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Ep54: 【穏やかな美しい風】

世界が音を失った。最初に気づいたのはガルドだった。


「なんだ……」


耳鳴りではない。文字通り音が消える。石畳を踏む自分の足音が聞こえない。息が聞こえない。隣でライラが何か叫んでいるが、口が動いているだけで声が届かない。


そして次に、色が滲んだ。一瞬すべてが紫になった気がした。建物の輪郭がわずかにぼやけている。


 奴の魔法か?


ゼルの体が紫色に飲み込まれていく。


肆虐態(しぎゃくたい)・ラドウィドル。


ジェドルドが呟いた。声が遅れて届いた気がした。

「魔法の気配が……まるで違う」


紫色の門はゼルを完全に覆った。

ゼルはゆっくりと地面へ降りた。


 ただ立っている。それだけなのに、その圧倒的な存在感。

 やはり……これが魔王。


ジェドルドの額から汗が吹き出した。

その時、ゼルが拳を前に突き出した。


一歩も、動かなかった。拳が前方の空気に向かって、静かに押し込まれた。

 

 消えた?


拳が、空間の中へ吸い込まれた。すぐにガルドの右側の空気から、何かが飛び出した。


紫を纏った拳だった。ゼルの拳が加速していた。門の中を通過した瞬間に速度を乗せて、別の座標から射出されていた。


ガルドは反応した。大剣を正面に構えた。

「いや右——」

だが攻撃は正面ではなかった。左から来た。それも地面と水平に膝の高さから。


「がっ——!!」

ガルドの腹部へ拳が当たるが吹き飛ばない。衝撃は空中へ逃されていた。拳はガルドを貫いていたのだ。


「ッ! エリア! 特大の回復魔法をガルドに!」

ライラは一瞬ガルドを見てからというもの、ゼルから目を離さなかった。


 当たれば、即死。当たれば即死。


ゼルは拳を引き抜いた。それでもガルドは立っていた。血を吐き膝をついたが、立ちあがった。


エリアは走ってガルドへ近づいた。

「ガルドさん! 立ってはだめです、今治療しま——」


ガルドはエリアを手で静止した。

「大丈夫、だ。傷ついたのは腸だけだ。即死じゃねえ」

だが血を吐く。意識が朦朧とし始める。


 だめだエリア、お前が近づけばあいつの餌食になる。


手のひらで腹部を押さえようとした。

「なにも、ねえな」


 もう、だめか……。


「ああぁぁぁ゙!」

ライラが叫び、魔法を放つ。光のレーザーが一直線にゼルへ向かい、首へと直撃した。


当たったと驚くのもつかの間、レーザーが首の門へ飲み込まれ、返ってきた方向はライラの真上。

「——っ」

咄嗟に障壁を張った。レーザーが障壁で曲がったが、衝撃で体が沈んだ。


ボンスが叫んだ。

「まずい、まずいって!」


正解はなかった。全員が傷ついた状態。下手に攻撃すれば跳ね返ってカウンターを食らう。ゼルの拳が門を通るたびに、世界の別の場所に出口が生まれる。


入口と出口。しかも、避けても変化する。魔王は世界の座標を管理する怪物だった。


ジェドルドだけが動いていた。

他の勇者は、動けなかった。

右足を後ろに引き、剣を正眼に構えゼルを見据えていた。


 門の展開パターン、出口の座標の選択則。次にどこから来る!


 来た。

 左上。角度35度。


 剣で弾く——

 

だが弾くはずの剣をゼルの拳は貫通した。


 終わった、死ぬ。

 どんな守りも貫通……化物っ。

 ここまでか。


「諦めんなよ」

ガルドがジェドルドを突き飛ばした。


声に出す暇も無かった。一瞬見えたガルドの笑顔が、脳裏に焼き付いた。

ガルドは一瞬で消えた。


「ガルドォォ!! 」


そのゼルから目を離した一瞬、ジェドルドの右腕に衝撃が来た。別の門から射出された打撃だった。


音が消えた。

ジェドルドの右腕が消えていた。衝撃波が腕を包んだ瞬間、腕がそこに「ない」。痛みより先に虚無が広がる。床に何かが落ちたような音もした。


ジェドルドは自分の右肩を見た。

「……」


何も言わなかった。

ただ死んだ剣を左手で握り直し、膝をついた。


ボンスが叫んだ。

「ジェドルドッ!!」


色が滲む。音がずれる。現実の縫い目が見えてきそうだった。


 これは魔法か。物理か。どちらでもない。空間の規則そのものを、この男が書き換えているだけに違いない。攻撃を防ぐ方法が存在しないのは、攻撃がどこから来るかを世界の法則ではなく、この男が決めているから。


 ゼルはまだ動いていない。ジェドルドはその垣間見える冷酷な目を見て苦笑いした。



広場の端。ネネの斧がまた宙を舞った。一本ではない。七本が異なる軌道で同時に回転しながら迫ってくる。逃げ場を完全に潰す配置だった。


 ルーラは動かなかった。

 いや——動けなかった。


体の左半分が、まだ再生の途中だった。腕が半分溶けて足の輪郭がぼやけていく。翠閃を三回放った代償だ。自分の質量を削って放つ技。スライムの体は弾丸になるがその分だけ体が減る。


斧が来る。

ルーラは目を閉じた。

逃げない。この場所から、一歩も退かない。


斧が到達する0.3秒前。ルーラの体が完全に粘体へ変化した。固体の輪郭を捨て液体へ。すると斧は通り抜ける。ルーラの体がその斧を包み込み、回転を奪い吐き出した。


「……」

ネネの瞳がわずかに細くなった。ルーラは固形に戻り、小さく拳を握った。再生が始まっている。溶けていた左腕が戻っていき、削れていた体積が満ちていく。魔力を消費しながら質量を再構成している。


ネネは不思議そうに首を傾けた。


 何、これ。


スライムは体液を再生できる。核が無事であれば、時間をかけて体積を回復できる。


これは生物的な再生ではない。魔力による肉体の再構築。とても高度な、回復魔法の類とネネは考えた。スライムにはできない。どんな生物でも魔力で肉体を直接設計して直せる存在は、ごく限られている。


ネネの思考が、一点に収束した。

魔王の血を受けた者だけが持つ、特性。

核の再定義。核がない存在。

非魔物へ。


ネネはルーラを見た。緑の髪と黒い瞳。人の形をしているが——内側に流れているものが違う。


「何者」


ルーラはアワアワして戸惑う。

「ゼル様の仲間です」


それだけを言った。

ネネは斧を構えなかった。

そうじゃないとでも言うように、少し間があった。


「魔物?」


ルーラは唸り声を上げながら悩む。そして静かに頷いた。

「うん」

掌を前へ向けた。


「人間じゃなきゃ、だめ?」

ルーラは手のひらを向ける。翠閃が放たれた。



数秒後。

肆虐態を解いたゼルが空を見ていた。

アドネの朝空が紫色に滲んでいた。


悪くない、とゼルは思った。足元でライラが立ち上がろうとしていた。


 三度目だ。倒れるたびに立つ。折れた肋骨が動くたびに音を立てている。それでも俺の足から手を離さない。


 ライラが障壁を張り直している。五回目だ。毎回、前より薄くなっている。魔力が底をついてきている。それでも張り続けている。


ボンスがまた何かを書いている。羊皮紙ではなく小石で石畳に直接、魔法陣を刻んでいる。逃げながら、転がりながら、それでも書き続けている。魔法陣はすでに七割完成していた。


「……小賢しい」

ゼルは小さく呟いた。


 1500年、何度も何度も勇者たちと戦ってきた。無数の英雄を倒してきた。だがこれだけの回数、立ち上がる者たちを見たのは久しぶりだった。


足音が聞こえた。

一人ゆっくりと、広場の中央へ向かってくる足音。


ゼルは振り返った。

近づいてくるのはネネだった。ルーラとの戦闘を途中で止めていた。斧を手に持ったまま、こちらへ向かってくる。


「ちょ、待って」

ルーラがネネの歩みを止めようとしたが無視した。


ピンクの瞳が、ゼルを見ていた。

揺れていなかった。


今まで抑え込んでいた魔力が、ゆっくりと解放され始めた。気配が変わる。それまで最小限に閉じ込められていたものが外へ溢れ出した瞬間、広場の空気が重くなった。


ライラが足をより強く握りしめる。

ボンスは血だらけの石で石畳を削った。


「あと少し……あと少しだ……」


それは座標固定ではない。

封印魔法でもない。


魔王を苦しめる魔法陣だった。


誰も声を出さなかったが、ネネがいるという事実が彼らの希望を突き動かす。

ネネの魔力が、ゼルの魔力と、初めて同じ高さで向かい合った。


「魔王」

ネネが口を開く。声はとても静かだった。感情の起伏がない。ただ芯だけがあった。


「死ね」


ゼルは外套の裾が揺れるのを感じた。


『死ね』

小さい頃、誰かにそう言われた記憶が蘇る。俺の父上を殺した勇者。


ゼルの右手がゆっくりと前へ伸びた。門が開く気配が空間全体に広がっていく。まずはライラを門で天空へ移動させる。必死に掴んでる手をゼルは足で振り払った。そして門の密度を上げて鏡へ変化。これを入口の地と出口の天として設置。ゼルとネネは落ち続けるループに入った。視界には同じ風景が繰り返される。


紫とピンクの二つの魔力が交差する。上空から落ちる時に感じる弱風は、彼らだけが感じられた。

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