烈な速度で、底のない奈落へ。
しかし落ちているはずの遥か下に、また自分の姿が見えた。
落ちている自分が見えた。
そしてその更に下にも、また――
「……!」
思わず声を噛み殺す。
視界が万華鏡のように砕け散る感覚。
上を仰げば、無数のネネが落ちてくる。
下を見れば、無数のネネが落ちていく。
その全ての隣に、あいつがいた。
ゼルが、あの不敵な笑みを口元に張り付けたまま、悠々と同じ速度で落ち続けている。
「落ち続ける……」
「正確には“循環型空間接続”とでも呼ぼうか」
ゼルの声が、巨大な鏡の空間に響いた。
「足元の門から落ちると、頭上の門から出てくる。右の鏡に入れば左の鏡から出てくる。それだけの話だ」
「単純……」
ネネは奥歯を噛み締めた。
重力の感覚は確かにある。
確実に落ちている。風圧も本物。
なのに地面はなく、天井もない。
ただ鏡合わせに連なる自分とゼルの残像が、全方向に永遠に続いている。
三半規管が悲鳴を上げ、視覚と落下感覚が喧嘩を始める。普通の人間なら、とうに意識を失っているはずだ。
ネネは、普通ではなかった。
背中から腕が生える。
正確には、生やしたのだ。
肩甲骨の裏側の皮膚が盛り上がり、凝縮された土と鉄鉱石の粒子が高密度で組み上がる。
人間の腕とまったく同じ形状・質感・色合いの義肢を構成する。
一本。
また一本。
計六本の腕が、ネネの胴体を囲んだ。
「ほう」
ゼルの声に、初めて小さな興味の色が混じる。
近接戦闘の密度が跳ね上がった。
ネネの六本の腕が同時に動く。
ゼルが拳を突き出した。
本来の腕二本は正面からの牽制……だが、増設した四本が側面と後方をカバーするか。
「どんな魔法だ」
ネネは指の関節を変形させ、銃口状の開口部を形成する。
そこから圧縮した土粒子が、超高速の実弾として連射された。
ゼルは腹部に小さな円形の門を出現させる。
掌ほどの大きさの薄い鏡。
ネネの弾丸がそこへ入った瞬間、別方向から同じ弾丸が飛んできた。
自分の弾が自分へ返ってくる。ネネは身体を捻り、全弾を回避する。そしてそのまま距離を詰めた。
右の本腕で牽制の拳。
増設腕で首と脇へ同時多角攻撃。
その刹那――
ゼルの右拳に、紫が纏われた。
門を纏った。
理屈ではない。本能が告げた。
あれを受けたら終わる。
防いでも終わる。
触れた瞬間、消える。
ネネは全力で身体を後方へ投げ出した。髪の毛一本分の距離でゼルの拳が空を切る。
「悪くない反射神経だ」
ゼルは特に残念そうでもなく呟く。
ネネは距離を取りながら、急速に思考を回した。
触れた部分が消える……空間ごと別の場所へ繋ぐなら、防御は意味を持たない。
じゃあ試すしかない。
ネネは両腕を前へ突き出し、土魔法を全力展開する。
密度を極限まで高めた土と鉱物の壁。
厚さ二メートル。ゼルの一撃を止めるためではない。応答を見るためだ。
ゼルは迷わず、紫に染まった足で蹴りを放った。
壁が横に両断される。切断でも爆砕でもない。その部分だけが最初から存在していなかったかのように消えた。
残された断面は滑らかで、熱も変形もない。
ゼルは確信する。
土魔法か。
六本の腕。弾丸。今の壁。
すべてが繋がった。
こいつは自身の体組織の一部として土と鉱物粒子を生成し、その密度と光の反射率を精密制御している。腕も弾丸も、本物の肉や鉄ではない。極限まで圧縮された土の造形物だ。
「なかなか面白い、女よ」
ゼルが距離を詰める。
その瞬間――
空気が震えた。
ボンスの指はもう動かなかった。
血で滑って最後の術式が書けなかった。
「……クソ」
それでも彼は歯で小石を噛み、最後の線を石畳に刻んだ。
「出来た」
循環型空間接続の外側で、ボンスが魔法陣を完成させていた。
広場の石畳に刻まれた巨大な魔法陣。
直径十メートル。Sランク勇者ボンスの書いた術式。
魔力の門戸開放。
対象一名の魔力の蓋を、一時的に取り払う。
それだけの魔法だ。だが規格外の一手。
魔力とは本来、個人の器に規定される。どれほど才能があっても、一日に使える総量には限界がある。ボンスの魔術は、その上限という概念を消去する。
底が抜けて際限がなくなる。
無限に注がれる魔力。
彼だけが使える、彼が発明した魔法陣。
莫大な魔力の奔流が、ゼルとネネを閉じ込めた空間へ浸透する。
ネネの体内へ流れ込んだ。
「……!」
ネネは息を飲んだ。
ボンスの……。
身体の中で何かが決壊する感覚。
枯れかけていた川に大雨が降るような感覚。
知らず、笑いが漏れた。
ネネは目を閉じる。土魔法の本質を思い出す。
密度の制御。
光の反射。
この二つが完璧なら――
自分と同じものを作れる。
土が動いた。
虚空から粒子が集まり、凝縮される。
皮膚。
髪。
瞳。
衣服の繊維一本まで再現する。
ネネが、増えた。
一人が二人。
二人が十人。
十人が百人。
分身は止まらない。
完璧な複製。見分けのつかない土の彫刻が、落下空間を埋めていく。
上を見てもあの女。
下を見てもあの女。
左右も前後も――あの女。
ゼルは無数のネネを眺める。
どれが本物か。
普通なら狂乱する光景だがゼルは違う。
口元が弧を描いた。
悪くない、が――
この空間よりも、広場でその手を見たいものだ。
天井の門。足元の門。この二枚で循環型空間接続は成立している。
解除は一瞬だ。
ゼルは手を軽く振った。
天と地の鏡が消えた。
落下が終わり空間が現実へ戻る。
数百のネネの中に、
ただ一人だけ。
心臓が速く鼓動している女がいた。
ボンスが魔法陣の中心で告げた。
「どう? 魔王さん」
ゼルのその笑みは最初から最後まで消えていなかった。




